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美醜に対して、他人がとやかく言うのは勘弁して

随分と前の話になるので、書いてしまおうと思う。

以前、とある取材をしていただいた時のことだ。

インタビュアーの方に、私はこのような質問をされたことがある。

「10代の頃から芸能活動をしていたということは、その頃から自分の見た目、つまり美醜に対しては、特別な自信があったということですか?」

と。

それまでの脈絡でいえば、あまりに不自然と思える趣旨の質問だった。

相手は、私を試すような顔をしてニヤリと笑っている。

その質問によって相手が何を引き出したいのか分からず、混乱した。

ちなみに私が芸能活動を始めたきっかけは、経済的な事情によるものが大きい。

当時、すぐにでも働かなければならない事情があった。

それで芸能界を選んだ。(そこで結果的に成功したかどうかという判断は、今は一旦、棚に置いておく)

では、「見た目に自信があったか」という質問に対してはどうかといえば。

どうしても答えろと言われれば、それは「多少はありました」と言わざるを得ない。

だが、私が見てきた芸能界というのは、「見た目に関する初期的な自信」を凌駕するほど、生き馬の目を抜く世界であった。

高い人間性が物を言う世界であった。

なかには、私生活が破天荒な役者が高い演技力をもってして売れていくのを、間近でみたこともある。

そういう時は、単純に「凄いな」と思った。

だから因果応報ではないし、平等論が通用するほど綺麗な世界ではない。

だが、「美醜に自信があるか」というのはあくまで入り口の話でしかない。

”それだけ”でまかり通るほど容易いものではない。

なぜ、そんなにも陳腐な質問が平気でできるのか。

15の頃から芸能界の端っこで物事を見てきて、気づいたことがある。

それは、あの世界は「世の中には”美”の多様性がある」という事実を多くの人に知ってもらうために存在している側面があるということだ。

多様な価値観を、広く知ってもらうために存在している。

そして、”異質”だと思っていたものを受け入れるための触媒にもなれる。

もちろん、多くの人が美しいと思える”最大公約数のような人”もいる。

その条件とは、肌が綺麗で瞳が美しくて…といったところだろうか。

しかし、見る側(つまり受け手)が変われば、その基準も異なる。

それは当然のことであり、大切な権利である。

なかには自分のコンプレックスを解消させて、昇華していくタイプの人もいる。

自分の美醜に自信を持っていなかった人がスターダムを駆け上がり、多くの人々を励ます存在になることだってある。

その、どれもが美しい行為であり、全ての人がもれなく美しいと私は思う。

見た目に自信があるかどうか、だと?

それを聞いて、私に認めさせて、あなたは私をどうしたいの。

私は、『あしたのジョー』の最終回のような真っ白な灰になった気持ちで

「見た目に自信ですか?まあ、ありましたね」

と答える。

謙遜するのもおかしいし、私は答える。

私個人でいえば、見た目に自信がないほうではなかったから。

ただし、「誰にも負けないような絶大なる自信があった」かと言えば、答えはノーだ。

正直に言って、そこまではない。

それよりも、「これから広い世界を見て人として成長したい」という気持ちのほうが勝っていた。

綺麗事と言われてしまえば、それまでである。

だが、「芸能界に入った過去がある」から「見た目に自信があった」という方程式は、極めて危険な思考である。

あぁ、あの質問を受けたことは、正直ほんとうに悔しかった。

この質問に対しては、大きな危機感を抱いた。

その時に私が言いたかったのは、こういうことである。

・芸能界を目指す人のうち、すべての人が「自分の見た目に自信があるのだろう」と思っている視野の狭さが辛い。

(経済的な事情やコンプレックス打破のために芸能界に入った人もいる)

・おそらくこの人は、大御所の芸人さんを取材した場合に「芸人をやっているということは、昔から、自分の笑いのセンスに特別な自信があったということですか?」とは聞かないはずである。

(私のことを無意識レベルで舐めている。取材しているのに敬意が感じられない)

・「自分の外見に自信があった」ということを私に認めさせることで、私にある種の敗北を認めさせようとし、「ビジュアルを利用している」ということを決めつけている。

(ように、私は感じる。これは私自身の心の有り様の問題でもある)

・「見た目」の問題に話題を転化することで、総じてそこから語るべき「心の内側についての話題」を避けようとしている。

(心の内側を吐き出させることが、インタビューという作業の根幹であるのに)

人には誰にでも、他人にいえないコンプレックスがあると思う。

もちろん、そんなコンプレックスがひとつもない人だっている。

それはそれで、素晴らしいことでだ。

ただ、私はある。

どのような状況下でも、美醜に対して他人がとやかく言うのは勘弁してくれ。

私には私の価値観と、人生と、見た目と、心の内側がある。

それは、刻一刻と時間のなかで変化していくものだ。

いついかなる時も、できるだけ正しくありたい。

「今日も私は可愛い」

そんなふうに自分が思える日が、一日でも増えるように、必死で毎日努力しているんだよ。






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