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徒然

自分の尺度。つい最近まで結構頼りにしてたというか、芯が丈夫なものになって来たと思っていたのに、ここ数日とても揺らいでいる。

この旅を通して幸せな出会いがたくさんあって楽しくて嬉しくて、こんな日々が続けばと思いながらベッドに潜る。携帯画面を開くとなんだか切ない。私(たち)は画面の中の狭い狭い世界に生きていて、旅で出会う人たちは画面の外を生きているなと痛感する。

例えば、少し知っているだけだった人がパブリックで上手に貪欲にカツヤクしているのがチラチラ目に入ってしまう。自分が遠い鑑賞の世界として楽しんでいたところに面識のある面々が混在し始めることが、無性に気になる。気になってしまうと、作品を作品として楽しめなくなるクソみたいな自我。そんなの、弟が役者を目指している時点でもうボロボロにされているのだけど、正直言って弟の舞台を観に行っても演技ばかりが気になって作品として楽しめない。親が褒めているのを見ても、親バカフィルターが掛かってるのかなと思わずにいられない。だから本当に私は褒めないし素っ気ない。弟には申し訳ないと思ってるけど。知ってる存在が私の憧れに混ざって来るほど私は冷めて別の分野に熱を入れ始める。もし今、私の知り合いで声優を本格的に目指して養成所に通うような子が現れちゃったりしたら、私はもう声優を好きだとか言わなくなるかもしれない。

音楽はもうずっとそうだ。憧れる気持ちはまったく芽生えなくなった。いや、というか、遠く遠くに手を伸ばして憧れている。来日すらしてくれないアーティストとか、逆に日本でメジャーになり過ぎて所謂音楽好きが語ろうともしないようなアーティストの音楽に最も癒され、落ち着きを与えてもらっている。色々知る以前に好きになったアーティストたちは永遠だ、永遠に私の憧れで居続けてくれる、多分。本人に出会ったりしない限り。恥ずかしい話をすれば、最近は自分が今作っているとある曲にめちゃくちゃ依存していて、この曲を世に出してしまったら私の心が一つ消えてしまわないか、なんて危惧している。くだらないけどほんとうに。完成しないことに甘んじて独り占めしている。あまり良いことではないと思う。

もっと外に、もっと身近に、わたしの心を分解してたいせつに保管するべきだ。画面の中にずっと支えられてきたこれまでの人生を否定するわけでなく、ただ今はもっと目の前のことに夢中になるべきだ。意識をぼやかして冷静なフリをするより、もっと感じて生きていきたい。それはまあとても辛いけど。どんどん逃げるのが得意になってる今、自分が何に囲まれて生きていきたいのかちゃんと考えなきゃいけない。まだ一番書きたいことが書けてないような感じがするけど、近いことは書いた。もういいから、今日も外に出て音を録ってこよう。

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