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わかりやすいこと、ためらうこと

高校生の頃、わかりやすい自己紹介ができる人になりたいと思っていた。

紆余曲折を経て「棚田が好きなので棚田で使える稲刈り機を同級生たちと開発しています」と自己紹介をするようになった。自己紹介だけで飽き足らず、棚田愛Tシャツまで自作した。棚田が好きな人になりたいと思っていた。わかりやすい言葉をためらいなく使っていた。

大学生になって、わかりやすい自己紹介をしたくなくなっていった。

なぜだろう。「棚田が好き」と言う自分の内面を考えるようになったからかもしれない。棚田の先にある社会の複雑を少しずつ認識したり実感したりできるようになったからかもしれない。あるいは、棚田愛Tシャツを着たりしているのが気恥ずかしくなったからかもしれない。

「棚田愛」のように自分にわかりやすい言葉をあてることをためらうようになっていた。自己紹介に限らず、物事の語り口にためらいが増えていた。

大学を卒業して、わかりやすい自己紹介を再びするようになった。

「ソフトウェアエンジニアとして会社に勤めています。学生時代の経験から地域社会に関心があり、公共領域のシステム開発に携わっています。趣味はカレーづくりで、たまに間借りのカレー屋さんを開いています。」

大体こういう自己紹介をすらすらとしている。これからしばらくはきっと近しい自己紹介をしていくだろう。

高校時代はおそらく他者に認知してほしいと思っていた。大学時代はおそらく他者に理解してほしいと思っていた。今はどう思っているのだろう。自分にわかりやすいフレーズをあてることも、ためらいながら言葉を探すことも、最近はあまりしなくなっているように思う。

大学時代の思案と行動の結果として、わかりやすい自己紹介を再びする自分がいる。その足元には、ためらいながら選んできた言葉と、そうさせてた経験があるはずだ。しかし、わかりやすい言葉は自分のためらいを掻き消していく。次第に物事もわかりやすくて強い言葉で語るようになる。あるいは、物事を複雑に考えようとしなくなる。そうなってきている実感がある。

わかりやすい言葉で語るべき場面で、わかりやすい言葉で語ることができる人ではありたい。同時に、その背後にためらいながら紡いだ言葉を持っていたいし、ためらいながら考えを巡らせていたい。その二面性を持つことは苦しいことなのかもしれない。けれども、今はまだ諦めたくない。

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