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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと13

父は、辛いことがあると、頭がぼーっとして、頭痛が続くといいます。尾崎さんが亡くなった時、母が亡くなった時、同じ症状が出ました。発端は、東京大空襲で家族を亡くしたことにあり、そんな父の深い深い心の傷を、娘である私は、あまり感じることもなく、のんきに育ちましたが、それでも、それなりに生きてきて、ようやく最近、父の悲しみの片鱗を感じられるようになり、こんなふうに文章に残す作業を続けています。

東京大空襲で家族全員が亡くなった報を受けた父は、学校から戻るや大わらわとなり、とにもかくにも東京へ、と、鹿島組が手配してくれたハイヤーで、最寄りの修善寺駅へ向かいます。「思えば僕は、所長のお坊ちゃん扱いれされてたんだねえ」と父は苦笑いします。父が疎開していた西伊豆の宇久須村は、父の母である久子さんの里で、兄弟姉妹は多かったものの、宇久須村に残っている人は少なく、しかも本家の一家は外務省勤務で日本を離れていました。そんな中、父に伴ってくれたのは、養子に出されていた伯父のヨシユキさんと、久子さんと年の近い姪、カツコさんでした。

 カツコさんは、結婚して東京の練馬の方で暮らしていましたが、疎開の準備のため、東京と宇久須を行き来していました。久子さんと仲が良かったこともあり、途中まで同行してくれることになりました。

宇久須村から修善寺駅まで行くには、一度、土肥という町に出て、それから船原峠(土肥峠ともいう)を越える国道一三六号線で向かいます。最寄りの駅とはいっても、自動車で一時間以上かかります。普段は木炭バスで行く道でしたが、ハイヤーはガソリン車で、「早かったなあ」と父は回想します。途中、峠の木々の間から差し込んだまばゆい日差し、その景色が、父の記憶に焼きついています。

修善寺駅から三島駅へ、駿豆鉄道で向かいますが、三島駅では東京行きの切符を手にいれることができませんでした。「宇久須の人は、困った時は弁護士の佐藤さんに頼む、という習慣があってね。佐藤さんの奥さんは、カッちゃんの妹のおふじちゃん。切符が手に入りにくいご時世だったから、きっとカッちゃんは、それを見越してついてきてくれたんだね」。三島から沼津の一駅を在来線で移動し、ひとまず沼津に行って佐藤さんを頼ったそうです。「カッちゃんは、その年の正月に、僕を深川に一時帰宅させる約束になってたはずなのに、何かの事情で一人で帰っちゃって、僕は残念で、ちょっと恨んでたんだ。でも、この時は、ありがたかったなあ」

久子さんがカツコさんをカッちゃんと呼んでいたのでしょう。父は、カッちゃん、と懐かしくその名前を口にします。カッちゃん、おふじちゃん、お京ちゃん(学校で知らせを聞いて、家に戻る途中に会った従姉の一人)、は久子さんと年の近い姪で、久子さんは三姉妹の誰とも仲良しでした。お京ちゃんは、尾崎さんの後輩で作家志望の斎木さんのもとへ、尾崎夫妻の仲人で嫁ぎ、父たちが引っ越した後の上野桜木町の家で新婚時代を過ごしていましたが、佐伯さんが出征し、宇久須村に生まれたばかりの子どもと共に疎開していました。

佐藤さんの計らいで、無事切符を調達できた父とヨシユキさんは、沼津から東海道線に乗って東京に向かうことになります。駅に入ってきた列車は、割れた窓ガラスに板が打ち付けられている満身創痍の姿でした。ぎゅうぎゅう詰めの車両には、疎開先から東京に戻る人、家族や親戚の安否を心配して上京する人、買い出しから戻る人など、様々な事情を抱えた人が乗車していました。 

二人の目的地は、久子さんの十一歳年上の姉で母のような存在だったのぶさんの家族が暮らす、千葉県の市川市で、のぶさん宅に一泊した後、深川に行くことになっていたといいます。どうやって連絡を取り合ったのか、おそらく鹿島組の人が、手を尽くしてくれたのではと推測します。というのも、百を超える東京の営業所の中で、空襲により死亡したのは父の家族だけだったのです。

ヨシユキさんと二人になって、父はちょっと不機嫌でした。「ヨシユキさんは、養子先で炭焼きをしていて、顔も手も、煤で黒くてさ、子どもって残酷だから、いつも陰で伯父さんをバカにしていたんだ」。でも、ふと思い出します。「おふくろが、〝おじさんは算数が得意で、頭のいい人なんだよ〟とかばってた」。ヨシユキさんとしては、慣れない遠出で、しかも家族を亡くした甥っ子と一緒。この子とどう向き合うべきか困ったことでしょう。そんな時、ヨシユキさんは得意な算数を思い出し、流水算や植木算、つるかめ算など文章題を父に出して、気を紛らわせてくれたといいます。「そういう時でも子どもなんだね、クイズみたいで楽しかったんだ」

すし詰めの車内、赤ん坊は荷棚に乗せられ、弱々しくぐずっています。誰もがボロボロの姿。「列車は途中で何度も止まるんだ。しかも、茅ヶ崎あたりで空襲警報のサイレンが鳴って、列車から降りるようにとアナウンスがあったんだ。入口や窓に近いところの人が次々降りて、線路脇に掘られた防空壕に避難するんだけど、奥にいた僕たちがようやく車両から出た時には、空襲警報は解除されたよ」。東京大空襲の前後から、各地で空襲の頻度が高まり、移動するのさえも命がけの状態でした。「線路に沿って脇に掘られた一メートルくらいの穴が防空壕で、そこに身を屈めて、頭に荷物を載せて避難するんだけど、機銃掃射を受けたらなんの意味もないような、そんな防空壕だったよ」。列車に戻る際は大混乱、ドアだけでは足りず、父は大人に抱えられ、ひょいと割れた窓から中に入れられました。

東京駅で山手線に、秋葉原駅で総武線に乗り換えて市川へ。すでに日が暮れて、途中、両国駅でしばらく待たされます。両国駅から平井駅は空襲の被害を受け、片車線のみの運行でした。「乗客は、怪我をして包帯を巻いている人、杖をついている人、火の粉をかぶり髪や洋服が焼け焦げた人など、傷ついた人ばかりで、一言も話さずにシーンとしてたよ」。空襲で焼け出されて憔悴しきった人たち。阿鼻叫喚の灼熱地獄から辛くも生き延びた人の中には、猛火の中を逃げまどい家族とはぐれた人、爆風に襲われ眼前で家族を失った人もいたことでしょう。家は焼け落ち、肉親を失い、どこへ向かうにしても、何にすがるにしても、未来は見えず、一夜にして人々は絶望の底に沈んでしまったかのようでした。「窓の外は真っ暗闇で、でもところどころ、青い火がゆらゆらと燃えているんだ」。焼け死んだ人の体から出る、燐の炎でしょうか。

平井駅から市川駅への線路は、通常に運転できる状態でした。空襲の被害は、道路一つ隔てて明暗を分けたといいますが、鉄道の駅や線路も同じでした。市川に到着して一夜を過ごし、翌日、のぶさんとその夫・義一さんと、ヨシユキさんと、父で、深川に向かいます。父の家族が発見されたのは、のぶさんの勘のなせる技でした。のぶさんもまた、尾崎さんの妻・松枝さんと同じように、紙一重で命拾いをしていました。尾崎さんの作品、『運といふ言葉』に父のセリフがあります。

「Nの伯母さんです。あの日、市川から深川の家へ来て、一日話し込んで、泊らうかと思つたけど帰つたんださうです。そしたら空襲。小母さんと同じですよ」

東京の下町を焼け尽くす大空襲の火は、東京と千葉の境を流れる江戸川に近い市川からも見えたことでしょう。朝になると、のぶさんの家の前を東京から焼け出された人がぞろぞろと歩いていて、「これは大変なことになった」と、深川に向かったのです。焼け跡を駆け回り、名前を呼んだり、人に尋ねたり。それらしい焼死体も見つからず、「のぶさんは、深川工作所の後片付けをしている鹿島組の人に声を掛け、見つかったら連絡をくれるようにお願いしたこともあって、それで防空壕から発見されたんだよ」

鹿島組の深川工作所の前に用意された、父たちが暮らした社宅の防空壕は、元水路の上に架けられていた橋の下を利用したものでした。その上に家が焼け落ちて、橋まで一緒に焼け落ちてしまったのです。

市川駅から総武線で、両国駅へ。きっと車窓の風景は、ある場所から急に焼け野原となり、父は息を呑んだことでしょう。「両国駅から深川のほうを眺めたら、海がキラキラ光ってたんだ。一面焼け野原になり、遮る建物がなくなったから、海が見渡せたんだよ」。そこから父たちは深川の木場まで歩きました。当然ながら、都電もバスも機能していません。

見慣れたはず街の見慣れない風景。焦土となった歩きづらい道をなんとか進んでいきます。焼け崩れた家の真っ黒な柱や焼け瓦、トタンなど、瓦礫が道を埋めています。足元に気をつけながら歩いていた父でしたが、何かの拍子につまづいてしまいます。視線を落とすと、そこには焼死体の足がありました。仮埋葬のためにトラックで運ぶ途中、落ちてしまったものらしく、「その感覚は、もうなんとも言えない気分だった」。行く先々、公園や空き地には死体が山積みになっています。「なぜだかわかるか?」と父が私に問います。首をかしげると「火の熱を避けるようにして、人が人の下にもぐって、山になってしまったんだよ」と教えてくれました。余談ですが、父は、ふぐのひれ酒を忌避しています。宴会で、てっちりが供されると必ずついてくるそのお酒は、焼け跡の匂いがする、といいます。

なんとか家のあった場所に到着すると、後に父がお世話になる林平さんの兄弟である円蔵さんと佐一さんが待っていました。防空壕で窒息死した家族四人の亡骸が並べられていて、大人たちがさてどうしようかと思案していると、「兵隊さんが来てね、遺体は共同埋葬するから手をつけないように、と命令するんだ」。なんと理不尽な話。身元不明ではなく、身内が囲んでいるのに、共同埋葬とは。そこに、鹿島組の人たちがやってきて状況を知ると、焼け残りの木材を集めて持ってきてくれました。もはやお上の言葉など気にしていられましょうか。その場で荼毘に付すことになりましたが、これは、不幸中の幸いでした。おびただしい数の亡骸は、仮埋葬の名のもとに、まるでモノのように土に埋められて、隠されてしまったのです。

濡れた衣服を脱がし、井桁に組んだ材木の上に家族を並べ、そして火がくべられました。けれど、火はなかなか大きくなりません。消火作業により、木材は水を含んでいたのでしょう。ならば、と、誰かが鹿島組の倉庫で焼け残った重油入りのドラム缶を転がしてきて、重油を遺体にかけると、たちまち黒煙が上がりました。すると、消防手が数名とんできて、火事になったらどうする、と、すごい剣幕で怒って命令したのです。見渡す限りの焼け野原、これ以上、何が燃えるというのでしょうか。こうしてお骨となった父の家族は、誰が用意したのか、白い木綿袋二つに納められたのでした。父はこっそりと骨のかけらをひとつ拾って、ポケットに入れました。

それでは今日はここまで。今回も、松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!

※トップの写真は、現在の木場公園。かつての貯木場が区民の憩いの場に。東京大空襲の記憶は遠く、深い緑に覆われている。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。