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ハンナ・アーレント「人間の条件」を読む necessity 人間であるための必然性とは?Vol.4

必然性

necessity 

毎回、前回のレポートを慌てて公開するところから始まる、ハンナ・アーレント「人間の条件」を読む会。(すみまそん)

前回は必然性という話をしたところから始まったのはわかるんだけど、これ、どうやって本編に繋がっていったんだっけ?

そもそもこのレポート自体に必然性があるのか?

などと悩みながらも、とりあえず、自分のために公開することにするので、読んでよかったと思った人は、または次回も読みたい人はスキしていってくださいw

一応、前回、前々回のリンクなどはこちらから

第一回

第二回

第三回

講師は佐藤和夫先生。

雑談のなかに豊富な知識と鋭い慧眼が光る、めっちゃ面白い先生です。


ハンナ・アーレント「人間の条件」P.50

本日は、P.50から。

歴史的にみると、都市国家と公的領域の勃興は、家族の指摘領域を犠牲にして起ったように思える。しかし、炉に対する古くからの新生死は、ギリシアでは、たしかに古代ローマほどではなかったが、まったくなかったわけではない。ポリスが市民の私生活に侵入するのを防ぎ、それぞれの財産を取り囲む境界を神聖なものとして保持していたのは、私たちが理解するような私有財産への敬意のためではない。そうでなく、家をもたなければ、人は、自分自身お場所を世界の中に持つことができず、そうなれば、世界の問題に参加することができないからであった。プラトンは、その政治計画によれば、私有財産を廃止し、公的領域を広げるために私的生活を完全になくしてしまおうとした人である。そのプラトンでさえ、やはり境界線の守護神ヘルケイオスのことを深い敬意を込めて語り、一つ一つの領地の間の境界線(ホロイ)を、なんの矛盾を感じることもなく神的なものと呼んでいたのである。
人びとが家族の中で共に生活するのは、欲求や必要によって駆り立てられるからである。家族の領域の特徴がここにはっきりと現れている。この駆り立てる力は生命そのものであって– 家族の守護神であるペナテスは、プルタルコスによれば、「われわれを生かし、われわれの肉体に栄養を与える神」であったー それは、個体の維持と種の生命の生存のために、他者の同伴を必要とする。個体の維持が男の任務であり、種の生存が女の任務であるというのは明らかであって、この両方の自然的機能、つまり栄養を与える男の労働と生を与える女の労働とは、生命が同じように必要とするものであった。したがって、家族という自然共同体は必要(必然)から生まれたものであり、その中で行われるすべての行動は、必然(必要)によって支配される。

神様は各家庭の神様→都市の神様

アーレントは私的所有Private property )を保証することは絶対に大事だ、という。長年住み慣れた環境自体が自分の一部となっている。人間は、自分がそこは絶対に安心だという場所がないと、まともに育っていくことができない。

マルクスは、工業化の理論として個人の私的な利害に熱中すると人間は悪いころばかり考える、といい、共産党宣言の頃は、全てを奪われてしまった労働者は、エゴイズムなしに動くはずだと書いている。頭のいい彼は、その後それが間違っていると考え直した。

(考え直したのか!えらいな)

佐藤先生は大学時代に二宮尊徳の

「相互扶助の経済」(すばらしい本で!と先生の声が裏返った)を読んで感動した。

江戸時代の農民はイメージ的には領主にいじめられていたイメージ、あの当時は藩が運営していたので、藩のリーダーたちは農民の暮らし方にはごちゃごちゃ言わなかった。他の藩に行くなとか、コントロールはされていたけれど、税金さえおさめていたら、文句は言わなかった。

二宮尊徳は飢饉の時、農民に節約をしながら農業から逃げずに生きていける技術と方法を教えた。その間税金を減らすように各藩主に掛け合った。農業を続けて発展させるようにと、藩の上役には強固に戦い、これが成功したので、幕府から抜擢された。

地域信用金庫(相互貯金組合のしくみ)はここから生まれた。日本は相互扶助の仕組みをしっかり持っていたと言える。日本は世界有数の農業国。良い意味でも悪い意味でも、相互に監視するシステムができている。

つまり、マルクスの関心は農業ではなく工業だったために、私的所有を悪とみなしたのだけれども、アーレントはこれこそが人間を安定させて、社会を形作るとした。

社会主義とは高い生産性に支えられているもの。農民から食料と労働者を摘発するしかない、農民社会にとどまらずに、生産性を上げていこうというのがマルクスの主要な考え方だった。

これに対して、私的所有というのがアーレントの核で、これが人間にとっては一番大事なものであるとアーレントは説く。

(このあたりは少し飛躍もあるように感じるかも。前回のを読むと少しつながるのですが、高度に雑談のなかで、進められていくので( ´∀`))

だから、地域主義を復活させることが21世紀の課題である。


農業の金にならなさ。成長曲線が違う。

日本はもともと農業自立国だったのに、工業製品を売る代わりに食料を輸入をしますという。

労働時間を減らせば良いのに、そうならず、人が人に接する空間にのみ労働力が必要で、ものを作るためのところには人が要らない。






「ブルジョア」は自分の利益のことしか考えない人とされ、共同体に興味がないという人たちのことを指した。土地を作って自分で工場を経営して金を稼ぐのは自分の自由だ、というように。各人が自分の利益しか追求しないと、お互いがお互いの狼になる。内乱状態になるのを避けるためにリバイアサン(絶対的支配者)を作って、

ヨーロッパが近代社会になった理由は30年戦争、各地域の領主が勝手に戦争をやった。欧州全体が荒れた。こんなにお互いに戦争ばかりやってるのはやめよう、となり、ウェストファリア条約でいわゆる現代の国家というものが生まれた(One Nation, One language, One State)

日本は島国なので、そういう錯覚をしやすい。だから近代化に成功した。

旧ユーゴの話。スロベニアとマケドニアの所得は全然違った(6倍)経済が上向きの時ではそれでも文句をいわないが、経済がうまくいかなくなると、生産力の高いほうが低い方をディスる状況がかならず出てくる。お互いの民族の違いを尊重したが故に、ユーゴスラビアを大切にするという考え方はなかった。

スペインのカタルーニャは生産力高い、アンダルシアは低い、同じことが起きる。

 グレートブリテン=大ブリテン=大ブルターニュ

『回想の明治維新』メーチニコフ

日本の識字率は世界を見ても珍しいレベル。天正少年使節がグーテンベルグの印刷機を持ち帰ってきた。ヨーロッパでもそんなに印刷されていなかったのに、日本では三千部以上を印刷した。

フランスの教育は万人向けではなく、エリート教育に力を入れている。

庶民が歴史に誕生したのが20世紀。

ドレフィス事件(根拠がないことがはっきりしたのに、国民がユダヤ人嫌いの感情でガセネタを許容した)

ル・ボンの『群衆心理』


シモーヌ・ヴェイユの父アラン「精神というものは、肉体の必然性に抵抗しようとする働きである」

みなさんの生命と安全を保障します、は「ナショナリズム」に直結。

日本国民(日本に納税し、代わりに徴兵、学校教育、日本国民であることを約束するために代議制を行う、それを基礎に工業の発展を目指すのが近代国家の基本。

学校教育も本来は、国家の義務であってはいけない。本来の役割は国民が自分たちで進んで学べる条件を与えること。

義務教育は近代国家の拠って立つところ

「近代国家は国家規模の会社である」

ほう?



イギリスの王室はすごい土地持ち。貴族階級はいまだにいる。

農民問題こそが世界史の最大の問題。

いわゆる社会主義革命をした国(キューバ含む)はすべて農民社会の国。資本主義の議論が現れ始めたのが1789年。

国民の80%は農民だった。米軍の占領下でよかったということは、本当に自営農ができたこと。欧州では、国が買い取って、国に負債を払い続ける形で農民が田を耕した。日本ではほとんどただ同然で分け与えられ、農業を営むことができた。

ロシア革命などでは、農民を組織しないと革命できなかった。

社会主義は本来工業のために生まれた理論、マルクスなどは資本主義の発展を基本にして、社会主義を説いた。農民に土地を公平に分配するということは言わなかった。権力を倒すのにはみんなが賛成、毛沢東は農民に土地を与えるといったことで、あの大きな国の人たちの心を掴んだ。

ところが、社会主義の理論によると、自己利益を追求はまずいので必ず国有化しなければみたいな理論になり、農民はまた領主がでてくるのかと警戒する。社会主義諸国の農民は社会主義政党に反対している。民主化までは推進するのは社会主義政党、土地を与えるまでは。与えられた後は、上からやらされたら労働を強いられている形になる;それがスターリンを生んだ。

いったい人びとが自分で暮らすための自分の空間をもつことと、共同で場所をもつことの関係はどんなものなのか?

このあたりが、次回の核になりそうです。



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