建築のパーツ力(仮)

急遽、空いた時間ができ、建築の情報量を語る方がいたので、推察途中の自論でささやかに返答しようと思う、

現代の街中が没場所的な所以は「パーツ力」の低さにある。
「パーツ力」とは、仮の呼称であり、一つの建築を作り上げるための異種の素材間における関係数である。
例えば、一般的な住宅において、構造体に下地材を貼り、壁紙を貼る。外壁には、防水加工を行い、外壁を貼る。窓枠には冊子があり、あるところには、面格子や庇が設けられる。現代の住宅は、これらが規格化された部材であり、一つの建築の構成する限界とも言える。
「パーツ力」をもっとわかりやすく述べれば、スケッチをしたときの「描き込み量」とも言える。

これは、ヒトの見る景色の中で捉えられる情報量の膨大さである。現代の住宅街(外側のあり方)は意味のない情報が膨大に存在する。
そのため、中途半端なパーツ力となり、土地ごとの差異を見出せない。
それは、没場所性につながり、建築ごとの希少性を失わせてしまっているのである。(余談であるが、今の建築を時代を超えた過去の人もしくは、未来の人の目では、その希少性は高いはずである。今という点において、その比較対象は横の広がりとなり、同程度の存在となり、希少性は失われる。)

 また、「パーツ力」を仮の呼称としているのは、次のためである。
まず、「パーツ力」を考える時に、周囲の条件との比較によって、捉え所が変わるためである。例えば、海原や水面、雪原などの風景は全体の情報量はごく僅かである。しかし、全体の情報が僅かである結果、その情報の中でより細かい情報を得ようとする働きがあるように思える。メルロ=ポンティの手がかりの程度の尺度が緻密になると言える。砂漠の風景を見れば、手前の砂の粒を感じ、全体がそれでできていると実感する様である。これは、現代の住宅街において、人の解像度がどの程度のパーツの単位に起因するかという問題が生まれるのである。
 次に、同様に単純にパーツの数が「パーツ力」を高めるわけではないからである。これは、コンクリート仕上げをした時に、その表面を注視してみた時、微妙な気泡の後や囲いの接続面に現れる乱れの中で、コンクリートの粒や肌理をしっかりと感じる。人の感じる得るスケール間の中で、物理的に構築する抽象的な単位がいずれにせよ不透明であり、かつ無数に存在しているためである。この無数は、その土地の慣れ数×人類(性格的変数)×その時の気分(時間的変数)×環境変数…などであろう。つまり、理系的な答えは存在し得ないのである。
 最後に、「パーツ力」とは、小さな単位の関係により生まれるためである。例えば、飲み屋街やネオン街、繁華街の風景においては、「看板」は一つのパーツである。そのパーツ同士の位置や強弱の関係によって、その場所の風景と印象を決定している。その関係とは、建物の配置、階高、店の客単価などを容易に理解させてくれるものである。逆に、意味のない、つまり関係を持たないパーツ同士は、散らかった風景になり、中途半端で、場所性を生まない。こちらの例は、一般的な反名教師的な住宅の窓の配置を見れば容易にわかる。ここから推察するに、パーツには、スケール(諸段階)があり、それらごとのパーツの関係を読み解かなくてはいけないのである。

 建築の内側と外側からの構成を考える上で、「パーツ力」とは、外側からの構成原理を内側の構成原理に適用する時に作られるものであるため非常に重要であるとも考えている。

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