心細さについて

心細い、という表現で合っているのかわからないんだけれども、そういう感じの心情になってしまうことが最近多くて困っている。いまのところ日常に差し障りはしていないけど、そういう心情でいること自体がしんどいので、そういうのをもっとうまく処理できればいいのになと思う。
心細さの内訳は、仕事(極度の緊張状態)がしんどい5割、人生の展望の見えなさ3割、身の置き所のない不安感2割、みたいなかんじ。もし来世があるなら次は人の死なない仕事に就こうと心に決めている。できれば現世のうちに転職したいけど技能がないし度胸もない。
“そういう感じの心情になってしまうことが最近多くて”と書いたが、実際にはこのような心情は今に始まったことではないはずで、これまでは平気ではないにせよ自分でどうにか処理していたはずなのだ。しかし一度その不安感をやわらげてくれる他者の存在に慣れてしまうと、自分で処理する能力や不安への耐性が落ちているのを感じる。他者は不安感をやわらげてくれるだけで、当然ながら根本を解決してくれるわけではない、多分解決できるのは自分だけ。
不安を宥めかせてくれる他者の存在はその時点では本当に有り難いのでつい頼ってしまうけれど、それは根本的な解決にならないうえに、不安をぶつけられる相手側にとっても楽しい時間ではないはずで、本当なら一人でどうにか解決できたはずのことをわざわざ他人にぶつけるのはいかがなものか。いやもっと出来た人間ならきっと、不安を受け止めてくれるような他者がいたとしてもうまいことセーブできるんだろうけど、いかんせん人間ができていないので厳しい。もうちょっと練習してから人生を始めたかった。

「心細い」について考えるときに思い出すのは、3〜4歳くらいの頃、通っていた保育園での出来事だ。私の母親は保育園のすぐ隣の福祉施設で働いていて、その日はその施設と保育園との交流事業があり、その間は母親に会うことができたんだけどその交流の時間が終わったら当然母親はそっちの施設に戻っていく。それは仕方がないことだっていうのはわかっていたし、夕方になれば母が迎えにくることもわかっていたけど、どうにも母親と別れ難くてわんわん泣いて困らせてしまった。普段朝の登園時にはどうだったか記憶にないけど、その時はどうしても寂しくて別れ難くて駄々をこねて泣いてしまったことだけ覚えている。でも母親が姿を消してしまえば諦めがついてケロッとして一人で遊び始めたりしてたと思う。
私が思う「心細さ」の本質はこれで、つまり ・どうしようもないことに対して ・解決策につながる思考をするわけでもなく、そういう気分の波に飲まれた結果として起こることで、 ・それ自体は一旦覚悟を決めて受け止めてしまえば大したことではなかったりする。そしてたちが悪いのは、普段とは違うラッキーな事があると、単に喜ぶだけにはとどまれず、欲が出て余計に求めては不足に不満を持ち余計に心細くなるということ。

欲深くて困る。最大級の安定感のある職業について、なんやかんやドロップアウトすることもなくやってきて、客観的に見れば将来への不安なんて笑い飛ばされるくらいだろう。なのに将来が不安でしょうがない。私のことを気にかけてくれる人がいて、相談すれば話を聞いてくれ、願えば会うことだってできるのに、人生が心細い。

心細い、というのは先に自分で分析したところによると、単なる気分の問題であり、実態の良し悪しとは違う次元の話であるから、心細さを解決するためには一体何がそんなに不安なのかを自分の深淵と向かい合って掘り進めていくしか無いのだろうと思う。しかし掘り進めていったらなんだかとんでもなくグロテスクなものやしょうもない矮小さが浮き上がってきそうで嫌ですね。嫌だなあ。

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