Cuz I'm your friend
何がそんなに怖かったのだろう。
と書くと吹っ切れたみたいだけど、正直まだ怖いし多分ずっと吹っ切れることはない。
GLANSTBURYで初めて披露されたSEVENTEENのSOSを見て、会社でパソコンに貼るAllyステッカーを発注した話。
ただ、話し始める前に念のため注釈をつけたい。
このnoteの中でSOSという歌のメッセージやその向けられた先について限定的な解釈をしたいわけではない。
自分と、自分の生きる世界のために、傍目には見えないかもしれないくらいの小さな小さな一歩を踏み出す…そんなほんの少しの勇気すら出せなかった私の背中を、SOSが優しく押してくれた日のことを忘れたくなくて書き残すのだ。
弊社では昨年から全社共通のアライコミュニティが発足し、いろいろな勉強会や対話イベントなどを行っている。そこでいくつかアライ可視化ツールというものが作られていて、そのうちのひとつがアライステッカーだった。
今年のPRIDE MONTHを機に、アライコミュニティに参加した。ずっと、そこへ一歩を踏み入れるための特別な動機(例えば私自身や家族が差別を受けてきたとか)を探していたけれど、きっと特別な動機がない私がアライを表明することに意味がある。なんとなくそう思えたのが6月の初めだった。
ただ、そこから約1ヶ月の間、ステッカーの存在を知りながらも発注ボタンを押せない自分がいた。
私のいる課は60人規模の大所帯で、年齢も採用区分も様々。私は入社して5年、同じ部署にいる。業務上社外の人と接する時には酷な言葉を浴びることが多いからか、社内の人間関係は良好であたたかい。
大学時代の友人達から「お前まだ仕事続けられてたの?」と言われるくらい社会人に向いてなかった私でも、ここまでなんとかやってこれたのは、社内の人たちのあたたかさがあってこそだ。
それなのに(それだからこそ)、私は全員に支給されている真っ黒なノートパソコンに、ある日突然レインボーのステッカーを貼るのが怖かった。
「アライ可視化ツール」という名の通り、人の目につくところにそれを貼ることで表明するステッカー。人の目に触れることに意味があるから、とても目立つ。
「この人今日からアライステッカーを貼ったんだな」と認識されるのが怖いというわけではない。それを認識する人は、レインボーの“それ”がアライを意味するものだと知っている人だから。多かれ少なかれアンテナを張っていて、メッセージを受信している人だ。
むしろ私は「それなに?」と聞かれるのが怖かった。
きちんと説明できるだろうか。
相手に伝わる言葉で話せるだろうか。
“それ”を知らなかったことを責めるような言い回しをしてしまわないだろうか。
目を見て話ができるだろうか。
聞こえる範囲に当事者のひとがいても安心できる様な伝え方ができるだろうか。
その時、私は泣いてしまわないだろうか…
そう考えたらずっと自信を持てなくて、何度も発注画面を開いては退勤時間まで押せずにシャットダウンした。悩むくらいなら絶対にやった方がいいことなのに、こんなことで躊躇してしまう自分が情けなくて嫌になった。こんなことすら躊躇する私のような人間がいるから生きづらい世の中になってしまっているのだと自分を責めた。
そんな6月の終わり、GLANSTBURYのSEVENTEENのステージを見た。様々な旗が翻る会場。その中にはストレートアライ(自身はLGBTでは無いがLGBTの人たちの活動を支持している人)のフラッグもあった。
そこで初披露されたSOSを聞いて、その力強さに涙を流しながら一つのフレーズが真っ直ぐ胸の奥に届いた。
「cuz I'm your friend」
Don’t worry , I’ll be wating here
All the time cuz I’m your friend
この部分をリリース当時の私は「恐れないで、いつだって僕はここで待っている、なぜなら君の戦友だから」と訳した。
SEVENTEENはこのクソみたいな世界で一緒に戦ってくれる人たちだと思ったのと、前後の文脈から「戦友」という言葉を選んだ。
けれどGLANSTBURYで聴いたときは限りなく簡単に「心配しないで、僕はいつもここにいるよ、だって君のともだちだから」と歌われたように聞こえた。
その時、視界が開けたような気がした。
ああ、そうか、それでいいんだ。
「心配しないで、私はいつもここにいるよ、だってあなたのともだちだから」
そんな気持ちであのステッカーを付けてもいいんだ…と。
幼稚かもしれない。でもその単純明快さが年をとるにつれ難しくなる。
私はずっと、この手に掲げる旗を見つけられずに路頭に迷っていたのだ。
名前がつかない暗闇。
名前がつかない残酷さと名前がつくグロテスクさはそれぞれあるけれど、何かを「掲げる」という意味では名前という旗が必要で、私が1番助けて欲しかったときにどれだけ手元を探してもそこに旗はなかった。
私が当事者として掲げる旗を見つけられなかった以上「なぜ“その”旗を掲げるのか」という疑問が自分の中に湧いてしまう。
家族にヘルプマークをつけている人がいる。
難病や人工関節など、外見からは分かりにくいが周囲に配慮が必要であることを知らせるものだ。
傍目には健康に見えることが多いからと、症状が深刻なときでも「甘えだ」「気の持ちようだ」と心無い言葉をかけられ涙を流す姿を見てきた。思い出すと私も悔しくて泣けてくる。
大学時代、最も大きなテーマとして向き合ったのが「障がい」と「きょうだい支援」だった。その話は以前noteに書いた。
(こちらも公開するのに数年かかった記事なので、どうしても要約ができなくて、もしよければ読んでください)
ホシくんが호랑이を公開したタイミングで、世界の野生動物保護団体WWFへの寄付をはじめ、人間を含む動物を取り巻く環境問題の深刻さを知った。それはもちろん、動物/人間と分断できる問題ではない。
増え続ける災害、東日本大震災から十数年が経つ今も復興を遂げられていない過疎地域、その根底にある地方格差…
私が心理学を専攻しようと思うきっかけになった自死の多さ、その遺族の在り方、どこまで行っても自己責任の範疇にある家族の問題…
上がり続ける税金、すぐそばにある貧困、そこから抜け出す機会を得るのにもお金が要る…
今生きている世界で戦争が起きていて、公然と人の命が奪われている。私の愛する人たちの国には兵役という制度があり、この国でも「戦争をできる状態」に近づきつつある…
目を背けてはいけない課題のうち、自分が既に直接関わっているものだけでもこの両手に有り余る。
そんな世界で、そんな私が、
なぜ“その”旗を掲げるのか…
冒頭に引用したように「Ally」は「仲間」を意味する英語が元になっている。私がつけはじめたそのステッカーにはこう書かれている。
「I’m Ally. You are safe with me.」
あなたを守るだとか理解者だとか、そういう解釈をするとちょっと敷居が高いけれど、ただ私は今目の前にいる、共に生きているあなたのともだちとして、あなたが悲しむ姿は見たくないんだよ…そういう気持ちでギュッとパソコンに貼った。
それはLGBTQ+など性的マイノリティーの方に限らず、全ての人に言いたいことだ。
Don’t worry , I’ll be wating here
All the time cuz I’m your friend
心配しないで、私はいつもここで待ってるよ
だって私はあなたのともだちだから
一見幼稚で簡単に思えて
それが1番難しいってこと、よくわかってる。
だから私たちは唱えるのでしょう。
だから私たちは歌うのでしょう。
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