ある仮定と没場所性とある発見の提示

まっすぐな道で下校中の子供たちが真っ直ぐとは言えない歩きをしてることを目にした。

ある仮定として、
子供が認知している世界は、狭いとする。

子供の歩くスピードとある仮定の関係は、認知できる世界の狭いため、興味の対象がミクロな場所に存在する。

つつじのような植栽、そこにいる虫、落ち葉、道端の石ころと言ったミクロな環境因子で遊ぶことができるのである。

ベンゼルとグレーテルが白い小石やパンの屑を落として目印にいているのもある仮定を説明づけている。

ある仮定の続きとして、
大人になるにつれて、認知できる世界が広がる。

ヘンゼルとグレーテルの白い小石やパンの屑に大人は気付けない。
認知している世界が広がり、小さなものは統合されて地面、未知の一部になっているからだ。

歩くスピードも速くなる。ミクロな場所に興味の対象など存在せず、合理的な世界で生きてゆく。

ある仮定の結論
子供は、世界の豊かさを知り、大人は、世界の広さを知る。

この「ある仮定」を設定した時、大人が作る社会の中で豊かさを見つけられるのは、大人ではないものであると言える。

解釈を広げると、没場所性的な都市、街の中にも豊かさの根源を見出せる。均質的に見えるのは、鳥の目的視点で多くのものを統合させずきた見え方である。しかし、虫の目的に見えいくと、一つとして同じ場所は存在しないのである。

統合された視点→鳥の目的→「大人的解釈」
部分のみの視点→虫の目的→「子供的解釈」とする。

例えば、都市を大人的解釈(高齢者的解釈)すると、高層建築群の集合でしかない。しかし、都市の中にも銀座、新宿、原宿、有楽町…といったように地名ごとに差がある(中高年的解釈)。さらに、飲食店の様子、オフィス、店舗の広さ、道幅などにも違いがある(青年的解釈)
そして、それよりもっと小さいものの気づき(子供的解釈)の中に豊かさがある。

さらに言えば、赤子は親の腕の中しか知らない。つまり、究極の極小でニッチな部分に生物の根源たる豊かさは存在している。

ある発見
建築とは、そのもの自体は大人的解釈であるが、体験している部分的な建築は子供的解釈である。

建築より空間を
空間より場所を
場所より領域を
領域よりその周囲のみの環境を作ることにこそ意味がある。

建築は微小な要素によって構成されている。
つまり、建築は、大人的解釈から子供的解釈まで横断できる。

これまでの建築概念では、人を豊かにするための解釈をさせてくれない。子供的解釈を提供できる建築こそ世界を豊かにするものであり、没場所的概念を払拭していくのではないか。

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