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コロナにつける薬 Vol.16 フィジーの幸福論

さて、今日は友人、永崎祐麻がフィジーから日本の企業とタイアップした企画で彼独自の価値観や幸福論について語ってくれるというので、そのメモをここに残そう。フィジーには2年前、子どもと二人で「短期留学」した。そのときYumaにはいろいろアドバイスをもらい、向こうでも家族ぐるみで交流した。(今日のヘッダーはその時、Yumaファミリーとスマグラーズコーブで会った時の写真)


Yumaはこんな人↑
ほんとに様々なメディアで紹介されているので、気になったひとはいろいろググってみるといいよ。彼とは、ともに内閣府の「青年の船」事業の卒業生という縁があり、同期ではない上に乗った船も違う(彼は「世界青年の船」で私は「東南アジア青年の船」の出身)けれど、そこで育まれる価値観を持つ日本人同士は、日本の社会からはみ出すのか?出会う確率が高い。笑

冗談はさておき、青年の船に関しては、とにかく対象年齢に当てはまる人は誰でも参加したほうがいいと私は思ってるので、興味のある方はこちらをどうぞ。(しかし現在コロナのために新規募集がない上に、相変わらずお固い…。ま、その信頼感があっての国と国の間の青年派遣だからね…。)

さて、前置きが長くなったけど、本題に入っていく。日本より3時間、進んでいるフィジーは今日は雨だそう。28度。ゆーまがタンクトップ半パンで登壇してるのを想像してたけど、見たらちゃんとこぎれいなTシャツ着てた。(下は半パンかもしれないけどなw)

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今日のウェビナー企画はNECの未来創造会議という有識者会議によるもの。パネラーの基調講演と、クロストークによって個人の「ウェルビーイング」を見出すヒントを得る、ということのよう。ファシリテーターをしているNECの岡本さん(オカポン)とは、実は地元でよく飲む仲間。

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オカポンが地元でやってる「こすぎの大学」も面白いので、興味のある方はそちらをどうぞ。

フィジーという国について

Yumaの個人的な体験を交えながら、フィジーという国の基本情報が語られる。メモ程度なので、詳細がもっと気になる人は是非彼の本を。(私の抜き書きなんかより、本人の言葉を読んでほしいもん。船で自虐的な自己紹介してどんずべりしたときの体験を描いたマンガなど。何度見ても面白い)

以下はYumaの基調講演(?)のメモ

MEMO
フィジー人の特徴
・おじさんが幸せそう(笑)
・脱力
 (ATMで後ろの人に「いくらおろしたの?」と聞かれると、にこやかに額を答えちゃったり。日本人は常に、危険がないところでも武装している。フィジー人は人を信用して、その信用を打出の小づちのように打ち続けている)
・脱不安
・シェア先進国
 (なんでもシェアする。勝手に借りていく「ケレケレ」。
  日本人のように個人で所有して大切にする、という感覚がない。)
 ※幸福度があがるのは割り勘ではなく、おごりあうこと。(不等価交換)
・自立=依存先をふやす
 スーパーがあるのに、食料をもらいに来るフィジー人。なんで?「単純に、スーパーよりもうちの方が近いから」
 受援力が高い!!!(日本人は頼ってもいい場面でも遠慮するのにね)

じゃあ、幸せのために必要な価値観って?

どうやら、フィジー人のお金やものに固執しない生き方、他者やコミュニティに気軽に依存するところに、秘密がありそうだ、というところで、ここからはクロストーク。

ここで語られたのは、ざっくり言えばお金に代わる価値観とは何かということ。ここでもYumaはなかなか印象的なボディブローを繰り出す。曰く、

お金の一本足打法から抜け出す
メモリー(≒共感)
今は、「思い出の荒稼ぎをしている!」ところ

これら、ジワジワ効いてくるフレーズの意味は各自咀嚼していただくとして。

お金そのもので喜びを作り出すわけではない。たいていのひとは、今まで生きてきたなかで一番記憶に残っているのは、一番自分の感情の幅がゆれうごいたときのこと。人生の喜びとは何か?

エコノミックキャピタルと、ヒューマンキャピタル、ソーシャルキャピタルのバランスをとる。人間性や社会関係性をもっと引き上げることが必要。

などと、いろいろな意見が活発に飛び交っていた。パネリストのみなさんも頭と心が柔らかいから、すぐに自分のフィールドに当てはめて、論理的に話を持っていけて素敵だ。

お金という絶対的価値は、資本主義社会の拠って立つところだからそう簡単には代替論にはならない。お金+αの価値観を生み出したい、という方向に議論を持っていった。

成長って要る?


さて、そんなこんなで終盤、Yumaからまた爆弾発言。「そもそも、成長って本当に必要?」

ざわっ…ざわ… とまたぞろPCの向こうが騒がしくなる(知らんけど)。そもそもこの会議の最初に「社会の成長・発展、地球の持続可能性、個人のWell-beingを同時に実現するときの課題は?」っていう問題提起があったやん。それについて、パネリストのみなさんのトークも高まった。

パネリストの一人、岩波直樹さんからのトークが印象的だったから、引用しておく。

成長は、生きている限りし続けるものであり、目的ではない。
ひと昔まえの日本は、不自由な共生をしていた。
複数所属がないので、コミュニティのルールに従わなければならない。そこから抜け出したくて、人は自由な孤立に向かってきた。自由を得た代わりに、共生はできなくなる。必要なことがあればとにかくお金を払って解決する。結果として経済は成長した。でも、つながりはなくなった。だから次は自由な共生に向かわなければいけない。つまり出入り自由で複数所属が可能なコミュニティとのつながり。どっちの人間なんだというようなことを言うと、これは成り立たなくなる。

うん、私昔から一つのコミュニティやグループに所属するのが本当に苦手だった。会社や、劇団に入っても、すぐに出たり入ったりできる立ち位置を探し続けてた。深入りした方がいい場面は沢山あって、アーティストも依拠する場所がないと苦しいよ、と芸大の先生たちにも言われたのを覚えている。でもやっぱり、所属はフリーでいたい。その結果、今みたいに生きてるわけだけど。

アーティストがそもそも、世間一般の幸せを求めるべきか?という議論は長くなる上に今日の本論ではないので、おいておくとして。


参加者からの質問

Q1:フィジー人には等価交換の価値観はないのでしょうか?
A1:圧倒的なやりとりの量がちがう、あまりに普段からしているので、等価であるかどうかを意識しなくなる

Q2:フィジーにも会社があると思うけれど、価値基準はどうなっているのか?
A1:フィジーの人はビジネスマインドは持っていない、だから国の経済はインドからの移住者が担っている

そうなのよ。インド系のフィジー人のビジネスマインドは凄まじかった。微笑みの国フィジーをイメージして空港に降り立ったわたしはいく先々で直面するインド人たちのビジネスライクな対応に面食らった。フィジーが国家として成り立つために、彼らの存在が不可欠なのは間違いない。微笑みだけでやっていけたなら…こんなに素敵なことはないのだけれど。

第三の選択肢

あっという間に2時間が過ぎた。最後にNEC側から「問題提起」になるような動画(人々が今の状況を改善しようとして2050年に到達したひとつの形を提示。ただそれは、それぞれのコミュニティの中でしか完結しておらず、となりのコミュニティとの橋がない)を流す。むむ。なかなか挑戦的な内容ね。

パネリスト各人が、それぞれの感想を述べて総括する。エネルギーの循環、流れがあるコミュニティが大切。コップが溢れたときに、どことつながることができるか。「無意識のうちにつながることができる関係性を築く」などの意見が。

で、Yumaの結び。

フィジーにフォーカスをあててくれてありがとう、ここに、アフリカの格言があります。「早く行きたければ一人で行きなさい、遠くまで行きたければみんなで行きなさい」ビジネスの現場でよく引用されるので知ってる人も多いと思うけど。先日、フィジーの語学学校の先生たちにこの言葉を伝えたとき、なんと彼らから「行かないという選択肢はないのか」と言われた。

選択肢は、前に進むためのものばかりとは限らない。早く行く、どこへ? 遠くに行く?なんのために? 

毎月遺書を書くのと、9歳以下の友達をたくさん作るというのがYumaの今年の目標だという。前者は船での「彼女と別れました」的な掴みと勝手に理解してるのだけど(違ったらごめんやで)後者はとてもいいね。

笑顔は人間だけがつかえる技術。子どもたちはそれを活用している。そして、お金から切り離されている子どもたちの時間環境はとてもきれいだ。彼は、フィジーの子どもたちに将棋をおしえることで友達になるんだと。いいじゃん。スピードアップしたのが自分たちなら、ダウンシフトしていくのも自分。

私個人は、前に進もうとするのは人間の性だと思ってる。だから前に進もうとするひとは普通なんだと思う。早くいきたい人も、遠くいきたい人も。私も成長したいし、まだ見たことのない景色を観たい、普通の人だ

じゃあ、行きたくないというのはダメなことなんだろうか?いや、そんなことはない。流れに逆らってそこに留まっていたら、誰かが勝手に面白がって来てくれる。そんなこともあるよね。それがまさに、フィジーなんじゃないかな。私も行ったし、パネリストの人たちも最後には口揃えて、フィジー行きたいと言っていた。


まとめ

さて、移動時間にポチポチと書いて行ったら意外と長文になったので、まとまらなくなった。だからこれはまとめではなく、かなり主観的な感慨である。

コミュニティとコミュニティがつながること、個人と個人がつながることはあまり大きな違いがない、とYumaは言ってたし、私もそう思う。今回のように誰か個人を介して、コミュニティはつながるのだ。私はYumaを通してフィジーを知ったし、そこから繋がった別の縁でまた他のコミュニティとつながり、そこに橋をかけるような活動をするかもしれない。

私ができなくても、私と一緒にフィジーに行った息子の空太郎がするかもしれない。つまりはコミュニティに橋をかけられるような存在になること。それが私が、年下の友人たちに伝えたいことということになる。それは、アーティストとして私が一番大切にしていることと奇しくも全く同じことだったのだ。

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