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アニメによる「救い」の姿とその力

京都アニメーション第1スタジオでの放火殺人事件から1週間あまりが経ちました。亡くなられた方、そしてご遺族の皆様にお悔やみを申し上げます。そして今も病院で治療を受けられている方の回復をお祈りいたします。(※ヘッダー画像は現在行われている大学での募金の模様です。学生・教職員が続々と応じてくれています)

私はアニメ制作の現場の直ぐ近くで働いていたことがあります。昼夜を惜しまず創作と向き合い、時には大激論を交わしながら放送日という厳しい〆切りに向けて日々戦う人々の息づかいを知るものとして、今回の事件はにわかには信じがたく、今もまだ完全には受け入れることが出来ていません。この記事もようやく筆を執ることができるようになって書いています。

メディアの論調は事件の凄惨さを伝えるものから、徐々に心を痛める国内外ファンの様子に焦点が移ってきています。彼ら(私もその一人でもあると自覚しています)がいかにアニメに救われてきたか、そして今回の事件が大きな喪失感をもたらしているのかを様々な角度から報じるというものです。そこにニュースバリューがあるということは、少なからずその「救済と喪失」を巡ってはファンと「世間」との間にギャップがある、ということなのかも知れません。

アニメは物語を極めてシンボリックに、また普遍性のあるメッセージを伴って世界中に伝播させることができる表現手法です。国内においては毎週の放送が1クール(3ヶ月間)単位で行われ、視聴者のライフヒストリーとも強く結びつくことになります。(例:受験勉強で大変だった時期を「けいおん!」を楽しみに乗り越えることができた、など)少子化が進む中、若者向けの番組作りが成立しづらい環境において、深夜アニメこそがその時代の若者に寄り添った物語が数多く生み出される場となってきました。

しかし、シンボリックな表現手法であることに加えて視聴メディアが一般的なものでは必ずしも無かったことも相まって――さらに言えば日本には従来からあるいわゆる「オタク」への偏見もあり――実は若者の多数派である現在の「アニメファン」の存在を「世間」から見えづらくしていたのもまた事実かと思います。今回の事件はその存在を改めて認識させる出来事にもなったと言えます。

アニメに人生を救われたのだ、という人は私も含め世界中に数え切れないほどいるのは間違いありません。アニメには創作者の意図を超えてそれだけの力があります。しかし、それは一方でその物語に強く惹かれながらも救われない人々も一定数生まれることも意味します。教育の現場にいると「物語」は困難にある人が立ち上がるきっかけにはなっても、それだけでは十分ではないこともまた事実であることを思い知らされるのです。アニメの物語を契機に仲間や伴走者を見つけコミュニティに交わることで、いったんは失った「何か」を誰もが取り戻せるわけではありません。

今回の事件の容疑者の人物像も徐々に明らかになりつつありますが、もしかするとそんな「救われなかった」人の一人なのかも知れません。アニメイベントに企画者や出展者として参加することもありますが、作品への愛の強さが、イベントの運営の拙さや、物語の展開の方向性などをきっかけに一気に憎しみに転化する場面も目の当たりにしてきました。とはいえ、その憎しみを今回のような暴力に転嫁するのは断じて許されません。

しかし、だからといって物語に救いを求めるな、というのは見当違いです(残念ながらそんな論評がこのタイミングで登場したことには、強い憤りを覚えます)。明らかにアニメという物語が多くの人を救ってきたのは間違い無いのですから。ソーシャルメディアやクラウドファンディングを通じて、アニメ業界も、可視化されたファンとそのコミュニティの力を実感し、彼らとの交流に力を入れるようになっています。今回の事件がそういった流れに水を差さないことを願っています。また私自身も支援の取り組みを通じてアニメの力が回復するよう微力ながらお手伝いをしていきたいと考えています。


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