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君を好きでいること

私には大切な人がいる。
Seventeenのホシくんだ。

これだけSeventeenやホシくんのnoteを書きまくっておいて今更何をという感じだけれど、当たり前のようなこの2行でさえ、書くとき、口にするとき、私は未だに涙目になってしまう。
ホシ、호시、HOSHI、虎視
その文字列を見るだけでも、胸がいっぱいで何かが溢れそうになるのだ。

例えば私がこの世に生まれ落ちて存在していること。私が生まれる前は私がいない世界が当然だったのに、今はどうしようもなく世界に関与してしまっている。
ホシくんが心のド真ん中にいることも、私にとってはそれと同じようなことだ。
彼と出逢う前の私はKPOPに微塵も興味がなく、それでも他の好きなものに支えられて程々に生きていた。
けれどホシくんに出会った今、私の心の真ん中にはホシくんしか在り得ない場所がある。

リンゴを ひとつ
ここに おくと

リンゴの
この 大きさは
この リンゴだけで
いっぱいだ

リンゴが ひとつ
ここに ある
ほかには
なんにも ない

ああ ここで
あることと
ないことが
まぶしいように
ぴったりだ
リンゴ  作まどみちお

きっとこの詩における「リンゴ」は他のいかなるものを代入してもいいのだろう。
けれどホシくんは、私の心のたったひとつの「リンゴ」になってくれた。

ホシくんがたったひとり、心のド真ん中にいる。
ほかには、なんにもない。
これが“まぶしいようにぴったり”なのだ。


好きになった当初、私はホシくんの情報を貪るように集めていた。彼がどんな人間で、どんなことを考え、どう振舞ってきたかを知りたかった。
出逢えなかった5年分の悔しさを埋めたかった。
私もこれだけホシくんを知っている、こんなにホシくんを語れると自負したかった。

ずっと不安だった。
言語化できない「好き」は
市民権を得られない「好き」は
存在を許されないような気がしていた。
私が守らなければ誰がこの「好き」を守るんだと、自分の外に発信するかしないかは別として、一層言語化に勤しんだ。
けれど誰よりも「好き」の言語化=輪郭を欲しているのは私自身だった。言葉を通してその輪郭に触れていないと自分の「好き」という感情の実存を信じきれなかった。

けれど言葉によって輪郭をもたらすことは、そこに収まらなかったものを捨象することでもある。
ホシくんと向き合って自分の言葉に落とし込めば私とホシくんという二者関係はより鮮明になったけれど、それにつれホシくんという人間を見ることについては窓が曇っていくように感じた。
そのズレが、私の身勝手な「期待はずれ」とかそういうネガティブな感情に繋がってしまうんじゃないかと怖かった。

そんな私の葛藤を他所に
ホシくんはいつ何時見ても、聞いても、思っても、揺るぎなく「好き」だと感じさせてくれた。

ホシくんは私に言葉の鎧を降ろすことを教えてくれたのだ。
どんなに言葉を手放しても私の心にはホシくんがいて、「好き」の質量を感じられた。それはもはや、ほとんど肉体の感覚に近い実感ですらあった。
逆に私がどんなに言葉の鎧を着込んでも、なんら変わりなくこの心には「好き」の核があった。

説明できる好きなところもたくさんある
書き残したいこと、忘れたくないことも
伝えたいことも、知って欲しいことも
言葉にしたいことはたくさんある。

けれどもし、私がある日突然言葉を失ったとしても、きっと君だけは格別の「好き」として私の心の真ん中で踊り続けてくれると確信している。


リンゴは木から落ちる。
“当たり前”の代名詞である物理法則だ。
しかしリンゴが木から落ちない場合もある。
例えば宇宙、そしてもしかしたら他のどこかでも…
そういう意味で、この世界に「絶対」はない。
だからといって誰が万有引力を疑うだろうか。
「絶対」じゃなくても疑う余地のないものはこの世界に沢山ある。

リンゴは木から落ちる。
それと同じように
私はホシくんを大好きでいる。


ホシくん今日も好きだ。
今日まで1日も欠かさずに君が好きだった。
君が眩しく、君が心地よく、
君に歓び、君に揺蕩い、
君と踊り、君と歌い、
君と似てないのに、近しく感じ、
君に会いたくて、会いたくなくて、
君をずっと見ていたいのに、自由でいてほしい。
君を知ったあの日から変わらず

ホシくん、わたしは
君になりたかった。


君を、好きでいること。
私が、ここにいること。

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