フォークとパンクの同居
※下記は全て超個人的感想であり偏見に基づく解釈であり考察であり完全な妄想であり虚構です
※『青の炎』のあらすじ等は省略します、ネタバレ有ります
『青の炎』は、小説と映画では異なる設定がいくつかあるので、個人的には違う作品として捉えているけれど、同じ作品として捉えられる部分も多々あるので、今回は共通部分に焦点を当てて書くことにします。(小説と映画の両方の考察を書こうとすると、私の語彙力も言語化能力も精神的余裕も全く足りないので諦めました。いつか。)
『青の炎』という存在について
『青の炎』を、自分はずっと「自分の心の根本を支えてくれている作品」と表してきたし、そう思ってきた。
「自分の心の根本」が何なのか、作品の「何」に支えられているのか、何も具現化できないまま。今も、具現化できないまま。言語化できないまま。
そもそも、初めて『青の炎』に触れた時(確か中学2年)に感じた、衝動のような自分の中の揺らぎや所感は、高校生の自分が触れた時のそれではないはず。だから、その時感じたものは、その瞬間に言葉にされていなければ、その感情を表す術がない。仮に後々それを言語化したとしても、それは想像と記憶に基づいているため、「その感情」ではない。永遠に言葉にされないまま、その時のその場所で「その感情」は止まっている。
そのことを踏まえた上で、「今」思い、考えつくことを、言葉にする。寧ろ、それしか「今」はできないので。
『青の炎』は読んでいて苦しい。観ていて辛い。全然気楽に手を出せない。覚悟を持って、その世界に入り込まないと、途中でリタイアしてしまう。自分にとってはそんな作品。
今まで数回、あの世界を経験したけれど、その中では、秀一(作品の主人公)に自分を重ねたことだってあったし、客観的に完全な第三者として傍観したことだってあった。今思えば、その時々で、秀一との距離の取り方が違っていた。
秀一に自分を重ねていた時期は、とある身近な人に心から消えて欲しいと思っていたし、自分の世界に入り込んで、視野がとてつもなく狭くなりがちだった。固定観念が強く、でもそれに気づけない。現実を嘆いてばかりいて、形振り構わず、他人を敵対視していた。自分が上手く動けないのは、誰か/何かのせいだと当たり前に思っていた。自分で自分の首を絞めているなんて、これっぽっちも思っていなかった。
こうしなければいけない、こうすることは許されない、といった自分の中の固定観念。正義感に似た強い拘束感。根拠のない見間違えた強い自信。物事を疑わない(疑えない)痛々しい純粋さ。
それらを、秀一も自分も持っていたのだと思う。しかも、かなり度の強いものを。
第三者として傍観した時、傍観できる立場になった時は、自分は秀一のような生き方、秀一のような性質から離脱できた感覚があった。それと同時に、いつでもそこに復帰できてしまいそうな感覚も付随していた。今もまだその立場にいるのかもしれない。
客観的にみれて初めて、秀一の環境や、周りの人物に目がいくようになった。きっと、秀一の視野を広げられる機会は、周りの大人たちにいくらでもあったのだろうけど、でも皆自分のことで精一杯。子供だろうが、大人だろうが、自分のために生きている。大人という名前に負けている大人ばかり。実際、自分の周りも、そういう人ばかりなのに気付いてしまった。それからは、大人だろうがなんだろうが、「皆、大したことないじゃん」と吐き捨てられるようになった。
安心、安全が欲しくて、自分の未来や幸せや生命が絶対的に大丈夫だという確証が欲しくてたまらなかった時期、あえて、この作品に浸ることで、その欲を絞り捨てていた。
高校生は、大人として認められる20才の人と何ら変わりのないものを持ち合わせているのに、経済的・財政的に無力であったり、法や規則、組織によって縛られて制限され易い。だから高校生は、10代は、不安定になりやすい時期として捉えられがちなのかもしれない。大人と子どもの境目のような、大人でも子どもでもないような、気づいたら諦めていることが多くなっているような、そんな期間。
そんな期間をそんな期間らしく、堂々と生きた青年が、どこか綺麗に見えたのかもしれない。そんな青年に、憧れに近い眼差しを向けていたのかもしれない。
秀一の山本警部補を見る目が、自分は好きだ。
冷ややかな目でありながら、でもどこか存在を恐れている、「らしさ」全開の、その「眼差し」が。
その「眼差し」が欲しかった。
秀一になりかけている自分と、なりきりたい自分と、なりたくない自分の共存。バランスがうまく取れず、不安定で、ふらふらふわふわしていた。でもそれが、まさに「らしさ」の象徴なのでは、と思って嬉しくなったりもした。
秀一と一緒に死んだ自分。
ハンドルを右に切って死に向かった秀一に拍手を送った自分。
ハンドルを握りしめて一方通行を走った自分。
死んでいった人に拍手を送り、死なずに生きる選択を見出せた人にも拍手を送る。死しか見えなかった人も、死しか見えていない人を見て生を見つけた人も。
秀一と同じ人も、秀一を見て違う方向を向けた人も。
「自分の心の根本を支えてくれている」と感じていた理由はまさに、この思考そのものにあるのだと思う。
最終的な選択肢。生か死か。自分がどちらに転んでも、どちらを選択しても、この作品が私の命を讃えてくれるだろうという、圧倒的安堵感。幸福感や清々しさを孕む安堵感。
死しか見えていなかった自分と、生を見つけた自分への「賛歌」。
『青の炎』は、自分という存在を肯定してくれた「第一人者」であり、自分という存在への「賛歌」でもある。
今、ようやく自分は、自分の信じている行きたい道を歩もうとしている自分に、拍手を送れる気がする。
ハンドルを右に切った秀一に向けたそれと同じ熱量で。
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二宮くんについて、少し言葉を
岡本健一さんが、青の炎時代の二宮くんを、「フォークとパンクが同居したような若者」と表現していた。
この言葉を見た時、秀一と、二宮くんの共通項は、「コレだな」と直感した。理由は特にない。
二宮くんの分かりやすいパッションを目にしたことはあまりないけれど、分かりにくくて読み取れないパッションならかなり多く見てきた気がする。
「誰よりも負けん気が強いながらも その事は表に出さないで いつも飄々としている風情でいる フォークとパンクが同居したような若者でした」
ほんの少し「外面」的な話を。
二宮くんが以前雑誌で、
美しいを、「圧倒的な『答え』」、「見てるこっちが勝手に想像を広げる余地がない」と表していて、色気に関して「思わず想像をかきたてられるのが、『色っぽい』」と表していたことがあった。
二宮くんを、美しいと形容するのは、どこか物足りない。二宮くんのふとした瞬間の眼差しは、秀一の海を眺める眼差しのような眼差しは、息を呑むほど「色っぽい」。
二宮くんの「眼差し力」が、私は好きなんだなあ、と思う。その力の加減を、自由自在に操っているようで、ファンをもその力で自由自在に遊ばせているよう。その遊ばされているような感覚が好きなのかもしれないなあ、と。
秀一の目が、そんな「眼差し力」を宿していたから、『青の炎』に惹かれたのかもしれない。否、『青の炎』に惹かれた理由の一つとして、それは絶対含まれている。
「内面」的なことについて。
私は二宮くんの言葉に魅せられた一人で、小学5年生の頃、その魅惑に誘われたのを今でもしっかり覚えている。
細かいことは分からないけれど、二宮くんは、
老子の言う「知者不言、言者不知」の知者側、
荘子の言う「知道易、勿言難。知而不言、所以天也。知而言之、所以之人也」の天に之く人側の人間だと勝手に思っている。
「こんなパブリックに言う感謝は感謝じゃない」
「僕はあまり軽々に口に出したくない」
「語らないっていうか語れない」
「軽々に」と言っているように、二宮くんは、言葉にできない感情を、それを「言葉にする不可能さ」「言葉にする不必要さ」を認知している(感じようと意識している)のでは、そして、その感覚をとても大切にしている(大切にしたい)人なのでは、と思う。
その感覚を言葉にした瞬間、その感覚が「その感覚」で無くなることを知っているから。しかも「パブリック」な場では特に、受け取り手によって純度のパーセンテージが異なることを知っているから。「その感覚」を全く異なる感覚として受け取られることが当たり前にあることを知っているから。だから、受け取らせない、勝手に解釈させない、こちら側が軽々と口にしないようにしているのではないかと思う。
そして、言葉に忠実で真摯な人間だからこそ、時には平気で嘘をついたり、文脈をごまかしたりする。
嘘を嘘と認知しながら嘘をつき、知られたくない、言いたくないという自分の感情を認知した上で、聞き手に理解されないよう、伝わらないように言葉を濁す。
日々、その時に感じる、話を合わせようとしたり、空気を読ませようとする外圧によって、焦点を当てる範囲を(無意識に)かなり狭めてしまうことが多いなあと個人的に感じる中、二宮くんは、
多くの人のピントがあっていないものに、「ピントがあってないな」と気づく→ピントをあわせる→その被写体の特徴を捉える→シャッターを押す、という作業ができる、且つ、そのスピードが尋常じゃなく速い人だと思う。
その被写体を、みんなが焦点を当てているものと即座に関連付け、自然と会話などに組み入れ、「排除」しないようにできる人。組み入れる言葉が、いつも柔軟で、優しさに基づいている。
二宮くんが、以前雑誌で「水のような人になりたい」と言っていたことがあった。(前後を省略すると、あまりニュアンスが伝わらない…)
以前は、青の炎の影響もあって二宮くんは、色に例えるなら水色のような、水属性のある人っぽいなあ、と感じていた。
でも水は無色透明なのだから、水色より無色透明と表す方が適しているのかもしれない。
色を持たない。形も持たない。水の正体はわからない。見ることが出来ない。
外界との接触によって、初めて色や形を持つことが可能になる。
あるようでないような「姿」。
そこにあることは確かだけど、それが「姿」かは分からない。
色も形も他者に委ねられている。
二宮くんは、他者あってこその自分という観念を体現しているようにみえる。そんな自分を目に見えるかたちで存在させている。
二宮くんが以前言った「僕にとっての嵐は4人」の理由が、「自分は自分が見えないから」なのも、それと根本的に同じものを共有している気がする。見えない自分を他者を通して可視化する。
色を見せ、その色彩の変化を楽しませ、時には何色なのかを考えさせる色や、何色とも言えない色を出し、惑わせたりする。
何色を吸収し、何色を反射させているのかを考えさせる。色を見せときながら「色」を想像させる。
いつも見ているアイドル・二宮和也は「私色の二宮和也」であって「二宮和也」では無い。なのに、それに見慣れてしまうと「私色の二宮和也」を「二宮和也」と捉え始めてしまったりする。
無条件で、自分の望む色になってくれるから、自分の都合のいい「二宮和也」をつくることができてしまう。
そのことが物凄く怖くなってしまってからは、他者の色になる、即ち私の色を出してくれる二宮くんを通して、私は自分の色を認識している。
そしてその色の濃さを見て、なるべく無色透明であろうと、必死になっている。
「色」の認識を誤る人は少なからずいるけれど、そんな人の色さえも見事に綺麗に映し出してしまう。その魔力のような不思議な力を持っている人なのだと思う。
いつまでもその不思議さを持ち続ける二宮くんこそ、それが私にとっての「私色の二宮くん」だし、もし不思議な感覚が無くなったり、画面の向こうの二宮くんが「二宮和也」に見えたり捉えられたりした時は、もうそれは自分が「他者」でなくなった証拠なのだと思う。
いつ気化してもおかしくないような、その儚さや危うさが「眼差し」に宿り、あるがままに存在し、透明で澄んでいるクリアさが「姿」に宿っている。
そんな魅惑的な魔力に、今日も今日とて踊らされている。
追記 (5.14)
二宮くんの不思議さ。永遠に紐解けない謎のようなミステリアスのような何か。何年追いかけても不思議なままである二宮くんに若干の恐怖を覚える。もちろん、赤の他人のことを「分かる」ことが出来ないのは前提事項だけど。どこまで魅力が詰まっているのかが全く分からない。底がない。先天的な魅力と、後天的な魅力の区別がつかない。追いかけても追いかけても、届かないこのもどかしささえも、彼の計算かもしれない…、引力まで計算しているかもしれない…、と思い始めてしまう。
でもきっと根本は物凄く単純な性質を持っている気がしてしまう。根本がスッキリしていないと、こんな複雑な魅惑は絶対放出できない。根本が混乱している人の場合、混乱を見せないように、魅惑のパターンやパワーは少なかったり小さくなりがちな気がする。だからこそ、より二宮くんのシンプルでクリアな思考、根本が気になって仕方ない。不思議なものは不思議だから、魅力があるのかもしれない。その不思議を解明してしまったら、一気につまらないものになるのかもしれない。それでも、二宮くんは、不思議を解明しても不思議が出てくる人だということを知ってしまっているから、やっぱり、不思議さの中身が気になって仕方ない。知りたい。教えて欲しい。と、なってしまう。
こんなに赤の他人を魅了させる二宮くんの天職は、やっぱり、アイドルなんだな…、としみじみと思う。全然「アイドルらしさ」なんて無いのに。絶対、アイドル・二宮和也でなかったら、二宮くんのことを好きになっていなかったと思う。
二宮くんのクリエイティブを、エンタメを、表現を、ド直球に投げられる場所が、きっとアイドルというキラキラした眩しい世界だったんだろうな、としみじみしてしまう。
今日もどこかで、眩しく輝いて見える二宮くんは、きっとこじんまりと丸くなってパズドラをやっている。
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