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父の小父さん 作家・尾崎一雄と父のこと16

父のことを書き始めて約半年、この間、私の手元には、尾崎さんの全集や単行本だけでなく、尾崎さん関連の書籍や、東京大空襲にまつわる資料が増え続けています。中でも印象的な一冊は、葛飾区が発行した『戦後五十年によせて 永遠の誓い』という冊子です。葛飾区在住の戦争経験者の体験と、戦争を知らない中学生の、平和への思いを寄せた文集で(その巻頭に父の文が掲載されています)、この一冊から、私は学童疎開の実態を知ることになりました。

葛飾区の小学校の多くは、上越地方に集団疎開しました。旅館や料亭が宿泊所としてあてがわれますが、昭和二十年の冬は記録的な豪雪で、寒さと飢えに耐えながら、「欲しがりません、勝つまでは」と洗脳に近い国への忠誠心で日々過ごしていたことがうかがわれます。

父が腸チフスに罹らず、深川区(現在の江東区)の集団疎開先である福島県の女川に行っていたら、きっと同じような経験をしていたことでしょう。西伊豆の縁故疎開は、気候や食料の面でも恵まれていました。

疎開児童たちは、地元の小学校に通って勉強を続けていましたが、「疎開っ子」といじめられることも多かったようです。父の場合、親類の多い西伊豆の宇久須村で、母の久子さんの親友の家、ということもあり、東京大空襲で家族を失うまでは、それほど辛い思いをすることはありませんでした。が、状況は変わってしまいました。家族を失った父は、手のひらを返したような人々の反応に戸惑います。

父は毎日のように、近所の男の子に「みなしご、みなしご」と囃し立てられるようになりました。みなしご、という言葉は、当時比較的新しい言葉で、「今になって考えれば、あの子はそれほど悪い言葉だと思ってなかったのかもしれないね。でも僕にはぐさっとくる辛い言葉だったんだよ」。東京と西伊豆の、言葉の温度差なのでしょう。しばらく父はぐっと耐えていましたが、ある日、我慢の限界とばかり、リレーのバトンほどの木っ端を拾い、えいっと、その子に向かって投げつけます。すると間が悪いことに、いじめっ子の妹が前を横切り、木っ端が目に当たってしまったのです。

目の傷は、思いがけないほどの出血をします(私も何度か経験があります)。大泣きする女の子の声を聞きつけた父の疎開先の小母さんたちが、慌ててタクシーを呼び、隣町の病院に運びます(宇久須村には病院がありませんでした)。傷は大したことはなかったようですが、女の子の顔に怪我させたことで、大人たちはオロオロし、「僕の妹の晴れ着を小母さんに預けてたんだけど、それをお詫びに持っていったりしてね」と父はいいます。さらに、「ちゃんと謝りに行きなさい」と言われて、父はトボトボと訪ねていったそうです。「大きな漁師の家でね、地元でも一目置かれている怖いおじさんがいるんだ」。行ったはものの、木戸の前で父は思考停止してしまいます。「もう怖くて、どうしたらいいかわからなくなって、立ちすくんでたんだ」。すると、ガラリと木戸が開き、海賊を思わせる風貌のいかつい男の人が出てきて、父の姿を認めます。「ただもう、ごめんなさい、と頭を下げるしかなかったよ」。すると、「子ども同士のことだ、もう気にするな」と、大きな手で、父の頭をポンと叩いて、それだけでした。

父は後年、この女の子が無事べっぴんさんに育って嫁いだことを、偶然入った静岡市の居酒屋で、宇久須村出身の女将さんから聞くことになります。「あの時、あの子をキズモノにしたんだから嫁にもらいな、って言われてたりしてたからね、ほっとしたよ。でも、きっとまぶたに小さな傷が残ってただろうなあ」と父は少し気にしていました。

疎開先の小母さんの態度も微妙に変わっていきます。ある日、父が本を読んでいると、「勉強もしないで、本なんか読んで」と叱られます。父は、作家の富田常雄さんの新刊を読んでいたそうです。それは、父の父、林平さんが送ってくれたものでした。(林平さんは、富田常雄さんの父親である柔道家・富田常次郎さんの書生でした)。また、円蔵さん(林平さんの実兄)から手渡された林平さんの遺品の財布を見つけ、「どうしたんだ、これは」と問い詰められたこともありました。「いつも頭ごなしだから、とっさに言い訳できないんだ」と父は回想します。

何かにつけて難癖をつけられるようになったのは、父の両親からの御礼を当てにできなくなったことと、後見人の円蔵さんが、なかなか迎えにこないことで、「きっと、ここに居座られたらたまらない、と思ったんだろうなあ」。春先は農家の繁忙期。作業に追われる円蔵さんは、なかなか父を迎えに来れなかっただけなのですが、敗戦色が濃くなり、人々の心は疲れ果てていたのでしょう。しかも、村の人たちは、次々徴兵されていき、働き盛りの男性は姿を消し、女、子ども、年寄りばかり。

「小母さんはおふくろの親友だから、まだ遠慮している感じだったけれど、同居しているお婆さんが、あんた、一人で修善寺に行けるら、って言うんだよ。そりゃ行けるけど、先立つものは何もないし、転校だってしなくちゃいけないしねえ」。父は家族を失った辛さと、居場所がない不安で、時には学校からその家には戻らず、従姉の世都子さんがいる旅館に向かい、一泊することもありました。世都子さんは、久子さんの姉である、市川ののぶさんの娘でしたが、請われて宇久須にある旅館の養女として育ちました。

「ある日、あんまりに辛くて、セッちゃんに、家族のお墓参りに行きたい、って頼んだんだ」

牧之郷の玉洞院にあるお墓までは、あの木炭バスで向かわなければなりません。が、バスの切符を手に入れることが難しくなっていました。ただ、世都子さんの旅館を軍が接収していた関係で、旅館の人々は軍票を与えられ、優先的に切符を手に入れることができました。「わかった、まアちゃん、行こう」と連れていってくれたそうです。

が、行きはヨイヨイ、帰りは怖い。行きは二人で乗れたのに、帰りのバスの車掌は、父の乗車を拒否します。父が軍票を持っていない、という理由でした。世都子さんは車掌と交渉をしたものの拉致があかず、嫌気がさしたのか、「まアちゃん、歩いて帰ろう」と父の手を引きます。

国道一三六号線、車で一時間以上の道を、二人はトボトボと歩いて行きます。しばらくすると、バスが後ろからヘッドライトで道を照らして走ってきます。二人は、道の脇に体を寄せて、通り過ぎるバスを見送ります。

天城山の上り坂は、東京育ちの十一歳の父には辛い道でした。十七時にバス停を出て、船原峠に着く頃には二十三時に。時折、山火事の跡が不気味な景色を呈しています。春とはいえ、夜中の山は冷え込みます。寒さと疲れで、父はやがて歩けなくなり、半べそでしゃがみこむと、「まアちゃんおんぶしてあげる」と、世都子さんは父を背負ってくれました。当時の世都子さんは、二十代前半。田舎で育ち、野良仕事もして、丈夫な体とはいえ、さほど大柄ではではありません。きっと、家族を失った父が不憫でならず、小さい頃からよく知っているわんぱく坊主に、できることはなんでもしてあげたいと、そんな気持ちだったのでしょう。

世都子さんは父を背負って一時間くらい歩きます。山下家の人々は大柄、と尾崎さんは書いていましたが、父は腸チフスを患った後、あまり大きくならず、小柄の部類になっていたそうです。でも、そうはいっても十一歳の子はなかなかの重さです。世都子さんはさすがに息切れして立ち止まります。すると、ちょうど鉱山のトラックが通りがかり、運転手さんが窓から声をかけてきました。「あんたたちこんな夜遅く、どこへ行くんだ」。世都子さんが旅館名を言うと、「土肥まででよければ、乗んな」と、二人を荷台に上げてくれました。土肥に着くと、運転手さんは、宇久須村に向かうトラックがあることを教えてくれ、そこでトラックを乗り継いで、戻ることができたそうです。「荷台にはもう一人男の人が乗っててさ、ちょっと怖かったんだ。もしかしたら誘拐されるかもしれないし。だからかな、セッちゃんは一生懸命、自分のところの旅館でお世話している軍の誰々をよく知ってる、とか話して予防線を張ってたなあ」

真夜中にようやっと旅館に着き、父はそのまま一泊して小学校に行ったのでした。

父に、東京大空襲の直後、東京から戻り、修善寺の円蔵さんの家から宇久須村に戻る時は、どうして難なくバスに乗れたのか尋ねました。「円蔵さんは村の顔役だったから、色々融通がきいたんだよ」。そんな円蔵さんのもとで、父はこれから暮らすことになります。

それでは今回はこのあたりで。毎回これで締めくくるのが楽しみな、尾崎一雄さんの『末っ子物語』に登場する妻の芳枝こと尾崎松枝さんの名セリフでお別れです。

三十六計眠るにしかず──おやすみなさい!


※トップの写真は、父の家族のお墓があった伊豆・牧之郷の玉洞院。私は幼いころに一度訪ねたきり。夫が何年か前、お参りしてくれたときの写真。


尾崎文学の魅力の再発見と、戦争のない世の中のために。読んででいただけると嬉しいですし、感想をいただけるとなお嬉しいです。