「ふつう」の珍しさ

 ふつうにおいしい、という言い回しはひろく使われるようになった。しかし「ふつう」の基準はひとそれぞれなので、思わぬ反発や軋轢を生じさせることがある。

 わたしも自店で「ふつうにおいしい」と言われると、ちょっと残念だ。そうかな、癖が強めにチューニングした珈琲豆が多いんだけど……

 先日、Twitterである画家の作品を「ふつうにきれいな絵」と評した人がいて、それに対して「あれだけの切実な作品にふつうにきれい」ではないでしょう、と論じている人がいた。前者も後者もそれぞれご著書のある優れた文筆家である。前者が後者をブロックしたようなので、以降の顛末は措いておく。

「ふつうに」というのは、わたしと学問領域や文化圏、知性を共有することができる人に申し上げますが、というプロトコル(お約束)なので、迂闊に使うと「住む世界が違うってのか?」と反発されるか「あ、お前のふつうはそのレベルね?」と見下され、どちらにしてもマウント合戦に突入することになる。面倒だ。
 くだんの前者氏はその後、「ふつうにきれいなもの」の偉大さや難しさを語っているのだ、と仰っていたが、それならそれでもう少し言葉を尽くすべきだっただろう。

 ここで創作人形の話。あまりにウェルメイドに作られた人形は、作品というよりも「製品」に見えてしまうことがある。製品は多くの人を対象にしたものなので、「ふつう」であることがよしとされる。しかし「ふつう」のものに何十万円を出せるお客様は多くない。創作というものは、どこかで「ふつう」でないことが求められる。

 しかしだからといって「優れた技術」をこれみよがしに使った作品は、その作為が伝わってしまう。これはこれで早々に飽きられる可能性が高い。おそろしい。

 人形の場合「当たり前のように技巧を凝らしているけれど、それが背景となるくらいの端正な作品」が通好みということになろうか。高い技術が用いられているけれど、それが「ふつうに」見える作品。それが「よくできた人形」だと思う。

 ただし人形の場合、他ジャンルの芸術作品と異なり、頭(かしら)が可愛ければ大きなアドバンテージになる。

 話が飛ぶようだが、顔面偏差値50こそが美男・美女という説がある。偏差値というのは各人の得点とそのバラツキを正規分布に置き換えて……要するに平均点が頂点となる山のような形状を想定して、両サイドに裾野のようにひろがる高い/低い得点を数値化したものである。
「スポーツ選手の平均顔」「政治家の平均顔」のように合成された画像を見たことがある人は多かろう。あれこそ「偏差値50の顔面」ということになる。感じがいい顔だ。大きくも小さくもない目、高くも低くもない鼻……平均のパーツを集めた顔は美形になる。
 しかし、平均顔は実在しない。身長160センチと180センチのふたりの平均身長は170センチということになるが、そこに170センチの人はいない。ただ160センチの人と180センチのふたりがいるのみである。

 非実在の平均値から、「ふつう」であることの珍しさや尊さを実感する。

 虚空に浮かんだような非実在の存在を思うことは、前述の「よくできた人形」と向き合う瞬間に似ている。
 人形鑑賞においては、人形と鑑賞者だけがふたりきりで向かい合うような気持になることが至福であろう。

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