一杯のソーキそばに、もう二度と会えない
人生のある時期、埼玉の某所に住んでいたことがあった。
そしてその時期、ウッカリと失恋をした。
当時、学生に毛が生えた程度の年齡だった。
今となっては、お相手のことは「世界一どうでも良いオブどうでも良い」。
今日も世界のどこかで、幸せに暮らしていてほしいくらいだ。
しかし、「どうでも良いオブどうでも良い」というのは結果論であり、本気で愛していなかったけれど、若い私は結構その恋に執着していた。
最後は、たしか煮えきれない態度を続けるお相手に私が安らかにキレて終わったのだ。
喫茶店で別れ話をしながら、グラスの水を相手の顔にかけることさえなかったが、自分の飲食代だけ数千円ドカンとテーブルに置いて静かに帰宅した。
我ながら一連の流れが、恋愛ドラマの観すぎだと思う。
そして、自分からその恋にギブアップしておきながら、心の内側がしばらく大出血していた。辛かった。
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数日後。
腹が減り、昼、ひとりで最寄り駅前の沖縄料理屋に初めて入った。
何を食べても、味なんかもうどうでも良い時期だった。
だから、全く期待しないで普通のソーキそばを頼んだ。
目に入ったメニューの文字列の中から、ただ目についたものを頼んだ。
お店の人には申し訳ないが、味を楽しむ食事ではない。
炭水化物とタンパク質を摂取するだけの、味気のない昼飯になるはずだった。
それよりも私は、「終わった恋」を整理することで脳内が大パニック中だったから。
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しばらくして出てきたソーキそばは、なんの変哲もない見た目だった。
手元に運ばれてきた瞬間から、一刻も早く食べ終えてこの店を出ようと誓っていた。
別に、店の居心地が悪かったわけではない。
それより一刻も早く、私は自己憐憫に思いを馳せたかったのである。
ところが、運ばれてきたソーキそばのスープを一口飲んで驚いた。
透明に澄んだ上品な汁は、カツオの旨味がしっかりと滲み出ていた。
程よい塩加減が効き、最後に鶏ガラの旨味がやってくる。
動揺して震える箸で、今度はトッピングの柔らかいラフテーを食べる。
見た目以上によく煮込まれておりホロホロと口の中でトロケた。
これはどうだろう。なんてことないはずの、かまぼこ。
いや、こいつも嘘みたいに、魔法にかけられたようにプリッとしていた。
おかしい。どう考えても。常軌を逸してうますぎる。
思わず私は「え?」と首を傾げてしまった。
そして、今考えてみても相当クレイジーだと思うのだが
「このそば、何か特殊なものでも入ってます?」
と、思わず店主のおっさんに聞いてしまったのだ。
すると、おっさんは私を馬鹿にするでもなく、少し驚いた顔をして言った。
「へぇ。食べた人が、元気になれば良いなって気持ちが入ってます」
と。
「ほ」
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驚いた私は、「ほ」という謎の言葉しか出てこなかった。
それまで調味料に、「元気」があるなんて知らなかった。
”元気の源”なんて名前だけ聞いたら、ちょっとキマっている感じではある。
しかし、とにかく店主は、照れながら誇らしげに自信を持って言ったのだ。
「食べた人に元気になってほしくて、このソーキそばを作っているんです」
と明確に。
そのスープを飲んでいたら、なんだか私は本当に泣けてきてしまった。
恋愛にも満たなかった恋愛の小さな傷が、温かく包まれていく気がした。
「もっと相手に好きだという気持ちを伝えればよかった」
とか、
「あの時になんであんなこと言っちゃったんだろう」
みたいな後出しジャンケンの後悔みたいなものが、全部、ソーキそばのスープと一緒に腹の底へ沈んでいった。
もちろんその場で全て解決するような問題ではなくて、後から考えてみても、心がちょっと軽くなっただけだった。
それでも人生において「全て解決しなくても、ちょっと心が軽くなる瞬間が尊いのだ」と知った。
私は人から与えられた食べ物で初めて「元気を得る」という体験をした。
スープを飲み干したあとで最後に残ったのは、希望だった。
一心不乱に食べることに熱中したあとで、放心状態になる。
そうか、私は空腹だったのか。
食後の会計がまだびっくりで、680円くらいだった。
商売っ気がないのか、その価格帯でも十分営業できる状況だったのか。
店にはひとりの客もいない。それでも、店内の空気は綺麗に澄んでいた。
その後、しばらくして都内に越した。
その次に埼玉に帰省した時、その店は「元々、ここには何も存在していませんでした」というような空気感を纏って潰れてしまっていた。
あとかたもなかった。
まるで、御伽話のような出来事だった。
でも、私は一生、あのソーキそばに元気を貰ったことを忘れない。
私もライターとして、あの一杯のソーキそばみたいな文章をこれからも書きまくりたい。
あの日の店主みたいに、「大木亜希子が誰だか知らないが、昔一度だけ記事を読んで救われたことがある」というライターになることができれば上等。
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