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目的を失うこと、仲間になること

この仲間たちと一緒に何かをしたい。そのような関係を私たちはどのようにして培ってきたのか。そして、これから新たにそのような関係を結ぶことはあるのか。先日、友人とそんな話をしていた。

やりたいことは何か。その目的は何か。進路に悩んだ時、そう自分に問い、他者にも問われてきた。活動について言葉で考えていくことは、目的と行動を純化していく作業である。少なくとも、私は日々メモ帳に向かって純化作業に勤しんでいる。

目的と行動を純化していった先で出会うのは、目的を共有する人たちだ。実態はともかくとして、MVVを策定している企業は良い例だろう。会社のミッションのためにビジョンを共有してバリューを実践する集団として自分たちを位置付けている。企業に限らず、活動体は基本的にコンセプトを練り込めば練り込むほど、目的に対して人が集まる形態になっていく。それは冒頭の仲間とは異なる関係だ。目的が関係に先立っている。

このことを考えていた時に、学部生の時に友人たちと輪読した古典の次の一節を思い出した。

Community bubbles into asscoiations permanent and transient, and no student of actual social life of the present can help being struck by the enormous number of association of every kind, political, economic, religious, educational, scientific, artistic, literary, recreative, which to-day more than ever before enrich communal life.

Robert, Morrison, Maciver (1917). Community, a Sociological Study. Wentworth Press. p.23-24

当時、訳し方に非常に悩んだため、bubbles into という動詞だけ鮮明に覚えていた。当時は「泡立つ」「湧き上がる」と訳したが、Claude3 Opus に聞いたところ、どうやら「〜へと発展する」「〜へと変化する」という比喩的表現らしい。いずれせよ、コミュニティから豊かなアソシエーションが生まれていると述べている。先ほどの話で言えば、活動の目的やそこに集まる人たちはコミュニティから湧き上がってくるということである。

しかし、アソシエーションが湧き立つようなコミュニティを私たちは生きているだろうか。雑な読みをすると、人間は皆そのようなコミュニティを生きているというのが本書の立場で、それは確かに100年後の現代も変わらないと私も思う。一方で、目的が純化したアソシエーションの集合体の中で生活を送っているようにも感じている。何かしらの活動に力を入れようとするほど、目的による結びつきが生活における関係の大半を占めるようになっていく感覚がある。

それが悪いことだとは思わない。ただ、純化をすることだけが全てではない。自戒を込めてそう言いたい。目的が失われたアソシエーションにも大きな意味がある。アソシエーションから目的が失われると歴史や経験や関係が残る。そうであるならば、コミュニティからアソシエーションが泡立ったように、アソシエーションはコミュニティに溶けていく。そこには泡立つことと溶けることを繰り返すダイナミズムがある。溶けることで、また泡立つとも言えるかもしれない。

そう考えると、私たちは目的を失うことで仲間になっていったのではないだろうか。

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