自分に自信を持つのどうしたら良いか問題へ考察
深夜に考える。
よく「自分に自信を持ったほうが良いよ☆」って、言ったり言われたりするじゃないですか。
アレの正体って、一体なんなんでしょうね。
そんな問題について、考察を述べることにします。
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「自信を持ったほうが良い」。
この言葉って、言われた方からしてみると感謝こそすれ、「『自信』という得体の知れない正体について貴殿は答えをお持ちですか」と思いませんか。
私は3年ほど前、ストレスで41kgだった体重が62kgくらいまで増加していたときが、最も自分に自信が持てませんでした。
当時、もし【自信が持てないウーマン・オブ・ザ・イヤー】があれば、特別賞くらいには輝けていたと思います(不名誉)。
仕事も恋愛も食らいついてみたけれど上手くいかず、その状態をあえて言葉にするならば、”頭パッカーン”みたいな状況でございました。
”頭パッカーン”[名・形動]《アタマパッカーン》1.格別(特に、異常)なところもなく、ごく普通なのに、毎日に自信のない様子。 「―だった為、毎日やけ酒した」2.人生に動揺していること。こんなハズではなかったと、乱れる様子。 類似語.人生に詰む(じんせいにつむ)やけ酒(やけざけ)迷い人(まよいびと)出典:デジタル辞書(大木書店※架空の団体です)
で、なぜ自分に自信が持てなかったのかと言えば、具体的にはこういうことだったと思うんス。
「自分で”何か”を成し遂げている実感が湧かないし、どうやらこのまま何も成し遂げずに死んでいきそうな気がする」
(が、それらを周囲に悟られまいとして笑顔だけは抜群に上手になる)
「自分には人生経験が圧倒的に不足していると思っていた」
(が、それらを周囲に悟られまいとして小手先で恋愛経験値を増やす)
「周囲の経験値が羨ましかった」
(が、それらを周囲に悟られまいとして小手先で仕事経験値を増やす)
「自分に自信がちょっとある日と無い日の差が激しくてブレる」
(たまに鏡を見てメイクと髪型が上手くいった日に自撮りを撮り貯める)
さらに厄介なのが、
「自信が持てない特別な理由はないが、毎日の努力は怠らないでおこう」
っつー考え方がメインににあって。
現実に耐えられないから、「特に理由はない」という破壊力最強の言葉をもってして思考を全停止し、面倒なことは全て後回しにしておりました。
考えることを、放棄したんすよね。
考えるのって、カロリーがいるから。
考えることよりも、何かを食べたり、You Tubeを見たり、好きな人について考えたり、鼻くそをほじったりとかして、圧倒的に楽な方に流れました。
あと、過去に恋愛で傷ついた思い出ばかりを記憶から取り出して、こすって、こすって、涙を流してみたりもしました。
「自分は傷つきながらも努力している」
そういう毎日のドラマと刺激は大切なので。
あと、自分は間違っていないという”免罪符”が欲しかったのかもしれません。
その結果、「妄想力が抜群に鍛え上げられた」という点において、その時代に感謝しております。
しかし、こうして過去について書いてみても、ハアハアではあります。
ほんとに、ハアハア。
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それで、「このままではとダメだな☆」って、さすがに愚か者なワタクシも気が付いたわけでございます。
そこから1年後くらいに、否応にもなく環境は大きく変わりました。
会社を辞めて仕事がゼロになり、アルバイト生活に突入。
貯金ゼロ、鏡を見ても「自信のない自分」がただそこに突っ立っているだけ。
いよいよ自信とやらを持つために、以下のことを実践してみました。
①周囲に「すみませんが、今ちょっと助けてくれません?」と言ってみる。
②プライドを捨てて、友達に泣き言を言ってみる。無理な時は頑張らない。
③恥も外聞もなく、なりふり構わずに自分のやりたいことを追求してみる。
当時、私にとって本当にやりたいことは「アイドルのセカンドキャリアについて本を出す」ということでした。
そこから周囲の方のご協力もあり(入り口はかなり無理矢理ではありましたが)、良いご結びついて書籍を出版させていただいたりもしました。
※当時のことについて気になる方は、「ほぼ日刊イトイ新聞」大木亜希子インタビュー記事もご覧下さい。
それで、私は。
上記の3つのことを実践したことで、「人生が上手くいきました☆ハッピーピ〜ヤ」という自己啓発的なことをお伝えしたいわけではありません。
残念ながら(いや、救いでもある)、自分のやりたいことを少しばかり成し遂げた今、
ジンセイが少し上向いたり周囲の環境が良くなったりしても、毎日、
「自分に自信が持てNEEEEEEEEEEEEEEEEEEえ」
という事実に気がついて、愕然としております。
いや、俺は自分に自信を持つために頑張ってきたんだよ!
いつになったら、この手に”自信”というものが得られるんだよ!
と、叫びだしたくなることもあります。
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ただ、なんていうか以前に比べて「生きてきてヨカッタ」と思うことが増えたんです。
そして、私はそれだけで、泣きたくなるような肯定感に襲われるのです。
その感覚は、なんていうか、思いがけない時にやってきます。
そいつは、本当にささやかなタイミングで足を潜めてやってくるんです。
たとえば、先日、新刊『人生に詰んだ元アイドルは、赤の他人のおっさんと住む選択をした』を出版記念で女性限定読書会をした時のこと。
読書会に来てくださったお客様が、
「過去に失恋を経験してしまって。でも、日常では平常心で頑張ってるんです。だから周囲にもバレていません。でも大木さんの本を読んで、こういう経験をして辛い思いをしているのは、私だけではないと分かりました」
とか、
「東京駅の本屋で大木さんの本をたまたま手にとって、読みふけっちゃって、今日この読書会に来ました」
とか、
「単純に励みになりました」
とか、
「納得しない毎日を送ったとしても、その先にも未来があって、全て完璧に自分の思う通りにいかなくても、なんかそれはそれとして、生きてみようと思いました」
みたいなことを言ってもらった時です。
その瞬間、何かこう。
生まれて初めて、「自分のような者も、誰かの人生のある1日を、少し肯定するきっかけを作れたのかも知れない」と思えて無我の領域にいきました。
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それでも、そういう肯定感や小さな幸せって、すくい上げたそばから消えていくものだと思うんです。
「最高に嬉しい」
と体感した翌日には、「もうダメなんじゃないか」って思うこともあります。正直。
それでも私は、もう少し頑張って生きてみることにしました。
だって、誰もが同じような悩みを抱えて生きているのだと仮定すれば、これまでのワタシの悩みは無駄ではないと思えたからです。
いや、もう無駄でも良いや。
もう、無駄でも良い。
何の役にも立たない失敗をしてきたに違いない。
でも、今よりももっと自信が無かった私が思い描いていた「自分には価値がない」なんてことは無かった。
自分で勝手に決めつけているだけだった。
そして、そんな悩みも他のかたちで還元できたから、もう良いじゃないか。
そんな風に、思いました。
どうにもならないような欠落も、そこにあっていい。
私がプレイしている人生のすぐ横に、劣等感があっていい。
どうせ消えねえ。
それが、私の出した結論です。
満たされない部分は、文章という作品で倍返してやる。
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今、もしも「自分に自信が持てない」と感じている人がいたら。
私は、「自信を持つという無理な強迫観念を捨てても良いんじゃないすか」と言って差し上げたい。
自信を持つために、貴方は無理に口角を上げる必要はない。
「自信がない」正体は、振り返ってみたら、自己肯定するための機動力であり味方だった。
そんなことを感じながら、本日の日記を終えますね。
抽象的な内容で、スマソ。
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