ふと気になったこと、
クエスチョンで結んでるもの
全部
a_little_curious以外
多様であることの重要性が叫ばれるってことは、それだけ人々の認識が狭く固定されている感覚があるってことかな?
敵がいないという状況で味方を見つけるには、自分で"味方"を定義する必要があるのかな。
人間以外の生き物からしてみれば人間も大自然の一部という感じなのかな。そもも自分か自分以外という認識をするものなのかも分かんないや。
データの時代に忘れることをどうデザインしていけるんだろう。
ダイバーシティというのは、多種多様なバイアスを保持することと言えるかな?
四季折々の景観を美しいと表現する感性では、季節によってがらりと変わるその趣きに儚さを感じたりする?諸行無常的な感覚と通ずるところはある?がらりと変わったと感じるのではなく、時の流れはそのようなものだと眺めるのかな?
人間の定住って地球上の生き物としては珍しいスタイルだったりするかな? 定住に伴う住居というシステムが自然環境と融和できてないみたいなところある? 建築物の崩壊と再生のサイクルはどう設計されているんだろう?
四季のない土地では1年をどう表現するんだろう。1年という周期を気にしない場合もあるのかな。
何かを伝えるのに映像での具体的な提示だと個人の想像力に委ねるところが少なくて欠点になったりする? 昔から自然を眺めて思索を巡らしただろうけどそれと何が違うんだろう。映像は情報が少ない?情報の多様さ?個々の蠢きから編まれるダイナミックな変動が映像として切り取られて思考も途切れる?
物語のように起承転結があって見せ所があるような人生でなければならないなんてことはないと思うんだけど、そのフレームでのストーリーラインを組む以外の人生像の結び方を感覚的に習得するのは難しい?
自分の加えた力が何にどう、どこまで作用しているのかが直感的に分かることを身体性と呼ぶのかな?
他者がこちらをどう思うかが自分は自分を何者だと思うかに影響するのはなんでだろう。 一人では自分を知ることができない?自分というものは一人で構成されていない?問いかけの中にもとから人々の集団の中で自分は何であるのかという視点が含まれている?
何かを譲り合うことは、相手が手放したものを自分が諦めたもののようには実感を持って知ることができないのがもどかしいみたいだ。
一日かけて一本の線を引くとかそういうことをしてみても良い気がするのに、それに気づくのが難しいのはなぜだろう
ひと一人ができることは多様な気がするのに、自分が変化することを信じられないのはなんでだろう。無意識のうちに他人や環境に安定を望んでいる影響?
誰かの持つ良いものを自分が持っていないことに損失を感じる錯覚 人に序列はないとして同じものを手にできるはずと強化される幻 分を知ることの効果はでも、必要十分を知るにはラインを飛び越える挑戦が必要で、そのためには野心や好奇心が。行動に至らない野心は損失感を煽るのかなって…好奇心は?