ちょっと待てぃ!!ボタンが欲しかった

この春、十年ちょっと住み慣れた街から引っ越した。

恋人との嫌な思い出から逃げようとか映画みたいな大それたきっかけではなくて、単に家賃がかなり安い勤務先の借上げマンションの一部屋に当選したという、ただそれだけの理由だった。

山手沿線ということもあって、これまで生活圏内として味わえなかった新鮮な毎日を送れていることが何気なく嬉しい。もともと行けつけだったサウナが徒歩の距離になったし、大好きなケンタッキーやロイホ、バッティングセンターや24時間営業の本屋だってある。そしてなにより、…んーと、これ言っていいんすかね。なかなか言いづらいんすけどね、駅前に風俗店が点在してるんすわ。

無論、吉原や飛田新地のような遊女ゴッサムシティといったテーマパーク感はさらさらない。本当に場末の、今すぐにでも取り壊されそうな雑居ビルに佇む店舗がほとんどである。老舗店と思われる看板はどれも色褪せてしまっているし、儲けはないのだろう。東京五輪開催にあたっての浄化政策や昨今のコロナ禍をよく生き残れたものだと感心してしまう。

さて、今日モスバーガーのいつもの座席に腰掛けながらウーロン茶をストローでチュウチュウ吸っていると、ふとした名案が稲妻のように脳内を走った。「そうだ、ピンサロ行こう」。JR西日本からキャッチコピーの剽窃だと訴えられるかもしれないが、確かにその言葉がよぎったのである。仕事で長く任されていたプロジェクトがようやくローンチの日の目を見たし、もうすぐでボーナスだって入る。衝動を抱えた男がやることは一択である。iPhoneの画面を点け、グーグル先生に最寄の駅名を爆速入力し、教えを乞うた。地区ランキング2位のお店。そのお店のトップランカーとして飛び込んできたJPEG画像は、まるでグラビアアイドルのようなHカップの女の子だった。しかも本日出勤中だという。WHY JAPANESE PEOPLE…  なぜこんな街で働いている?少し訝しんでしまう。本当は釣りとしてサイトに載っけているだけで全然在籍していない可能性だってあるし、いわゆるパネマジ、いざ会ってみれば写真と実物が全然違ったという被害談もよく聞く話である。高齢者の方々は反社組織による特殊詐欺に気をつけないといけないが、独身男性は風俗周りのこういった詐欺にも注意しなければならない。グーグル先生の協力のもと、さらに入念な調査を進める。各種クチコミサイトによればその子は確かに在籍していて、彼女を褒め称えるコメントも目立った。早速店舗に電話をかけた。…しかし流石の人気嬢、ボーイのお兄さん曰くその子の受付は終了してしまったという。

ジーザス。家鴨山は目を瞑った。出鼻をくじかれてしまった。僕はどうすればよいのだろう?どこに行けばいいのだろう?小沢健二も歌っていたように考えた。僕らは何処(どこ)へ行くのだろうかと、何度も口に出してみたり、それはそれは熱心に考えた。熱心に熟慮を重ねた結果、3,000円ポッキリで遊べるという悪魔のような店があることを知り、深く考えないまま、数分後にはその店の近くにあるスーパーの駐輪場に家鴨山はママチャリを停めていたのであった。悪魔といえば余談ではあるが、ブルースの神様として知られるロバート・ジョンスンは、十字路で悪魔に魂を売り渡す契約を結び、かの魔術的なギターテクニックを手にしたという…。

家鴨山は悪魔の店の玄関をくぐり、受付の白髪混じりの親父に3,000円を手渡す。案内された薄暗いブースに腰を下ろし、待つこと数分。やってきたのはババアだった。生物学的な観点で辛うじて女性と表現できるかもしれないが、形容しうる日本語は、もはやババアしか残されていなかった。齢(よわい)━━年齢ではない、齢(よわい)である━━は50手前だろう。能面のような眉。顔立ちとしては福岡のお局ローカルタレント山本華世にアインシュタイン稲ちゃんを掛け合わせた感じといえばよいだろうか。思い出すのも忌々しいのでこの辺にしておく。

画像はイメージです
画像はイメージです
画像はイメージです

「こんばんは」キャミソール姿のババアがニュッとブースに侵入した刹那、家鴨山は天を仰いだ。ジーザス(30分ぶり・2回目)。ピンサロに行きたいという感情を制御できず、安かろう悪かろうという市場原理の根本的な部分をすっかり忘れていたのだった。競馬で負けを取り返そうとしてさらに負けてしまう日曜日昼下がり特有の感覚も、同時になぜか思い出した。

今日は仕事帰りなのか、土日は何をするのかとババアは定型文的なジャブを繰り出す。家鴨山は既に放心状態であり、当たり障りのないレスポンスをするしか術がなかった。 ChatGPTとの会話ぐらい味気ないラリーが続く。むしろChatGPTにこの会話を任せたかった。こういう非常時のためにこそ、人工知能は活用されるべきではないのだろうか。検討してみてください、河野太郎デジタル大臣。

「じゃあ脱いで」とババアの命にしたがってスラックスとパンツを脱ぎ捨てたらそのまま放置され、心の中のリトル粗品がいや畳まんのかい!!とツッコミを入れたのだが、そんな些細な話はもうどうだっていい。

ババアはひたすら音を立ててフェラチオに励むが、家鴨山自身のソレは当然のごとくだらんと項垂れたまま。追加料金を払ってでも、一刻も早くこの半地下のラウンジから逃走したい。生存本能がそうチンポに訴えていた。これが夢ならば覚めてほしかった。父親を癌で亡くして以来に、そう強く願った。せめてこの状況を一時停止できないだろうか。この滑稽なシチュエーションを俯瞰で見て、自分で笑い飛ばせば少しは気が紛れるかもしれない。そうだ、相席食堂のあのボタンがあれば!…あの「ちょっと待てぃ!!」ボタンがあれば、それを押すだけでいい!ブースの仕切りに片腕をかけ、家鴨山は薄暗い店内を必死に見渡した。

しかし残念ながら、ここは大阪朝日放送のスタジオではない。千鳥のふたりもいない。ババアが立てる下品な唾液の音と有線の安っぽいトランスミュージックだけが、空虚に木霊していた。

結局家鴨山は果てることなく、ババアとキスもせず、地獄を耐え抜いて悪魔のような店を去った。見方次第では、貞操を守った純潔な新郎のような頼もしい背中をしていたのかもしれない。

気を取り直してリベンジしようと別店舗を調べたところ、明日やついフェス前に行けんじゃね?というプランがひとつ脳裏に浮かんだが、それもまた地獄の始まりだってことはありうる。性欲とはいくつになっても悩ましいものである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?