見出し画像

自分の手で作ること、それを諦めること

好きな料理は自分の手で作れるようになりたい。昔からそう思ってきた。特に、家二郎とバターチキンカレーはいくら作っても飽きない。

グループ展でもそうだった。友人たちと議論したり制作したりするのは楽しい。役割分担が重要なことは分かっている。それでも、できることならすべての議論と制作に携わりたかった。実際に、雑多な範囲の作業を私が巻き取っていたように思う。

ソフトウェアエンジニアとしてもそうだ。仕事としては、もちろん得意不得意に応じて役割分担していくが、できることなら全部できる自分でありたいと思う。無論、趣味の開発では、構想からデザインから開発運用まで自分でやりたい。

「やりたいことは何か」と問われたら、それなりの数を挙げることができる。間借りのカレー屋さん。技術書を置いた小さな本屋さん。友人たちとのトークセッションを題材にしたZINEの制作。他にもいろいろある。どれも自分の手で作れそうなものたちだ。歳を重ねるごとに、そういう物事が増えてきた。物事を続けるごとに、自分に求めるクオリティも高くなってきた。気持ちに身体がついてこなくなりつつある。どこかで諦めないといけない。

エンジニアとしての専門性に悩んでいる。全部自分でやりたいということは、全部が中途半端になるということだ。相当な才能と努力がなければ、1人で質の高いソフトウェアを作り上げることはできない。当然、私には難しい。専門領域を作っていこうか。中途半端であり続けようか。どちらの道もあるだろう。今は駆け出しだから、好奇心のままに全部を全力頑張る意味がある。でも、きっとこれからもそれを続けることはできない。どちらかを諦めないといけない。もしかしたら、どちらも諦めることになるかもしれない。

いずれにせよ、自分の手だけで作れるものは小さくまとまる。大きい物事においては、部分を担うことしかできない。小さいものたちの寄せ集めをしていくのか、専門領域を持ちながら片手間で小さいものをしていくのか、何か大きいものに取り組んでいくのか。悩ましい。

どの選択をするにしても、自分の手だけで作るのは、もう厳しいように思う。もちろんこれまでも、他者の手をたくさん借りて、物事に取り組んできた。とはいえ、仕事以外の自分が始めた物事においては「自分が最も手を動かすべきだ」「自分が手を動かせばどうにかなる」という意識が少なからずあった。体調の問題でできなくなっただけで、おそらく今も同じ意識を持っている。それでは、自分の手を離れているとは言えない。

そろそろ諦めどきなのかもしれない。そして、それは前向きな諦めなのだろう。良い諦め方を模索したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?