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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと15

ここしばらく、父を襲った東京大空襲の不幸について書いてきました。父は「僕のことばかりじゃ、タイトルとたがわないか」と心配しています。でも、父が家族を東京大空襲で失ったことや、この後しばらく書き続ける予定の伊豆での日々の、その先に尾崎さんとの再会があり、そして、そして、と思うと、尾崎さん不在の時期を記すことは、本題からはずれてはいない、と娘の私は思っています。

でも、父を安心させるためにも、ここで少し尾崎さんの作品から読み取れる、東京大空襲前後の尾崎さんの病状や下曽我での暮らしを見直すことにしました。昭和十九年(一九四四)、尾崎さん四十五歳。胃潰瘍による大出血で郷里・下曽我への疎開を決意します。尾崎家は、代々宗我神社の神職を務める家柄でしたが、尾崎さんの父親が急逝した後、関東大震災や尾崎さんの放蕩などもあり、残された預貯金や株券、先祖からの土地を失います。以下『続あの日この日』より引用。

これだけは、と思つていた七百坪ほどの屋敷が、昭和四年、借金のカタに押さへられ、競売された。そこに建つている小さな家、それは、大震災でつぶれた前の家の廃材のうちから、使へるものを選んで急造した災後のバラックとも言つていいものだが、それだけはある親戚が引取ってくれ、母が独り住んでゐた。八、六、三、二に、台所、湯殿、便所という小家だつた。

ここに、尾崎家五人が移り住んだのでした。しかも医師から、「今日明日ということはない、三年ぐらいは保つだろう」と、そんな余命宣告をされるほど、尾崎さんの病は重篤でした。

「(前略)急なことはないと聞いてほツとしたんですけど、三年先にはいけないなんて。あなたに言つていいのか悪いのか判りませんけれど、あたし、一人でそんなことを考へてるの厭なんです」(中略)「俺はたつた今考へついたんだが、生存五ヶ年計画といふのをたてる。(中略)医者が、良い方へも悪い方へも間違ふ例は、散々見て来てゐる。俺はやつてみるつもりだ。うまく五年生きたら、つづいて第二次五ヶ年計画に入る。君もそのつもりでやつてくれ」

文章からは尾崎さんの飄々としたユーモアセンス(尾崎さんの盟友、尾崎士郎が『暢氣眼鏡』を賞賛した時に使った「人生的ユーモア」という表現。まさに尾崎文学に通底するものだと思います)が伝わるものの、尾崎家の大きな危機でした。とにかく、人は日々生きていかなければなりません。そこで夫人の松枝さんが、尾崎さんに代わって家族を支えるべく奮闘することになるのです。このあたりのことは、以前にも書いていますが、もし空襲の前日、用足しのために上京していた松枝さんが、深川の山下の家に立ち寄っていたら一体どうなっていたことでしょう。実質的に生活は立ち行かなくなり、しかも尾崎さんは尾崎作品のミューズを失ってしまうわけです(松枝さんにミューズという表現はあまりそぐわしくありませんけれど)。

松枝さんが助かり、父の家族が亡くなる。そのことにより、山下一家は、尾崎文学における〝運命の非情〟のシンボルとなったのです。『続あの日この日』のこの段の見出しには「山下一家の悲運、松枝の強運」とあります。

昭和二十五年(一九五〇)、小説新潮七月号に掲載された尾崎さんの作品『家常茶飯』には、父の家族の全滅を知った時のことが描かれています。

一ヶ月ほど経つて、山下夫人の姪に當る人から便りが來て、山下一家の全滅を知つた。この姪といふ人は、多木が仲に立つて、多木の若い友人と結婚させた。多木にとつては、謂はば仲人子であつた。まさかと思つてゐた多木夫婦は顔を見合わせた。

姪とは、父が家族の一大事を知って小学校から疎開先の家に戻る途中でばったり会った従姉たちの一人、お京ちゃんです。彼女が仲人である尾崎さんに手紙で報告をしてくれたのです。縁故疎開をしていた父だけが生き残ったことも記されていました。そのことを示す言葉が、『運といふ言葉』の中にあります。尾崎さんの作品では、しばしば登場人物は仮名で表記されます。お京ちゃんも、佐伯律子となっています。父はいつも、昌久君、昌久、まアちゃんと本名ばかりなのですが。

山下一家全滅という報らせは、佐伯律子から來た。私は早速、昌久君あて、悔み状を出した。子供たちも「まアちゃん」あてに、せいいつぱいの手紙を書いた。それに對して、昌久君からは、何とも云つて來なかつた。

父から何の音信もなかった理由は、その後明らかになります。これについては『続あの日この日』にあります。尾崎さんは昭和二十一年(一九四六)の春に、『山下一家』を文芸誌に発表します。戦後まもなく、しかもまだ生存五ヶ年計画の最中で、執筆の依頼があっても引き受ける体力が伴わないという状況の中、尾崎さん曰く、「病気のスキをうかがひうかがひ、ぽつぽつと書いた。それも短いものばかりだつた。(中略)右のうち「山下一家」と「うなぎ屋の話」とは、尋ね人広告を兼ねた短篇である」。戦争孤児になった父が、疎開地でどうしているかを気にした作品で、掲載誌を仲人子であるお京ちゃんに送ります。お京ちゃんは自分の近況を伝えつつ、父の疎開先を知らせくれて、それで父宛に手紙を書いたのでした。お京ちゃんの夫の斎木さんは出征、臨月だったお京ちゃんは間もなく出産し、乳飲み子とともに郷里の宇久須村に疎開していました。

が、昌久君から返事を貰つた覚えはない。私は不審に思つたが、差出がましくなるのを懼れて、再度の便りは出さなかつたやうに思ふ。(中略)「小父さんからの手紙、確かにうちの者から渡されました。しかし、封筒無しの、中身だけです。僕は返事を書く気になれなかつたし、小父さんには悪いと思つたけど、そのままにして了つたんです」それで大体の想像はつく。いろいろと事情があつたのだらう。

そうなのです。父にはいろいろと事情がありました。牧之郷での葬儀のあと、親戚の大人たちは、父の後見人を決めるために集まります。父を一番心配していたのは、父の母・久子さんの姉、のぶさんでした。のぶさんは、空襲前夜に山下の家に泊まろうか迷った挙句に帰宅した、松枝さん同様の強運の持ち主で、空襲直後に深川に駆けつけた人でした。のぶさんの家は、江戸川の川向こうにある市川。父にとって親しみのある土地です。年の近い従兄弟もいました。のぶさんは、父を引き取るつもりでいました。でも、そんなのぶさんの気持ちが一瞬怯みます。原因は、父の父・林平さんが残した財産でした。

当時の大人たちは皆そうだったと思うのですが、林平さんは、非常時に備え、通帳や債券をしっかり身につけていました。残された金額は、父が大学を出て、家一軒建てるのに十分な額。きっとそれは、子ども三人を育て上げる学資だったのでしょう。林平さんと久子さんは、長男の佳伸さんを帝大に入れるのが願いでした。次男の父に対してもそれなりの思いがあったと思います。当時の名門、府立三中受験のため、戦時中でありながら、父を進学塾に通わせていたのですから。ちなみに府立三中は芥川龍之介や堀辰雄の出身校で、現在の都立両国高校です。

のぶさんはお金目当てと思われることを恐れたのです。言葉を探しているうちに、林平さんの兄、円蔵さんが「私が面倒を見ましょう」と出張ってきたそうです。「この子は私がきちんと育てましょう」と、葬儀で公言した行きがかり上というのも、あったのかもしれません。円蔵さんは、伊豆修善寺で酪農と農業を生業にしていました。本家筋でもあります。大柄で豪放磊落な「ターザンみたいな伯父さんなんだよ」と父は言います。こうして父は、伊豆で暮らすことになったのでした。

それでは今回はこのあたりで。今夜も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!


※トップの写真は、かつて尾崎さんの住まいがあった下曽我の高台から望んだ風景。当時、父はリウマチだった母(父にとっては妻ですが)の介護でなかなか外出できず、私の夫が代わりに尾崎さんのお墓参りをした時のもの。みかんの花の白い蕾が愛らしい。

尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。