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竜騎士07と秋元康(「ひぐらしのなく頃に」と「豆腐プロレス」とカーテンコールの倫理)

 劇作家の書いた戯曲以外の文章や、コレオグラファーのインタビューなどを最近ずっと読んでいる。

 コンテンツの受容者が、作品に触れる時間減らしてまでそれらのテキストに触れる時間を増やすことになんの意味があるのか。豆腐の作り方を勉強しても家で豆腐は作らない。一部の実作に興味を持った人以外は、出来合いのものを買うのが普通だ。でも僕らは作品以外の文章を読むし、作品以外の文章を書く。

 言語化とは内面を文字にすることで、はたから見ると提出されたテキストは対象を解剖して取り出したものに見えるので、他のコンテンツの受容者から拒否反応を示されたりする。でもそうではなく、内部を覗くことが決してできないものの内側を想像することによって初めてそこに生まれるのが、評論の文章なんだと思う。逆に内面化って言葉を内面に取り込むことなんだな。考えたことなかった。

 そういった作業を行おうとした時に、実作家の作品以外の言葉、過去の評論と思想の集積、歴史について学ぶことは、すでに誰かが到達した想像のステップを知り、それを踏み台にして、さらに高く跳ぶために必要なことだ。ほら学校でちゃんとやっておかないからいまさら日本史とヨーロッパ史とアメリカ史と地理をやる羽目になっているよ。微分や積分やフーリエ変換は日常的に使うけど、社会科の勉強も人生に必要だとは思っていなかったよね。

 僕たちは、新しい表現と出会うたび、どこまでも高く想像していける。想像することは愛することで、それが楽しくてみんな評論やってたんだなと、10年以上前に文フリとはてなで知り合った当時大学生くらいの人達のことを思い出していた。そういうのってどこで教わるの? 学校で教わらなかったぞ。授業中寝てたのかもしんない。僕がいちばん愛したいのはダンスで、ダンスについて想像する言葉をずっと探している。好きが先にあって、自分とその気持ちの断絶を埋められていない。

 ノベルゲームの評論が流行っていたのは、文学として批評すれば文学評論になり、ビジュアルノベル、風景の中で展開されるものとして批評すれば映画評論になり、電子紙芝居、演じられるものと画面の前の私の関係として批評すれば演劇評論になり、音楽評論も可能で、その他あらゆる評論対象になるメディアだったからだと今ならわかるけど、当時あんまりわかってなかったよな。100本やって把握しようと思ったけど50本くらいで力尽きたし。演劇評論は、当時はまだ一部でしか成立していなかった二次元コンテンツの演劇化の、現在の隆盛と繋がっている気はする。ごめん適当に言っています。映画評論からアニメーション実作への反映としての新海誠とか、文学評論から文学の実作に移った人達とか、哲学をいまここにするために語る哲学者たちが当然現在のいまここに移ったりしたこととかは、見えてる。

 ヘッダの写真なんだと思いますか? NGT48劇場の柿落としに、竜騎士07から届いたビデオレターを、NGT48のメンバーとその日入場していた観客が見ているところです。僕も入場してたんですが、竜騎士07の顔をどアップ見る機会は基本的に人生に存在しないので、得難い体験をしましたね。しなくてもいい気がする。

 「うみねこのなく頃に」をプレイしている人のツイートが最近流れてきて、そういえば「ひぐらしのなく頃に」って元は竜騎士07が書いた戯曲だということを思い出した。ということは、うみねこの「愛がなければみえない」という言葉も、演劇を観るとき、観客は積極的に想像力を働かせる必要があるという話と連動してたんだなとわかる。映画的なものは背景美術が説得力を生んでくれるけど、演劇的なものは書き割りすら存在しない空間に見立てられたものを積極的に幻視しないと何が何やらわかんなくなる。

 演劇は中間を想像させるものだから、舞台で実際に行われることは、中間ではない極端なことになる。雛見沢の災害が、演劇においてはわりとオーソドックスな幕の下ろし方、「爆発オチ」の変形であることは、その視点で見ると理解しやすい。「ひぐらしのなく頃に」の頒布形態が演劇を模していたことは、既に広く知られている。最初と終わりだけが決まっていて、読者は観客として過程を見る。謎が提示され、謎が解かれる。中間が、戯曲をもとに演者/キャラによって想像され、その想像を演者/キャラが身体/立ち絵を用いて実際に表現し、表現されたものと観客の間にまた想像が生まれる。

 竜騎士07が自分でキャラクターの立ち絵を描くのは、それが彼の身体の延長だからで、劇作家であると同時に、紙芝居の後ろに隠れた俳優として、竜騎士07とキャラクター達は振舞う。劇作家と俳優が分離しきっておらず、自分の書いたシナリオに必要な立ち絵を自分で描いたという点が、同人ゲームの場において先行したTYPE-MOON、シナリオライター(劇作家)奈須きのこと、彼の書いたシナリオ(戯曲)に応じて、キャラクターの立ち絵(俳優の表現)を都度書き下ろしたことが知られているイラストレーター武内崇のコンビによる「月姫」との、演劇的にみた相違点であり、類似点でもあると言える。竜騎士07が演劇の構造に自覚的なのはわかるんだけど、奈須きのこがそうなのはなんで? やっぱりウテナで履修したのかな。TRPGという演劇形式からの出身者って部分もあるとは思うけど。

 演劇の感想が書きづらいのは、舞台上で行われることが極端でショッキング、いわゆる「劇的」なものだからで、劇中の台詞を実生活で言っていたら、役者のキャリアはその瞬間絶たれる。炎上リスクがある。小劇場演劇は、小劇場じゃないと成立しない。それをあの規模まで流通させ、読者が語る言葉をインターネットに大量に生んだ、竜騎士07はほんとうに一時代を築いた作家だった。

 閉じた範囲でないと成立しないという意味では、そのほとんどが18禁であったノベルゲームは最初から小劇場演劇的なフォーマットであったとは言える。竜騎士07は、閉じた劇場空間ではなく、全年齢向け同人ゲームという小規模ではあるが全ての層に開かれた場にスタート地点を置いて、劇的なるものを小説やテレビアニメーション、映画などあらゆるメディアミックスで広い層の受け手に届けることに成功した。そのことが評価されているという説明でしたが伝わりましたでしょうか。

 東方の話しますか? 東方の話すると分量が4倍になるし、ここで書きたいこととは関係しないので同人ゲームの話は今回はここでやめます。書かなくても東方に興味ある人だったらわかってるだろうし。ゲームの再演性についてとかは、それこそ過去の評論がたくさんあります。型月のメディアミックスって話もあるけど、それも新書一冊分くらい必要じゃない? あえていえば、どちらも出自が若い層に知られていなかったり、それ以外にも忘れられつつあるという点にヒントがある気はする。

 役者は役ではない。そのことを思い出させるために、演劇には必ず最後に、幕が下りたあとの役ではない役者が姿を見せる「カーテンコール」がある。もちろん竜騎士07の作品にもゲームのギミックとして仕込まれている。それが演劇の倫理だからだ。しかし、演劇的なものの中で、カーテンコールがないパフォーミングアーツがひとつ存在する。プロレスだ。

 プロレスには台本がある。どちらが勝つかは決まっていて、しかしその過程はあんまり決まっていない。プロレスは台本があることを認めないまま興行を終える。

 役とレスラーを分けさせない、積極的に混同させることで、観客が想像するプロレスラー像をどんどん大きくしていく。レスラーの役者としての身体はそれを精神的肉体的に受け止める為にどんどん大きくなっていく。時に、そんな発言して大丈夫なの!? というような劇的なことを言い、その言葉は、演劇の中の言葉と同じように、観客に強く記憶される。

 僕が見ない理由も、見ないなりにめっちゃ楽しいのだろうなという印象も、全部受け流してくれるような、プロレスラーの強靭な肉体があって初めて成立する演劇のスタイルなんだろうな。

 ところで、成立の前提を用意しないでいきなり自分が面白いと思うものをやっちゃうひどいプロデューサーを知っていますか。秋元康の話したくないなー。

 テレビドラマ、そして実際の試合が行われたAKB48のコンテンツ「豆腐プロレス」がある。強靭な肉体がないと成立しないはずのプロレスを、豆腐のように弱いアイドルにやらせる試みです。秋元康はすぐそういうことすんだよな。

 2018年2月に、愛知県体育館で行われた豆腐プロレスの興行を、僕は3万払ってリング真横の砂かぶり席に座り観戦した。めっちゃ面白かった。隣にいた友人が、試合展開の引用元や技の文脈を全部説明してくれた。

 この興行のメインイベントには松井珠理奈さんが出ていた。リングネームはハリウッドJURINAだった。彼女はSKE48に所属し、平手友梨奈と同じように秋元康に気に入られ、SKE48のセンターとして過ごしてきた人で、ドラマ「マジすか学園」の役名もそのまんま「センター」だった。

 「マジすか学園」には舞台版もあり、マジすか学園というコンテンツの実質的完結編となった舞台「マジすか学園 〜Lost In The SuperMarket〜」は、かつての人気キャラがヤクザとの抗争でほとんど死に、その跡を継いだ、いわゆる次世代メンバーが演じる後輩や妹たちが、抗争に参加しなかったラッパッパ四天王、柏木由紀演じるブラック(シンママ。スーパーのレジ打ち)と共に、石川賢の漫画ばりの無限闘争に飛び込んだところで幕が下りた。今日グレンラガン見にきたんだっけ? って思った。

 大好きなコンテンツが終わってしまったことは悲しくて、けれどその後のカーテンコールとミニライブを観ることで、まあ自分で二次創作を書けばいいか、演じた48のメンバーも元気にアイドルやってるしという気持ちで劇場を出ることができた。

 もう一人別の人気キャラで同じくラッパッパ四天王、松井玲奈演じるゲキカラ(マジすかプリズンに投獄されてたので生きてる)を主人公にしたほうの舞台「マジすか学園 〜京都・血風修学旅行〜」も最高なので、ドラマを好きだった人は舞台の映像も見てね。これを見ておかないと、マジすか学園3が一体なんだったのかが飲み込めないままになります。この文章にこの話いる?

 豆腐プロレスには、カーテンコールもミニライブもなかった。プロレス興行としての完成度が優先されたからで、だからその場で観戦してた僕らの満足感とは別に、ある問題が発生した。松井珠理奈がハリウッドJURINAの役を内面化して戻ってこなくなった。

 まるでプロレスラーのように、常にハリウッドJURINAを引き受ける彼女は、2018年6月の総選挙前のライブで、メンバーに喧嘩を売っているとしか思えないパフォーマンスと絡み方をした。どうみても演出ではなく松井珠理奈が勝手に始めた行為に、観客も、絡まれた後輩メンバーも困惑するしかなかった。僕が直接見たのはこの時だけで、それ以外にもあったらしい類似の出来事については知らない。いま思えばこの、リング上でのみ成立する自分と相対する相手を求める行為、あらかじめシンメを失っている(二人セゾン)、現れたシンメを失い続ける(黒い羊)センターの姿は、平手友梨奈が表現を引き受けていたものとも共通すると言うこともできる。

 松井珠理奈はその年の後半、体調不良で活動を休止した。プロレスラーの身体で行われるプロレスを、アイドルの身体が行うとどうなるのか。その実例を彼女は残した。2年経ち、豆腐プロレスが再び行われる可能性がほぼなくなっても、彼女のTwitterアカウント名は「松井珠理奈(ハリウッドJURINA)」のままだ。新日とかNOAHとかにハマって試合めっちゃ観に行ってるそうです。

 アイドルはプロレスに例えられることがある。その共通点は、役割と本人が同じものとみなされてしまうこと、1つ1つの活動にカーテンコールが存在しないことだ。だからこそ、アイドルの卒業コンサートは盛大に行われる。彼女たちには、ずっと引き受けてきた役から降りる場が必要だと、作ってきた側も見てきた側も思っているからだ。

 松井珠理奈の卒業コンサートが延期されると発表された。彼女の卒業コンサートが万全な状態で行われることを、僕は祈っている。

 彼女と同じように、秋元康に役を背負わされた欅坂46のメンバーは、平手友梨奈を含む全員が秋元康を内面化せずにただ表現として引き受けることに成功したように、僕からは見える。最後の作品である「誰がその鐘を鳴らすのか」の映像のラストでは、まさに幕を下ろす演出のなか、彼女たちが佇んでいる。これから行われる欅坂46としてのラストライブは、幕が下りた後の彼女たちのカーテンコールの場として開催されるのであろうそれは、なんとか観客の前で行おうと準備されている。カーテンコールは作り手が用意するもののように書いてきたが、実際の営みとしては、観客が拍手を止めず、一度舞台裏へと消えた俳優を拍手が再び呼び戻すという形で行われる。演者と観客の相互の信頼を、観客の意思で続けた拍手と、演者の意思による帰還で、最後の最後に確認させてくれる時間として存在する。

 欅坂46の終わりの風景が、松井珠理奈さんのカーテンコールの予感であってほしいという気持ちが、いま僕が秋元康のコンテンツに対して持っている印象です。

 秋元康の話したくなかったのにまたしてしまった。おニャン子の頃は僕の意識はこの世に存在しなかったので、高井麻巳子には卒業ライブがなかった(なんと最後のライブはファンクラブ結成記念ライブ)なんてこと、知識として知っていても実感にはいままでなっていなかったよ。欅坂46はえらいなー、坂道グループはそこらへんの制御に秋元康とタメをはる意思が存在するからなんだけど、その話を語る知識と視点が僕にはまだないし、書籍が結構出てるのでやる必要もない。乃木坂はプリンシパルだけを毎回観にいく付き合い方してたし。松井珠理奈卒コンが豆腐プロレス完結編として開催される可能性に、ここまで書いて思い当たったんだけど、怖いから忘れます。

 竜騎士07に関しては、始まりと終わりが決まっているから成立する劇的なるものを、終わりのタイミングを制御できないソシャゲのフォーマットに乗っけていいのか(明日人類が滅びるならなんでもやっていいと思います)、そこで再演されるものは一体なんなのかという論点があるんだけど、リセマラしてたら良引きしたデータをうっかり消してモチベーションを失ったので、他の人がやってくれるのを待っています。書いてるもの読んだら分かると思うんだけど、終わりのないものを楽しむ能力に僕は欠けてるんです。FGOは1部完結してから1部だけクリアしました。

 全然別の話をするんだけど、今は乃木坂46のメンバーになった弓木奈於さんが個人で出演した演劇を観に行った時の面会で、彼女が演じた役の姉が気高い選択をして思い合ってる男と一緒にならない終わり方をすることに対し、役の私は姉の選択を尊重するけど、私個人はそんないい男二度と人生に現れないんだから結婚しとけよーって言うとプンプンしてて、役と本人が別人なことを確認させてくれる時間が常に存在する小劇場演劇ってありがてーなーと思った記憶がある。あの戯曲好きなのでまたどっかで観れないかな。しかし僕の、役と本人が別人だと確認して感動する癖、なんなのだろう。アイドルとしての山本彩さんと、歌手活動をする現在の山本彩さんの振る舞いの違いに感動したことがあって、カーテンコール後のアイドルの話として書こうか迷ったんだけど、長くなるからやめときます。また別の話題の時に。おわり。

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