Imperfect love
Power of Loveで涙も出ないほど胸を打ったこの曲を、BE THE SUNで歌う彼らの姿を改めて見たら、なんだかより一層ありがたく感じたので書き残したくなった。
訳を超え、解釈を超え、もうほとんど想像の域だけれど、繋ぎ止めていたい。
昏いこの世界を
世界は昏く、苦痛ばかりで、君だけが救いだと言えば手っ取り早く「君」を特別にできるのに、
「君」にだけスポットライトを当ててしまえば他のものは見なくて済むのに、
この世界には「君」以外にもたくさんの輝くものがあると言う。
この世界の光と影を知った今だからこそ言える、依存ではない「君だけが大切」という言葉が、確かに日々を生きてきた“人間”としての時間の厚みを想わせる。
私も「Seventeenだけが救いで、Seventeenだけが光だ」と言うととても心地がいいけれど、いざ本当にそうかと問い直されれば他にも沢山の光の存在を知っている。
好きなマンガも、仏像も、数ヶ月に一度でも連絡をくれる友人も、花束を選ぶことも、夏の蒼い風も…
光ばかりが燦々と降る昼を生きてはいないけれど、私の夜は星がよく見える。見えないふりをしていただけだ。
けれどそんな満天の星空にただひとつ浮かぶ月が、私にとってはSeventeenなのだ。
君にぴったりの天気
Very Niceの歌詞、「오늘 날씬 너를 많이 닮아(今日の天気は君によく似ている)」を聞いたときも珍しい表現だと思った。
「君は陽射しのよう」とか「春のよう」とか…具体的な気候で例えることはあっても日本語に訳した時に選ばれる「天気」という言葉にまるごと預けるのは違和感があった。
きっとただの気象ではなくて、広い意味での自分を取り巻く環境、寄り添う“世界”的なものではないかと読んでいる。
君にぴったりの人間、ではなく天気と表現するのは、詩的技巧というだけに留まらずもっと大きな存在として君を包みたいという想いの現れなのかもしれない。
これをアイドル・Seventeenからファン・CARATへの言葉として読むとしたら、本当にありがたいなと思う。
君にぴったりの人間…すぐ隣で背中をさする事のできるパートナーではなくても
君が凍えるなら陽射しに、走り疲れたなら涼しさを届ける風に、涙を隠したいなら頬を濡らす雨に…
そんな君にぴったりの天気になりたい
けれどやっぱり僕も人間だから
きっとそんな風にできないだろうけど
それでもこんな僕を愛してくれるかな
そんな気持ちで歌やパフォーマンスやその他諸々の姿を届けてくれているのだとしたら…
そう考えたら、私の持てる全てで彼らを大切にしなければいけないと思ったし、なんだかそんなある種傲慢な読み取りすらも私の中では納得してしまうくらいにSeventeenさんにはありあまる愛を貰ってきた。
完全な愛になる時まで
今回このnoteを書こうと思った1番のきっかけはこのサビの歌詞だった。
当然好きな表現なのだけれど、なんとなく自分の中に実感として落とし込めていなかった。美しい感性、そして表現だという客観的な読み方をしていた。
けれどふと、この歌詞はSeventeenでいた、CARATでいた日々を振り返った日にむけて紡がれた言葉なのではないかと思った。
「終わりのない物語」がきっとSeventeenとCARATの積み重ねた日々や想いであり
「古い本」というのは世間一般に見えている“アイドルとそのファン”というパッケージなんじゃないだろうか。
彼らがステージを降りたら
まるでそれまでの日々が夢だったかのように感じてしまうかもしれない
はやく現実を見ろと言われるかもしれない
アイドルを愛したとて何も残りはしないと言われるかもしれない…むしろもうそんな声を耳にしているかもしれない。
けれどそれは本の外側だけで判断したもので、
一度その物語の登場人物になれば分かるはず。
この物語は本を閉じた後もずっとずっと、永く続いていくのだと。
そしてそれは作者の描いた文章としての完結を迎えても、それぞれの人生の中に深い香りとなって染み込んで続いてゆく。
その物語で知った愛が、優しさが、心の輪郭が…本人すら自覚しないくらいのささやかさで、いつかCARATだった誰かを幸せにするとき、
ひょっとしたら、それがまた別の誰かを幸せにするとき…
その時が「完全な愛」になる時なのかもしれない。
そんな未来への祈りを歌っているんじゃないかと感じてしまった。
文章の読解としては、やりすぎだと思う。
気持ち悪いオタクの妄想かもしれない。
けれどこんな壮大すぎる、そして深すぎる愛だとしても信じられてしまう。
少なくとも、BE THE SUNでこの歌を歌う彼らの姿を見た私には、そう聞こえた。
君がいるから
欲というのは今ここにないものを求めるという+αのものであって、惰性ではないのでそれなりのエネルギーを伴うものだと思っている。
私自身が、Seventeenさんを知って様々な場面で欲が出るようになった。
「仕事だから」やっていたものが、その仕事の先にいる人の生活に思いを馳せるようになった。
惰性でなく自分なりにより善く生きたいと思った。
誰に褒められなくとも、やりたい、学びたい、伝えたいと思うことが増えた。
このnoteだってそうだ。
私の人生の大事件だった。
乾いていた私の心や魂と呼ばれるなにかに、光の水脈をひいてくれたのがSeventeenさんだった。
…もしそんな存在に彼らが出逢えていて
それがCARATだと言ってくれるのであれば
それはあまりにも幸福な事だろうと思う。
たった一日だって
私にとって、この言葉を信じられるひとはきっとこの先もSeventeenさん以外に現れないだろう。
SeventeenさんがCARATに見せてくれる姿は、いつだって真剣であり、真心であり、誠実だ。
私たちに見えていない間も弛まず、きっとそうなのだろう。
そしてこれは、なんの悲観でもなく
この言葉が成立するのは一対一の人間関係ではなく「アイドルとファン」という関係だからこそだとも思う。
職業として切り取ってみると、アイドルというのは本当に特異な仕事だと思う。
歌もダンスもモデル的な美しさもバラエティ能力も魅力だけれど、そのどれかを切り取ったものを求めているわけではない。
例えばそれらのスキルを数値的評価に置き換えたとして、その値が高ければ高いほど評価されるというものでもない。
この資本主義社会で、その構造を多分に取り入れながらも数値化できない「ひとの想い」の入る余地があまりにも多い。
アイドルは偶像と人は言うけれど、
Seventeenさんを見ていると私はむしろTEAM SVTが作り上げるものこそが人間の核だと感じる。
アイドルの言動は理想に過ぎないと言うけれど
私は“Seventeen”として見せてくれる姿が彼らの全てでなければ価値がないとは全く思わない。
偶像だろうと理想だろうと
それを誠実だと思い、それを愛だと思い、
それを幸せだと思い、それを美しいと思い、
それ描き、そして実際に作り上げた。
…その祈りにも似た想いが、希望だった。
“Seventeen”としての彼らは、
本当に、たったの一日だって、
CARATに真剣じゃなかった日など、
誠実じゃなかった日などなかったと思う。
ひょっとしたらそれでも今はまだ、
完璧な愛ではないかもしれないけれど…
完璧に見える今この瞬間ですらまだ完璧じゃないと言ってくれるその言葉は自信のなさの表れかもしれないけれど、こんなにも美しい今この瞬間がまだ途上であるということは、どうしようもなく光だ。
毎日君だから幸せだ
先ほどのサビ部分の文脈で言えば
世間から見たSeventeenとCARATのパッケージが過ぎたものとして扱われ、メディアでその名前を見ることはなくなる日が訪れても、
そこで育んだ全てが、“Seventeen”の名前すら意識させずとも一日を輝かせる。
そんな一日を終える時、伝えたい。
毎日君だから幸せなのだと。
なんてストレートな言い回しだろうか。
「君」は“Seventeen”であり“CARAT”じゃないかと思う。
この「本」を閉じたずっとずっと後に
君が幸せだと言えたならいい。
その理由がその「本」の中でともに紡いだ「物語」ならもっといい。
そしてそれが叶うならきっとその時に初めてこの「物語」は「完璧な愛」になるのだろう。
もしこの美しい祈りが私の妄想ではないのなら
とんでもないことになってしまったなと思う。
人生まるごとふんわりと魔法の粉をかけてもらったような気持ちだ。
人はこんなにも人を想うことができたのか
愛はこんなにも遠くまで往けたのか
こんなにも美しいものを想える君が真に美しい
なのにまだ今は完璧ではないらしい。
まだこの先があるらしい。
今回はSeventeenさんからCARATに向けた曲として読み取ったけれど、もしかしたら、いつか私たちがSeventeenさんではない誰かにこの歌を歌いたいと思うとき、それもまた完璧な愛に近づく一歩なのかもしれない。
Seventeenさんがこんな想像もしなかったほど深い愛を一度私の心に注いでくれたから、いつか私もこんなふうに誰かを愛することができるのかもしれない。
だから今はただ私たち
お互いだけを信じて、手を繋いで、
終わりのない物語を紡いでいこう。
完璧な愛になるときまで。