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「最強な私」から降りる

なにかが、違う。

近頃、ずっとそう思ってた。

感覚的なことで説明はできない。

でも、なにかが違う。なにかが。

先日、家族水入らずで過ごす機会があった。

そこで、母と就寝前に久しぶりにゆっくり話した。

私は、母のことを安心させたくて、

「最近の私は本当に最強よ。仕事も順調だし、男性とのご縁も増えそうで最強」

みたいなことを言った。

実際のところどうかと言えば、たしかに駆け出しの頃に比べれば状況はよくなっている。

仕事のご依頼も増え、仕事で疲れていた頃よりも顔色も良くなり、沢山の方々と出会い、心と身体に余裕も出来た。

当初ライターとしての月収が2万円の日々が続いたが、今ではなんとかその状況からは脱した。

しかし、心のどこかで。

本当は、そういう「昔より今のほうが良い物語」を作りあげたいだけだった。

自己肯定感をどこまで上げて、どこまで下げたら良いか分からず、どこまで現実を見て、どのように振る舞ったら良いのか分からずに曖昧だった。

続けて私は、母にこうも言った。

「今まで仕事を頑張ってきたから、これからは素敵な人から言い寄られちゃう気がするし、今まで仕事も頑張ってきたから今の状況があるんだよね」

「最近はようやく人生が楽になってきたわ。酸いも甘いも知って。もう過去の経験が味方になって、これからの自分を助けてくれる気がする」

と。

なぜ、ここで「仕事を頑張ってきた自分」「苦労人の自分」「ご褒美のような人生タイム」をこれだけアピールしてしまったのか。

私はその時、自分の精神状況がよく分からなかった。

ただ、自分の頑張りを母に認めてもらいたかったし、惨めな状況より「ステータスが上がっている状態」を示したほうが安心させてあげられると思った。

あと、一番は自分自身のプライドだった。

しかし、私の言葉を聞いた母は、一呼吸おいてからこう言った。

「ねぇ。別に、仕事が上手くいってようとなかろうと、あなたは素敵な人だし、仕事が上手くいってようがなかろうが関係ないのよ。『愛されるためには、何かができなきゃいけない』みたいな考えは捨てたほうがいいよ」

と。その瞬間、核心を突かれてしまったと思った。

おそらく私は、ずっと自分に似合わない服を着てきた。

洋服だけではない。

自分にフィットする男性、インテリア、食べ物、本、音楽、余暇。

それらがまだ成長過程で未熟で、でも、成長過程にいることを隠したくて「今の自分は最強だ」という台詞を隠れ蓑にしていた。

「過去よりも今は上手くいっている」

という物語を作りたくて仕方なかったから。

そのほうがドラマチックだし、物語としてハッピーで、プライドも満たされる。

でも、本当は、まだある人生の課題から目を背けていた。

そして、物事は簡単に良し悪しを判断できるものでもなかった。

毎日は”小さな幸せ”に包まれているのに、大きな幸せを求めすぎて、小さな幸せを見失いかけていた。

「成果」を優先しすぎて全てを欲しすぎていた。

「毎日食べる米が美味しくて幸せだ」

とか

「道を歩いていたら、見知らぬ老夫婦が手を繋いでいるのを見て、自分も幸せな気持ちになった」

とか

「少し贅沢して、自分の好きな家具を買って部屋に置いたら、視覚から入ってくる情報量と幸福が凄くてウフフな感じ」

とか、そういう部分に真の幸せはあるんじゃないのか。

ということに気づいてしまった。

成果はきっと、凄く大事だ。

この仕事と向き合っている以上は、そこからは逃げられない。

霞を食って生きるわけには絶対にいかない。お金は、欲しい。

でも本当のロジックでいえば、ベースに「幸福」があり、結果的に成果が出てくることが正解なのだと思う。

本当に自分に自信があるのならば、自ら私は「今の私は最強だ」なんて母に言わなくて良いはずだった。

だから私は、これから経済とメンタルと幸せのバランスを凄く考えていきたい。

とか言いながら、これは非常に繊細な話で、これからも気がつけば見栄を張ってしまう気もしている。

自分の位置を正しく理解するなんて、悟りの領域に達しなきゃ無理じゃん。

でも、気がついた今からスタートな気がする。

簡単に成果を欲しない忍耐力と、安易なノスタルジーに負けない日は、でもきっと近い気がしている。

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