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Who's artist?

10日間のアーティストチャレンジ、というもののバトンをいただいた。
京都で、独自の演劇祭を作っている芯のある女性演劇人から。
その内容はこうである。

芸術の灯を絶やさないようにという運動。
1.毎日、パフォーマー/アーティストの人生の1日から画像を選択する。
2.パフォーマンスやショーの最中に感動した、または思い出深い瞬間の写真を説明無しに投稿し、挑戦する誰かを指名する。
3.10日間、パフォーマ写真10枚、指名10人、説明0。
活発に, 前向きに, 情熱的に… 芸術の意識を高めます!

以前に、SNS上の誰かの投稿で「自分で自分のことをアーティストと呼ぶ人はアーティストなんかじゃない。アーティストかどうかは人が評価するもの」という意見を読み、大いに違和感を感じていた。果たしてそうだろうか?

どうして自分が何者なのかを「人に評価」されなければいけないのだ?というところも気に入らないのだけど、それよりも「アーティスト」という言葉の日本語へのなじまなさがこの違和感を生み出していると感じる。この言葉ははっきりいって日本の社会に全然なじんでいない。「芸術」という訳語すらなじんでいない。なぜか。「創作・表現」一般を教える仕組みが日本の義務教育にはないからである。「図画工作」「書道」「音楽」「作文」これらにあてはまらない創作・表現活動を一体いつ、どうやってこの国では学んできたんだろう。

よく言われることだが、センスは生まれつきのものではなく、触れる回数の多さによって磨かれていくものである。(一握りの「天才」を除いて)

触れる機会が少なければどうなるか、その対象を正当に評価することができないのである。だから、偉い批評家が言っていたから、これは優れているに違いない、海外で評価されているから、これはすごいのだ、という見方になる。優れた批評家がいた時代はそれでよかったのかもしれないが(いや、よくないが)、現在の日本で芸術作品を歴史に鑑みて現在の立ち位置、そして未来に作品が残る意味までを論じられる批評家がいったいどのくらいいるだろう?

逆説的に言えば「わたしはアーティストでござい」と若いうちから肚を決めて活動しない限り、日本のアーティストは海外のアーティストに太刀打ちできるような環境を得られないのである。このあたりは、自分の師匠にあたる人が、ある時まではずっと事あるごとに「私はアーティストなので」と、外に対しても内に対しても語っていたことを思い出すにつけ、いっそう思いを強くする。(今、世界的なアーティストとなったその人は、もちろんそんなことは口にしない。)

誰だって、アーティストだ。自分が作りたいものと、作れるものの距離の間でもがいている人は。

前置きが長くなったけれど、ノート無料記事は10日間のアーティストチャレンジをこちらでアップしてみようと思う。説明はしないけれど、それにまつわる物語を語るかもしれない。自分のことで手一杯なので、指名までは至らないが、アップする写真にまつわる関係者をタグ付けすることはあるかもしれない。一緒に往時を思い返していただければ幸いである。

Ash

#アーティストチャレンジ
#舞台写真


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