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人は、誰しも、誰かの人生の脇役である。

昔から、「自分の人生は自分が主役」という言葉が少々苦手だった。

いい言葉だと思う。

「他人本位に生きるな」という警鐘として、抜群に効果を発揮する言葉だとも思う。

しかし、その上で思うのは、「たしかに自分の人生は自分が主役だが、ミクロの視点で見れば意図的に脇役になるのも悪くない」ということだ。

というのも私たち人間は日々、他者と関わり合って生きている。

(稀に誰とも関わらず、自分ひとりで生きる選択される方もいるが、多くの人はこの近代社会において、多少なりとも他者と関わり過ごしている)

そういう意味で完全に孤として生きていくことは難しく、多くの人は日々、何かしら他者に影響を与えたり、与えられたりして生きている。

その中で「自分が主役」と思いながら人生を生きていると、他者と軋轢が生じた時、つい人を恨みたくなる気がするのだ。

しかし、実際のところ、人はどれだけ意識的に自覚しても、他者の人生にとっては脇役である。

それは、単なる視点の違いだ。

私はあなたの視点を得ることが出来ない。

あなたも私の視点を得ることは出来ない。

でも、相手の考えていることを想像し、配慮することは出来る。

想像力だけは、物理的な限界を超越する。

だからこそ「自分は自分の人生の主人公として生きているだろうか」と考えることは野暮で、そもそも人生を主体的に生きることは、私達に与えられた当然の権利なのではないだろうか。

誰しも、違う視点を生きている。

しかし、だからこそ、袖振り合うごとに

「ごきげんよう。あなたにはあなたの地獄があって、私にも私の地獄があって、でも、この瞬間は一緒にいて、お互いを思いやれたらいいよね」

と言い合うことでしか、私は他者と関わり合うことが出来ない。

いくら心の内側に個人的な哀しみや苦しみを抱えていても、尚、私は他者を配慮し、そして私自身も配慮されたい。

その時、「自分の人生は自分が主役だ」という視点は不要である。

そして時に、困ったり悩んだりしている相手を見かけた時には、意図的に「今日はこの人の人生の脇役になって差し上げる」と擬態すること。

そして、その人が今欲しいであろう言葉を投げかけて差し上げること。

その人の悩みを受け止めたり、聞いてあげたりして差し上げること。

そうして救いの手を差し伸べ、相手の心が復活したらその場から去ること。

もしくは、傷が再生した後も、一緒にいることを選択すること。

こうした取捨選択を繰り返し、理性と知性を駆使して、この世界を生き抜いていくこと。

決して、矜持も捨てぬこと。

独立した個として、自分の足で立つこと。

それこそが「自分の人生を生きる」ということなのではないか。

しかし、それらは精神的に余裕がなければ出来ないことなので、自分が困っている時に聖人君子になる必要は1ミリもないと思う。

私自身、常に自分自身の鬼のエゴイズムと戦っている。

自分のエゴが他者に向けられないよう細心の注意をはらっているが、多分、誰かを傷つけている。

っていうか、絶対に傷つけている。

めんぼくない。

それでも、その自覚と戦いながら、誰かの人生の脇役に擬態すること。

あなたを愛していると周囲に伝えつつ、しかし、決して流されず、自分の気持ちは誤魔化さないでいること。

それが出来るようになりたい。

サポートをしていただきますと、生きる力がメキメキ湧いてきます。人生が頑張れます。サポートしてくれた方には、しれっと個別で御礼のご連絡をさせていただいております。今日も愛ある日々を。順調に、愛しています。