「100日後に死ぬワニ」は何を間違えたのか?
(扉画像は公式Twitterから引用)
100日後=3月21日に「死ぬ」と作中で残り日数と共に毎日更新され人気を集めたマンガ「100日後に死ぬワニ」の周辺が騒がしくなっています。最終回(?)となる100日目を前に後日譚が収録される書籍発売が公表され、当日には大々的な商品・キャンペーン展開が告知されたことが、ネット上で議論となっているのです。物語の結末を固唾を飲んで見守ろうとしていたところ、お土産売り場の存在が目に入ったようなもので、興ざめしたという人も少なくないと思います(わたしもその一人でした)。
日本経済新聞社でここCOMEMOの立ち上げも行った井木康文さんは、「電車男」から連なる「ネットで話題となったコンテンツがマスメディアで発見され展開される」というある意味使い古された手法が逆転し、「はじめからマスメディアでの展開を目論んでネットからコンテンツを開発していく」という手法が「100日後に死ぬワニ」でも採られたと分析し、その上でファンにも用意された「アングル」を楽しむリテラシー(プロレス脳)が求められるとしています。この作品がこのような経緯を経たのかはさておき、コンテンツ展開のトレンドとしてこの指摘は仰る通りだと思います。
しかし一方で、この物語が作者の友人におこった実話をベースに「死」を扱っていることは、その繊細さという意味で「アングル」を提示する難易度が極めて高く、商品化の告知のあり方にはやはり課題が多かったのではないかと思います。既に以下の記事で指摘されているように、「あしたのジョー」における力石徹の「葬儀」のような、ファンと作品の担い手で何らかのけじめをつける「儀式」が必要だったのかも知れません。
なお、この記事で述べられているような「死を利用して金儲けをする浅ましさ」という批判は私は支持しません。物語における「架空の」キャラクターが死ぬことで、より一層その存在感が高まり、人気を獲得した結果、「心の隙間を埋めるような」あるいは「彼らの死に至る物語への共感を体現できるような」様々な商品が生まれるということは咎められるような性質のものではないからです。場合によってはキャラクターの衝撃的な死が一巡してある種の「ネタ」となり商品化されることすらあり、私たちの多くはそれを受け入れています。
(「魔法少女まどか☆マギカ」より「巴マミ プレミアムフィギュア」商品画像。作中で自らを殺すことになる魔女(化け物)をモチーフとした衣装をまとっている。なお巴マミは新シリーズ「マギアレコード 魔法少女まどか マギカ外伝」では再び登場している。シリーズ全体を通じて、様々な制約条件はあるものの時間を遡って新たな物語が生成される、という世界観がその前提となっている)
「商品化は作者の労に報いるためにもあって然るべき」というのが、ファンの多くの実感であると思いますが、例えば美術展の最後の展示コーナー(多くの場合、その展示場で一番伝えたかったテーマが提示される)とお土産コーナーが同じ場所にあれば興が醒めてしまうはずです。多少なりとも来場者を歩かせ、照明や壁の色を変えると言った演出が採られてはじめて、両者は共存できるのだと思います。
ネット上では「余韻が欲しかった」という感想が聞かれます。もう少し専門的に言えば、コンテンツ展開におけるウィンドウィング展開とグッドウィルの醸成を急ぎすぎたのだ、という評価になると思います。詳しくは以下の記事を参照してください。
100日間毎日マンガを公開するという展開は、1クール=3ヶ月を基準に展開されるテレビアニメと期間や、ファンのグッドウィル(物語に対する愛情・愛着)やロイヤルティ(忠誠心)を醸成した上で商品化による投資回収を図るという類似点があります。一方で大いに異なるのは、毎週1話更新されることで、視聴者には物語を理解、咀嚼し、感想や考察を共有できる時間的余裕が与えられているという点です。テレビアニメが全話が一気に公開されるスタイルの配信へと移行しつくしてはいないのも、この点が大きいと考えられます。
プロレスにおいても、試合という場で選手自らが披露する様々な「口上」やパフォーマンスと、試合後スポーツ新聞や専門誌・SNSで展開されるその「アングル」の読み解きが相まって、グッドウィルが醸成されています。このような情報の送り手と受け手が生み出す相互作用には、どうしても時間が必要となるということです。この観点から、1クールという放送期間に縛られず、数年単位でコンテンツ展開を図るブシロードが、プロレス事業を展開していることの意義は非常に興味深いものがありますが、その考察はまた別の機会に……。
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