地域で活動すること、クルーを作ること
地域で学生が学ぶ。あるいは、地域で学生が活動する。現在、そのようなプログラムが全国各地に存在している。このようなプログラムはいつから存在しているのだろうか。何で読んだか忘れてしまったが、地域インターンシップの先駆けとして新潟県の中越地域での取り組みが2010年代中盤にあったというような記述を見た記憶がある。今調べてみたところ、ETIC. の「地域ベンチャー留学」が2011年から始まったらしいので、そちらの方が先かもしれない。私が携わっていた「復興・創生インターンシップ」は2017年から開始している。詳細な歴史は把握していないが、2010年代から現在にかけて、地域インターンシップのような枠組みが形作られてきたことは確かだろう。
学生が地域に入ることはどのように意味づけられるのか。例えば、「地域ベンチャー留学」の募集要項の冒頭には、次のような案内文が書かれている。
「復興・創生インターンシップ」の事業紹介は次のように書かれていた。
「地域や企業の課題の解決に学生が取り組むことが地域や企業の利益と学生自身の学びになる」という内容がいずれにも書かれている。
では、課題解決にあたり学生に求められている役割は何か。企業や地域が解決できてこなかった課題を学生が直接的に解決するのはそう簡単なことではないだろう。仮に、通常業務の人員確保のために受け入れるなら、直ちに問題だとは思わないが、それは安い労働力を確保しているだけだ。実際には、地域インターンに携わってきた実感として、地域企業は業務の時間を割いて学生に接してくださっている場合がほとんどである。すぐに分かりやすい結果が出ない中で、継続しているインターンシップがほとんどなのではないだろうか。
地域インターンシップに参加する学生などを「関係人口」と呼ぶ動きがある。「移住した定住人口でもなく、観光に来た交流人口でもない、地域と多様に関わる人々が地域づくりの担い手不足になることを期待している」と総務省は関係人口について記述している。その具体的な事例として、総務省の関係人口ポータルサイトでは、新規事業や学生団体の立ち上げ・自治体の行政計画策定への参加などが挙げられている 。田中(2020)は、島根県などの事例から、関係人口と社会関係資本を形成する過程で地域住民が主体性を獲得していくことが重要だとしている。
ケースバイケースであることは前提として、地域インターンシップにおいて学生が求められている役割をあえて一言でまとめるなら、「外部アクターとして地域社会(企業)に参与することで地域住民(社員)の主体性を醸成すること」だと言えるのではないだろうか。人口減少あるいは災害による影響を地域社会や企業が受ける中で、行政や地域団体が学生プログラムを通じて、そのような変化を生むことを試みている。その功罪は私には判断できないが、少なくとも私がそのような環境で育ったことだけは確かだ。
具体的な話をしよう。「りりりのり」という葛尾村に関する冊子の創刊号のインタビューの中で、次のような内容が書かれていた。
この話は地域インターンシップの意義について考える起点にできそうだ。二つの軸がある。一つは「地域や企業の課題を解決する」「自分がやりたいことを挑戦する」という取り組みの志向性について。もう一つは「外部アクター」「定着」のいずれを求めるかということについて。実際にはグラデーションではあるが、このインタビューでは「地域や企業の課題を解決する」「定着する」を良いこととしている。「復興・創生インターンシップ」の事業紹介にも、「地域を好きになってもらうことで将来の移住定住も」という記述があるように、東日本大震災をきっかけとしたプログラムには移住定住促進の意図が強いのかもしれない。
その上で、地域や企業の課題を解決するような学生が定着することが望ましいことなのか考えたい。学生が定着するかどうかは最終的には本人の問題なので、正確には、地域や企業の課題を解決するような学生が定着することを求めることは望ましいことなのか考えたい。
少し考えてみた。求めること自体は構わないと思う。中長期的に関わってくれて課題を解決してくるなら、学生自身も望んでいる限り、基本的に良いことだろう。交流人口に対する「交流疲れ」があったように、地域インターンシップに対する「受け入れ疲れ」があるのも当然だ。ある種の教育者としての倫理を持つべきだとは思うが、課題解決や文化継承を意図して学生の受け入れをしたときに、その意図に反して自分勝手に動く学生たちにもどかしさを覚えるのも理解はできる。
しかし、定着のことを考えると、お互いにそのままで良いのだろうか。定着あるいは移住定住を意図するということは、彼らが地域住民になることを想定しているということだ。最近の移住定住促進政策にも通じるが、地域住民になる移住者たちに、地域に貢献する外部アクター的な役割を求めるのは好ましくないように思う。原発被災地域のように移住者割合の多い地域なら尚更だ。中長期的に地域社会が続いていくことを考えた時に、重要なのは「私たち」としての地域の語りを移住者ができることではないだろうか。そして、「私たち」として地域社会にコミットすることではないだろうか。少なくとも、私はプログラム参加者の単純な延長線上の移住者になりたくない。
HIP HOP みたいなクルーを作ろう。これまで高校生から7年間ほど村に通い続けてきて、今秋に村に移住しようとして、そう思うようになった。新しいイエを作ろう。とも言えるかもしれない。
地域やムラと言うが、それは家族や企業などの様々な中間組織の集合体だ。単身で移住すると、村に家族はいない。私の場合、リモートワーカーのソフトウェアエンジニアなので、村に所属企業もない。その状態で語られる地域は中間組織なくダイレクトに繋がる幻想としてのムラ、あるいは少数の個別的関係を全体視したムラである。地域への視点を相対化するには、いろいろな中間組織と関わってみることが重要そうだ。
その上で、移住者がマジョリティの集落があるような地域では、自分たちで中間組織を作っていく必要がある。それが「私たち」として地域を語り、「私たち」として地域にコミットしていく必要がある。「自分がやりたいことを挑戦する」が批判されるのは、外からやってきた知らない人たちの活動に不本意に地域住民が巻き込まれるからだろう。その立場なら私でも嫌である。というか、知っている人たちでも信頼できない人物がいたり納得できない活動であれば、反感を覚えるものではないだろうか。結局、これは活動の動機や内容ではなく、周囲との関係構築の問題なのだと考えている。
それならば、「自分(たち)がやりたいことを挑戦する」をやりきれる仲間たちを作り、仲間たちと一緒に地域における信頼関係を築いていくのが筋ではないだろうか。これはどこまでの普遍性を持つ話なのかは分からないが、移住者たるもの、地域社会を鑑みず自分のやりたいことを押し通すでもなく、地域社会に貢献する支援者を続けるでもなく、仲間とやりたいことをやりながら地域住民になっていきたい。
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