見出し画像

Follow the light

Follow the light
Followツアーのグッズに使われていた言葉だ。
昨年のツアータイトルであるBE THE SUNに比べ、「Follow」というのは抽象的なタイトルだなと感じた発表から駆け抜けて半年。今私はようやくこのツアータイトルの意味を理解できた気がしている。

ソウル

7月のソウル公演はチケットを取れなかったけれど初めて韓国に行った。
コチョクスカイドームを見に行って、ホテルでストリーミングを見た。
周りの人からは配信を見るのにわざわざ韓国まで行くの?と笑われたけれど、彼らの国に立ち、空気を感じ、言葉や文化の中に身体を浸して、彼らの公演に集まったたくさんの人々の姿をこの目に映したうえで見る配信は、誰がなんと言おうと特別だった。

約束の場所ハンガンは想像より大きく
バス停にいる人々が思い思いの場所を見たり曲を聴いたりしていて
サムギョプサル屋のオモニはめちゃくちゃ無愛想だけど働き者。

見上げる空も踏み締める一歩一歩も吸い込む空気も全てが愛おしく、それが全て、公演で見える姿や聞こえる音に還元されていく。

弾丸渡韓だったから全てがカツカツで初日の配信の前半はホテル行きシャトルバスの中で見たし、ホテルに着けば荷物を放り投げ靴を脱ぎ散らかしてベッドにダイブして子供みたいにぴょんぴょん跳ねながらbeautifulでワンワン泣いてたなあ。

セトリの一曲一曲を聴きながら、ああ、これがSEVENTEENの伝えたい「Follow」なのかと妙に納得したのを覚えている。
「ついてこい」も「ついてきてくれてありがとう」も「ついていくよ」も「ついてきてほしい」も全部詰まっている。
Adore UからSuperまで、その他まさかこのパフォーマンスが見られるなんて願っても見なかったというような曲がたくさん詰め込まれていて、「振り入れ大変だったでしょう」とボロボロ涙が出たのも覚えている。
つまり、「それでも」その曲じゃなきゃいけない曲たちばかりだった訳で、そんなことばかり考えては涙の永久機関と化していた。

DAY2の翌日は4時起きで帰国するというそれなりに無茶なスケジュールを組んでしまったけれど、不器用で愛おしいFollowの幕開けだった。

コチョクスカイドーム

東京

こちらはnoteに書いた通りだけれど少しだけ抜粋。
有給5日を取って行った分だけたくさんのCARATさんに会うことができて、身に余るほどの幸福を抱えて帰ってきた。


世界最後の夜あなたが光で在ろうとそこに立つ選択をしてくれるなら。光だけではないはずの、ひとりの人間であるあなたを、私は光として眼差し、あなたの望む姿を「本当」にしたい。あなたの眩い光は、そのまま人を守る傘になる。

でもね、世界最後の夜じゃなくても日本の平日の二日間に、私たちの目の前に13人が現れてくれること。「今」ステージに立つ選択をしてくれていることが、どれだけの光になっているか知っているでしょうか。

(中略)

同じ空間でひとつに纏まるとは思えないくらいの多様な人々がそれぞれの人生から光を一つずつ持ち寄って、SEVENTEENに会いたいという思いだけであの場所に集まり、SEVENTEENに幸せにされて出てきた。

(中略)

CARATが集まる場所が好きだ。SEVENTEENの美しさを知っている人が集まっている場所に心地よさを感じる。人が集まる場所であるSEVENTEEN。13人13様の美しさがあり、優しさがあり、愛し方があり、生き方がある。デビュー当初から必ずしも強みだけになるわけではないであろうその人数の多さを彼らが守り続けてきてくれたから、今、そこに集まる人たちも多様でいられる。

○○だから好きという愛の伝え方は得意じゃない。○○でなければ好きじゃないみたいだから。でも、これだけはこの言い方をしたい。

13人だから、SEVENTEENが好きだよ。

13人一人ひとりが、恩人だよ。

そしてそんなSEVENTEENを好きでいるCARATが好きだよ。でも、「SEVENTEENを好きだからCARATが好き」というには、CARAT一人ひとりがひととして大切すぎる。


このときの私にとって「Follow the light」の主語は私達CARATだった。SEVENTEENという光をCARATが追い、その夢についていく。

この実感がFollowの土台となり、「Follow」という言葉の意味は公演を重ねるごとに塗り替えられることなく層のように積み重ねられていった。

埼玉

ベルーナドーム

Follow後半の幕開け。
半野外という経験したことのない会場に恐れをなしつつも、またこうして立ち会えたことがありがたかった。

有難いことに今回のFollowツアーで私は計6公演に参加することができたけれど、そのうち自名義で抽選に当たったのは名古屋のみで、東京埼玉のチケットは通話中が当ててくれた。(大阪福岡は先着)

13年来の友人かつ私にSEVENTEENを教えてくれて、オフライン公演のない2年の思い出をほぼ全て共にしてくれていた通話中。東京公演の時は体調不良だったからこうしてリベンジができてよかった。

ステージサイド、センステへ伸びる花道のほぼ真横の席で見たあの日のFollowは1番穏やかで、優しかった。

私が入った公演ではないけれど、埼玉公演の後に退場するCARATを見ながらラーメンを食べるホシくんの写真がweverseに投稿された。

一体どれだけ愛おしいと思っていれば、帰る姿を見届けたいと思うのだろうか。

これが、これこそが「호랑해」なのだと思った。
「호랑래」は「호」시(「ホ」シ)が사「랑해」(愛してる)という造語だけれど、その言葉の持つ重みは、ホシというアイドルがCARATに向けてくれるこういう姿の積み重ねなのだ。

ホシ君の、自分を愛せるところが好きだ。
自分の魅せたい姿やなりたい姿をちゃんと描いて、そこに向かって努力して、そうして立っている「ホシ」そして「SEVENTEEN」を好きでいるCARATだから、愛されているんだと思う。
そしてきっと、CARATに愛されることを通してホシくんは自分の選択に自信を持っているんじゃないだろうか。無償に見えてちゃんと繋がってるから怖くない。アイドルとファンとの愛し方でこんなに自然なことってあるだろうか。

でも「アイドル」を応援しているから幸せなんじゃない、SEVENTEENを好きでいるから幸せなんだよ私は。

ホシ君なんてみんな大好きじゃん、という意味でホシ君のファンが私である必要はないけれど、私にはホシ君じゃなきゃダメだった。

名古屋

MAMA大賞の興奮冷めやらぬうちに、飛行機に乗って名古屋に辿り着いた。

FC1次、スタンド下段ライト側。
私の先はセンステを照らすライトの延長線上で、双眼鏡を覗いてもその強すぎる光が逆光となって見えないというシーンがたくさんあった。

でもそれは逆に考えたら私の顔がばっちり見える可能性もあるはずで、だからいつもより大きく口を動かして歌って、ニコニコして、私はこんなに楽しくて幸せなんだよって伝えるつもりでその場にいた。
私の顔なんてお見せするほどのものじゃないけど、彼らの視界の端に「CARATの幸せそうな顔」が映るなら、その一つでありたいと思う。

最後のメント。
ジョンハンさんが、幸せな人生だって言ってくれた。羨ましいでしょうって、本当に幸せそうだった。

どう考えても「花道」どころか平坦な道ではないだろうけれど、そこから見える景色が少しでも美しくありますようにと、そう願って応援してきた。
あなた達を応援することを通してずっと応援してもらっているのは私の方だった。お互いにその人生の一番苦しい部分を詳細に知っているわけではないけれど、私の人生の一番苦しい部分を知っている人なんて実際は誰もいないわけで、そういう意味ではSEVENTEENだけが心の中まで入ってきて私の日々を全て知ってくれていた。そうやって応援して、そんな相手が「幸せな人生だ」と言ってくれること、こんな幸せなことがあるか。

무엇이 우리의 행복인가
何が僕らの幸せか
뭐 있나 춤을 춰 노래하자
なんてことない 踊って歌おう
이것이 우리의 행복이다
これが僕らの幸せだよ

…「これ」が僕らの幸せだって、そう言ってくれる道のりの上に私たちも立っている。

ホシ君は、諦めなければ夢が叶うというメッセージになったと。受賞にそんなメッセージを持たせられるように育ててくれてありがとうございますと言ってくれた。

責任感のある人たちだと思った。
すごいよ。こんなにCARAT、CARATと名前を呼んで想いを懸けてくれるのに、私たちのことこんなに見ててくれるのに、その外…例えば他のアイドルや、そのファン、そして「アイドル」という業界にどうやったらポジティブな影響を与えられるかまで考え続けている。

同じ文脈で語るのも烏滸がましいけれど、私は今年で社会人4年目になった。ほとんど、CARATになってからの年数と同じだ。
業務を覚えてこなすのに必死で無我夢中だった3年を経て、気づけば自分の部署だけでも後輩が4人も入ってきた。
そうなると、自分の仕事だけじゃなく、この子達にどんな背中を見せたらいいだろうか、どんな先輩でいたら前向きな刺激になる存在でいられるだろうか、と考えることも増えてきた。私には幸い、仕事にかけるプライド自体をかっこいいと思える先輩や同期がいた。仕事の出来不出来という外的な評価基準じゃなく「かっこいい」と主観的に思える瞬間があることや、惰性じゃなくプライドをもって仕事をしている人がそばにいることは私の中で働くモチベーションだった。
つまり心の内側に火を灯してもらうことだった。

MAMAでの姿をはじめ、SEVENTEENの見せる姿もきっと、後輩アイドル達にとってそういう存在だったんじゃないだろうか。SEVENTEENのような人たちがいる「アイドル」という世界で自分はどう輝こうか、と思った人たちはきっといるはずだ。

SEVENTEENのような人たちがいるこの世界で、どう生きていこうかと私が考えているように。

ドーム全体を呆然と眺めるホシくんの姿を見て、こんなに美しい景色があるかと思った。

…そんなことを、メモに書き残していた名古屋公演だった。

大阪

機材席開放で掴むことのできたステージサイド席。
LOVE大阪、ソウルコン(online)、名古屋でずっと一緒に行動してくれていたCARATさんとの、初の連番だった。

一緒にいる間、絶え間なくSEVENTEENの話をして、ホテルで曲をシャッフル再生してはここが好き、こういうところが好きとずっと話続けてきたひとと、1番近くであの「時間・空気・温度」を共有できたことが嬉しかった。

私は職場の人たちにコンサートに行くことを言っていて、誰かと一緒にいくの?と聞かれたときに「行った先に友人がいます。SEVENTEENだけじゃなく、友達に会いに行くんです。」という答えが口をついて出た。その言葉を、噛み締めた。

SEVENTEENと出逢って、CARATと出逢った。
こんなに好きだと思える人たちに出逢えて、
応援して、応援されて、愛することも愛されることも教えてもらった。そのうえ大切な友達にも出逢うことができて、こんなのあまりにも、もらい過ぎじゃないだろうか。

私は、コンサートのあの景色を、歓声を、熱気をきっと死ぬまで忘れられない。
あなたももしかして、そうなんじゃないだろうか。
おそらくは、SEVENTEENも。
死ぬまで忘れない景色を共有しているひとの名前を呼べること。私の名前を呼んでもらえること。
それが戸籍に載っている名前じゃなくとも、かけがえのない宝石のような事実だ。

ハイタッチ後、京セラドーム前

福岡

PayPayドーム

予定より30分以上遅れた飛行機の着陸間際
21:49の飛行機の窓から見えた福岡の夜景は음악의 신 の、黒地に色とりどりのビジューを散りばめたあの衣装のように見えた。

私のFollowツアーの終着点。
スタンド最後列、後ろから掛け声が聞こえないとやっぱり心細いけれど、悔いのないよう力の限り叫んだ。

終演直後、書き残していたメモがある。

バルーンの살피꽃밭의 길を駆け抜けてmy life is so beautifulと歌ってくれる彼らに破裂音と共に紙吹雪が降り注ぐ。
その中で「今」へと繋がり、私はCARAT棒を握りしめながら彼ら13人の名前を呼ぶ。

普通に考えたら決して簡単ではない13人の名前を息つく間もなく叫ぶ掛け声。
出張十五夜のホシくんの言葉を思い出す。
ソノゴンの掛け声を聞かれたときに「メンバーが変わっていないので同じです」と答えた。
今回もスンチョルさんとジョンハンさんがいないことをスングァンちゃんが「長く活動するためにリハビリを頑張っている」と言ってくれていたけれど、今の全ての選択が未来に向けた覚悟であるように、過去の彼らの選択が今13人でいることに繋がっているのだ。

チェスンチョル、ユンジョンハンを少し強めに、喉が張り裂けそうになりながら、最後に私の名前「CARAT」を呼ぶ。

泣きながら情けなく叫ぶ私の背中を連番したCARATがさすってくれた。

Followツアーを通じて感じた。
私にとって掛け声をすること、13人の名前を呼ぶことはSEVENTEENに愛してると伝えることなのだ。

光と彼らとが滲んでいく
何も見えていないこの景色を忘れたくないと思った。
愛することが祈ることなのだとすれば、これはちゃんと、実践できる愛なのだ。

改めて、SEVENTEENの歌とCARATの声に包まれているこの瞬間が途方もなく幸せなのだと感じた。

Follow the light

SEVENTEENを知った2020年の夏。
コロナ禍真っ只中でCARATになった私にとって、コンサートの光景は長らく画面の向こうにあった。
CARATの光の海を愛おしそうに眺めるSEVENTEENの姿が大好きだった。回を重ねるごとに明らかに顔が翳っていくオンラインコンサート。その翳りの向こうにある光の海と歓声の波を何度夢に見たかわからない。

けれどそれから3年以上が経って、私も光の一つになったうえで、正直、思わずにはいられないことがある。

私は、本当にそんなに綺麗だろうか。
彼らが眼差してくれるほど、光の海は綺麗だろうか。

ステージサイド席から見える景色は、ステージに立つ彼らと近い。CARATの作る光の海は本当に綺麗だと思う。けれどそれと同時に、本当に、本当に一人ひとりの姿がよく見えるのだ。見えすぎるほどに。

目に見えるものが全てではない。
目に見えるものだけで善悪は測れない。
それは前提として、私にとっては、決して綺麗だと思えないような光景を目にしてしまうこともある。
ほとんどSEVENTEENだけを見ている私ですらそうなのだから、きっと彼らの目にはもっと様々なものが映っているのだろう。

けれどSEVENTEENの目を見ると、それはそれは美しい光の海が映っている。

そのことを想ったとき、ふと「Follow the light」はSEVENTEENの姿だと確信した。

SEVENTEENは、光を追う人たちだ。
光を見つけ、目を離さない。
一等星だけじゃなく、私にはただのどろりとした闇に見えるような夜空にも二等星、三等星と、そこに星があれば見つけ出して、追い続けられる人たちだ。

私はそれを楽観主義じゃなく覚悟だと呼びたい。
それでも、この世界は、人は、あなたは、私は…そのままで美しいのだと。ここに幸せがあるのだと歌ってくれるこの世界を、腐すよりは信じていたい。 

誰かをひたむきに信じることを「宗教じゃん」と揶揄うひとがいる。
私はなにかの宗教に属したことはないし、神という存在もいまいちピンと来ない。ただ、お天道様という表現はとても近いなと思う。
彼らがあのように、生きる姿を、表現するものを見せ続けてくれるならば、私は人の善性を信じられるし善く生きたいと思う。自分の幸せを諦めずにいられる。

大丈夫。
この世界は善く生きるだけの価値がある。

Follow the light

光を追う彼らの
追う光を私も追おう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?