フロム ブルー / トゥ ディープブルー




 無数の小声。お喋りが増幅して体育館の空気になる。暗く、落ちる照明が始まりを予感させてもなお。場に満ちた声は観客席に沈殿してた。

 きぃ、ぃん。
 甲高いノイズが鳴っても、まだそこは小さな声で散らかっていた。
 私は息を吸って、ライトが照らす先を見た。


「────」

 声が、マイクに乗って。
 透明が、声に乗って。
 感情が、透明な波に乗って。

 そこにある全ての鼓膜を透過して、震わせた。

 雑然としたすべてが一瞬で流された。

「────」

 声が、音楽に乗って。
 歌声が、演奏に乗って。
 誰もが静止していて。
 あなたの声だけがあった。

 私の頭の中は空っぽになって。それがあまりに綺麗な声だったから。そうして心にあらゆる色彩が現れた。夏の終わりの儚さのような、秋の夕暮れに掲げた追憶のような。氷菓子のような、硝子細工のような、湖面のような、晴れた空の水色みたいに透き通った声が。この瞬間を刻みつけないと。透明に焼かれて、影がずっと消えないように。

 ああ、文化祭用に提出した絵を今すぐにでも描き直したい。

 観客席の暗闇から、あなただけを見る。視線の移ろいも、細かな喉の動きも、力の籠もった指も、軽くリズムに乗る足も、揺れるショートカットも、ぜんぶ。
 私の五感が受け取れるものは、ぜんぶ。
 体育館の換気が甘い空気の匂いも。気付いたらカラカラになってた舌の感覚も。この瞬間を構成するものは、ぜんぶ。

「────」

 それはどこか水のような歌だった。底無しに深い空みたいな歌だったし、底抜けに遠い海みたいな歌だった。あなたしか、あなたの歌声しか聴こえなかったから、まるで水中にいるみたいだった。浮遊感。心が浮いてる。足が着かない。肺に流れ込んでくる。綺麗に、綺麗に流れて。



 ──肩で息をしながら体育館を出て、空を見上げた。秋の空、白く流氷が押し寄せるいわし雲の空。まだ鳴り止まない心臓と、扉の向こうから聴こえるくぐもった音。もうそこにあなたの歌声はない。だからステージ発表のプログラムの途中だったけれど、もういい。あなたの瞬間を閉じ込めてしまうために一人になりたかった。
 コンクリートの柱にもたれ掛かって、冷たい感覚を背で受け取る。袖を捲る。息を大きく、吸って吐く。目を瞑る。スポットライト。耳を塞ぐ。ついさっきの記憶がまだ奥の方で鳴っている気がした。

 ああ、すぐにでも書き留めないと。渡り廊下じゃなくて、人の少なそうなルートを選んで教室へ戻る。いつもみたいに忘れるための記述じゃなくて、出来るだけ思い出せるようにするために。それから描いてしまいたい。とりあえず雑な素描でも良い。光景を、情景を。脳裏に焼き付けた姿を紙に写しとりたい。見ればすぐ、色鮮やかに想起出来るようなものを。



「────」

 鼓膜の裏側、あなたの歌声がまだ残響してる。





1

 夕咲青が生まれたのは夏ではなかった。冬でもなかった。それはまだ寒い春の頃で、だからといって夕咲青は春が特別好きではなかった。嫌いではなかった。それは気候を考えたときの結論だった。だから秋に対しても同じような感想を抱いていた。

 もっと感傷的に考えれば、春は夏の訪れを感じる時が一番好きだったし、秋は夏が過ぎ去る寂しさが一番好きだった。この印象は夏が主軸にあるから、つまり夕咲青は夏が好きだった。暑いのはずっと嫌いだったが。


 夕咲青が『抽象的コンクリート』を書いて、それがきっかけでクラスメイトの輪島海斗と話すようになったのが春のことだった。彼と話すことに慣れてきたのが夏頃で、夕咲青は他人に目を向けることにようやく価値を感じ始めた。表現を試みるならば、自分の内にあるものだけでは不足だと考えたから。だから夕咲青は時折、人間観察をするようになった。

 それこそ最初は輪島のことを教室の最後列から眺めていたのだが、背中を見るだけでは特に面白くないことに気付いて標的を変えた。夕咲青の席から丁度いい角度で表情が伺えるような場所が最適だった。その上で、なんとなく興味を持てる人物。それが人見藍だった。



No. DATE ・ ・ 

 人見さん。私が青だから、「藍」の名前が気になった。いつも真面目に授業を受けている。時々、眠たそうに頬杖をつく。私より少し髪が短い。眺めていて飽きないくらい、綺麗な人だと思う。だけどあんまり目立ちたがらないように見える。


 ……初日はそれくらい。このクラスでフルネームを覚えたのは二人目。私が覚えたいと思って、ちゃんと自分から知ろうとして知ったのは。人見さんが初めて。


 No. DATE ・ ・ 

 ここ一週間眺めていて、なんとなく分かってきた。休み時間になると必ず彼女の周囲に誰かがいた。きっと話しやすい人なんだろう。拾った会話の断片だけでも判断出来る。だって人見さん、すっごく相手を見て相手に気を遣って話してる。気を配るのが上手いんだろうな。ともかく、かなり温和で穏やかな人柄なのは分かった気がする。


……それにしても意外だったのは、暇さえあれば人見さんを目で追ってしまった自分の変化だ。輪島君に対してすら、こんなに「知りたい」と感じたことはない。とか書いたら絶対文句を言われるからこれは心に留めとこう。

 人見さん。人見藍さん。ここ一週間眺めていて、もう一つ分かったこと。彼女は時々、すごく寂しそうな目をする。授業中のふとした瞬間とか、誰かとの会話で一瞬だけ人見さんへの視線が外されたとき。同じ目をする。同じ表情をする。同じ寂しさを。とはいえこれは、実際に何か話した訳でもない私の印象だ。私が知り得ることは、彼女が表に出す中で私が見れる範囲の内側だけ。とても少ない。

 だから、もっと。

 そうやって、ずっと人見さんの人間観察を続けていた。




2


 夕咲青は、他人に興味がなかった。唯一の話し相手である輪島に対しても、彼と話した時に感じたこと以上の広がりを持って何か知ろうとは思わなかった。夕咲青が知れることは夕咲青が知れることだけ。彼が提示した分だけを知って、その範囲内で興味は留まっていた。だから普段の話題に挙がらないこと──たとえば輪島の部活の話や友人関係の話、成績の話など──については全く興味がなかった。

 だから夕咲青が人見藍に積極的な関心を持つことは、夕咲青にとっても不思議な感覚だった。クラスメイトという比較的身近な対象にそういった気持ちを抱いたのは初めてだった。夕咲青が思うに、それはカンディンスキーやガートルード・スタインを知りたい時の感覚に似ていた。どこか憧れに近い距離感。何に憧れているのだろう。私とは全く違う、その在り方が眩しいのだろうか。

 小難しく考えなくても分かるのは、たぶん私は人見さんのことがすきってことだ。どういう「すき」なのかは分からないけど、ともかく好意なのは間違いない。これは本当に珍しいことだった。夕咲青は恋をしたことがなかった。夕咲青は友情がよく分からなかった。夕咲青には「興味ある」か「興味ない」の二択しかないのだと夕咲青は思っていた。その比率は1:9だったから、ただでさえ「興味がある」ひとは珍しいのに。

 青より深い藍の色は、たとえば思慮の深さの違いかもしれない。青と藍、色の親近感と。私と人見さん、似ても似つかない優しさの度合い。

 優しいひと。観察していて、すぐに分かった。夕咲青の感覚なら、もはやお人好しと言ってもいいくらい。頼まれたことを断らない。「教科書見せて」「シャー芯くれない?」「黒板消しといて」色々だ。頼られてるあなたは少し嬉しそう。私には無い感覚。けれど仕方なく断る場合は、本当に申し訳なさそうにする。人見さんのせいじゃないのに。頼み事をした人が、落ち込む人見さんを見て気を遣うことに対して、人見さんは笑って平気そうにする。でも、ひとりで寂しそうなかおしてるの知ってる。

 そういう人見さんの表情を見て、私の胸の奥で構造が軋む。教室の隅で、一方的に感情を抱いてる。私はあなたじゃない、あなたじゃないから、あなたがどんな感情に苛まれてるのか分からない。分からないことを悔やんだのは、初めてだったかもしれない。


 夏はもう終わってしまって、涼しい空気が流れてる。薄いピンク色の煙みたいな雲が、溶けた空色の一番遠いところに漂っている。過ごしやすい季節。過ごしやすいだけの、季節。やり過ごすだけ。クラスでもそう。私はずっと、そうするだけ。通り過ぎるのを待つだけ。漂うだけ。だけど当たり障りないことが一番だとは思えない。私は器用に出来ないから、私が本当に望むものだけ。心の底からやりたいことだけは、表現だけは、「当たり障りない」で終わらせたくない。

 あなたは。あなたは、何が好きなんだろう。あなたが譲れないものは何だろう。これまで私が見てきたあなたは……むしろ譲る場面が多かった。それとも優しさこそが人見さんの譲れないことなのかな。そうかもしれない。




3

No. DATE ・ ・ 

 秋になってしまったから、私の高校でも色々と行事が多くなる。体育祭と文化祭と合唱コンクールが連続でやってくるのはほんとどうかと思う。合唱はまあ、歌って表現だから悪くないけれど。他二つはわざわざ詳細を日記に書くこともしないだろうな。

 ……ってことをわざわざ書いてるのは、場合によっては何か書き留めるかもしれない可能性をちょっぴり予感してるから。ずっと地面を見るだけだった体育祭も、いつも看板作りとにらめっこしてただけの文化祭も、今年は少し目的が出来たから。

 「人見さんはどう過ごすんだろう」

 気になる。目で追う。心が、あなただけを見たいと願うから。視力はあなた以外を忘れさせる。普段もそんな感じなら、変わり映えしないいつもの時間割生活とは違う、どうしても心が浮き立ってしまうような特別な期間。ああ、なんだろう。すごく陳腐だけれど。すごく高校生してるきがするな。



No. DATE ・ ・ 

 意外だったようなイメージ通りだったような、人見さんは体育祭を楽しんでいたみたいだ。笑顔と汗が似合っていた。運動神経抜群ってことではないみたいだけれど、クラスのひとたちと一緒になって勝ちを目指す結束みたいなものが好きなのかも。私は最低限の協力はしたいと思うし邪魔はしたくないって思う程度の積極性だから、出来るだけ端っこでじっとしてた。ぼんやり競技を見るフリして、友達と楽しそうな人見さんを見てた。おかげで、初めて体育祭が楽しいって思えた。本来の楽しみ方とは違うだろうけど。




No. DATE ・ ・ 

 ……そして、体育祭の後に文化祭があった。

 文化祭の準備期間に私はテキトーに絵を仕上げて提出した。なんとなく、空とも海ともいえない青色と水色を描いてみた。でもたぶん、その色にしたのはずっとずっと気になっていたからだと思う。私のイメージする私の青よりも、薄くて軽やかで綺麗な空色。そして私の青よりも濃くて深い落ち着いた藍色。この二色を中心に仕上げた。抽象画の真似事みたいに完成したこれも、仕上げた時はそこそこ悪くないとは思ってたんだけどな。


 美術室に駆け込んだ私は、すぐに鉛筆とクロッキー帳を手近な机に転がした。尖りが悪かったからカッターでしゃっ、っと削る。

「────」

 大丈夫、まだ残ってる。私の空虚に反響して、まだあなたの歌声が。印象として、記憶として、光景として、余韻として。見える。聴こえる。

 少し呼吸を落ち着けて、それからモデルを観察するために目を瞑った。それは、もう目蓋の裏にしかなかったから。

 そうして鉛筆を動かしていく。炭素を紙面に散らばせて、録画より写真より劣る写実のために手を動かす。それよりもなお、私の感情を込めた表現のために。


 紙の白に少しずつ、少しずつ。丁寧に、感情のままに、黙々と、時間を忘れて、我を忘れて。

 気付けば眩しい西日を邪魔に感じるくらい時が進んでいて。ちょうどそれくらいの時間に、ひとまず描き終えた。

 随分と鉛筆の先が短くなった。また研いでおかないと。でも、いまはそんな気になれなかった。もう帰ってしまおうか。だけど今の時間は一番帰り道が混雑するだろうから……もう少し残っておこうかな。どうせ片付けは別日だし、人が捌けてからにしよう。


 ひとまずやるべきことを済ませたから、ちょっと手持ち無沙汰になっていた。その割に胸の奥では感情の残火が燻っていて、胃の底を焦がすような感覚が残留していた。まだ足りないような。この火種をずっと残したままにしておけば、私はもっともっと表現に打ち込めるんじゃないか。そんな予感もした。

 同時に、毒のような欲がじわじわと全身を巡るのも分かった。無視出来なかった。描いた絵を見る。絵を見て、ついさっきの感動を思い出す。息を吸う。体内を通り抜ける空気にはまだ鋭さがあって。私の内側にひっかき傷をつける。彫刻を仕上げる時みたいに、削ることで完成させる。固着させる。


 ……この気持ちを、伝えたい。


 それは、夕咲青にとってなんという毒であったことだろう。これまで他人に興味を持たず、表現をただ夕咲青たった一人のために模索しようと志していた夕咲青にとって、なんて大きな変化だろう。これまで生きてきて、まさかこの薄っぺらな肌を捌いて心を曝け出してしまいたい、だなんて。熱い血のような毒。これまでの私を殺して、新しくしてしまう……そんな激毒。

 私の、夕咲青の憧れはいつも芸術家だった。絵画、彫刻、音楽、小説。私が目を輝かせて語ることなんて、そんな遠い人物のことについてだけだった。唯一、歩み寄ってくれたクラスメイトの輪島にさえ、大層な感情は抱かなかった。感謝や友情未満の絆じみた関係性は持っていても、それ以上夕咲青が変わることはなかった。なかった、のに。むしろ変わらないように、ブレないように意識していた節さえあった。


 ああ。それがこんなにも鮮やかに。

 目を瞑る。掌で耳に蓋をする。こんなにも。

 まだ体育館から美術室に向かって駆けているみたいに、鼓動。鼓動。鼓動。

 いまどこかに切り傷を負ってしまったら、きっと心臓が血液を送り出す圧力のせいで、傷口から私の全てが外に出てしまいそう。私の心が抱え込めるキャパシティを、私の感情が内側から圧迫してる。


 どく、どく、どく。


 だめだ。書こう。


 そうして私は鞄から適当にノートを引っ張り出す。白紙のページを一枚剥ぎ取ってペンを握る。

 ファンレターを書いてしまおう。人見さんへ。美しい瞬間へ賛辞を。あなたへ拍手を。




 書き出しは……そうだね、

「拝啓 人見藍さんへ」

「名前も告げず、ただこの気持ちを伝えたい一心で書き殴ってしまうことをお許しください」



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 そうして私は、暗くなった教室に寄って。あなたの机に手紙を忍ばせてから、逃げるようにして学校を抜け出した。






4

No. DATE ・ ・ 

 次の登校日、午前中は片付けで終わる楽な一日の朝。ホームルームのとき、ずっと人見さんの後ろ姿を見てた。人見さんが席に着いてからこっそりと、ずっと。手紙に気付くだろうか。なにかの拍子でひらひらと落ちてしまわないか不安だった。きっと、今日はそのことにばかり意識がいってしまうだろうな。

 いや、ここのところずっとそうか。人見さんが意識の中にずっといる。でもやっぱり、彼女をステージで見てからは……この冷たい指先にまで熱が宿ったみたい。火照っていて、酔っていて、浮いていて、焦がれている。



No. DATE ・ ・ 

 その日、最後の時間割が何の授業だったかもう覚えてない。机の中の教材を取り出そうとする人見さんの指が、それに触れた。動きが止まったからそれが分かった。ずっと見てたから、それが分かった。不自然になりすぎないくらいの角度で顔を下に向けて、髪が揺れ動いて、そしてゆっくりとその紙を机の中から引き出した。体で陰になるように。それが手紙だと──他人に見られたくないものだと分かってるみたいに。

  どきどきして見てた。人見さんは数秒、下を見た後に手を机の奥にスライドさせた。そして代わりに目的の教材やノートを机の上へ。後ろからの角度だと、人見さんがどう考えてるのか分かんないな。心の中は、きっと正面から見ないとわかんない。琥珀色の瞳をじっと覗いて、その奥まで見ようとしなきゃ。私にそれが出来るだろうか。私にそれが、出来るだろうか。

 こんなこと考えるってことは、それを望んでるってことだ。明らかに自覚的に。きっといつか、あなたの心を覗いてみたい。そんな夢。ただ見惚れるだけ。だからせめて……どうかな。読んでくれるかな。

 そんなことばかり気にしていたから、もちろん授業の内容なんて何一つ入ってこなかった。


 下校前のHRの間も、この後どういう動きをすべきか思案していた。軽い掃除が終わって、教室から人がはけたら人見さんは読んでくれるだろうか。それとも家に持ち帰ってくれるだろか。そもそも誰のものか分からないソレを捨ててしまったりしないだろうか。いや……人見さんはそんなことしない、と思う。なんとなく。読んでくれるとして、どう思われるかな……それで私はどうすれば人見さんをこっそり見てられるだろうか。普段は放課後になって教室に残ってることは殆どない私が、本でも読んでたらあからさまにおかしいかな。図書館に行くふりをして、廊下とかで時間を潰して、なんとなく人の出入りで教室が空いてきたか様子を見て……それとも窓側から教室を伺える反対側の校舎に行ってみようかな。やりすぎかな。それはやりすぎだよね……

 結局、どうすることも出来ずに。送り主が私だってことが第三者に知られてしまうのを恐れて、私は帰るしかなかった。ただ、少なくとも私が教室を出る時にはまだ人見さんは席にいた。そして席を立つ素振りをあんまり感じなかった。私に分かるのはそれまで。



 日向と日陰を生じさせない程度の、つまらない、公平な雲が薄く広く空を遮る。そういう帰り道。駅に入って、電車を待って、乗って降りて改札を出て、まだ空は同じ。そうだ、私ひとりがあんな手紙を書かなくたって人見さんのともだちが……クラスメイトが……あの歌声を褒めるだろう。きっと人見さんにとって余計だった。邪魔だった。蛇足だった。きっと、そう。それでも優しいから、誰に言われなくても最後までちゃんと読んでくれるだろう。そういう人だと思ってる。

 あるいは、悲観的にならなくても称賛の声が一つ追加されたと思えば悪いことじゃない……かな。たぶん。

 私が認識する、傍から見た人見さんの人柄を考えれば……その人物像を信じれば、たぶん気に病むこともないんだろうな。

 ……むしろ私が気にするべきは……

 マンションのエレベーターを手癖で押しながら考える。

 ……人見さんが、返事を書けないことを気にしていたとしたら……?

 誰から送られたか分からない手紙に返事を書くことなんて出来ない。でも人見さん、義理堅そうだもんね……ちょっと申し訳ないな……






 それから数日……一週間以上経ってたかもしれない、人見さんが手紙をどうしたのか知る由もないまま、日々は過ぎていった。

 体育祭、文化祭ときて、最後は合唱コンクールがあった。

 合唱コンクールの時期は音楽の時間の空気が変わる。先生が普段より真面目に授業をするし、それに対する私たちの反応も大まかに二分される。「クラス全体で頑張っていこう」ってやる気のある人たちと、私みたいにやる気のない人たち。まあ私は……歌うのは好きなんだけど強制の匂いがするからそこで気乗りしない。歌い始めたら気にならないんだけど、実際に歌の練習をするまでが苦手。
 ちなみに上手くはない。
 だから、もちろんパートリーダーなんてやったことはない。

 私は、人見さんがアルトのパートリーダーになってるのをソプラノのグループから見てた。羨ましい。人見さんは正直、どっちの声も十分上手い。だから人材の少ないアルトになった。
 心配だったのは、「やる気のない人たち」がアルトの方には多くいて。そして、パートリーダーを任された時の人見さんがとても嬉しそうだったこと。
 何より、あなたがとっても優しい人だってこと。全体的に仲の良いクラスではあるけど、それでも少し不安だった。


 いよいよ練習が始まった。
 ソプラノ側はそこそこ落ち着いた人が多かったし、普段から音楽選択のメンバーもいた。リーダーはクラスの中心にいるタイプの性格だったし、円滑だった。私も他の人も従順だった。

 横目で隣のグループを見る。
 あなたが困った笑顔でメンバーに何かを話しかけているのが見えた。

 そんな顔しないで。

 そんな顔しないで。

 授業時間が残り四分の一になっても、アルトのグループは上手く進んでいないように見えた。何度か先生が介入するのも見えた。それでようやく、無気力を隠そうともしない不貞腐れた姿勢で口を開けてるんだか開けてないんだか分からない程度。

「なんで私あっちじゃないの」
「うざ」
「てかめんどくね? 歌とか」

 黙れよ。

 初回の授業が終わって、散り散りにそんな文句ばかり吐いてる。あなたは黙ってる。口をきゅっと結んで、楽譜を見るフリをしてる。

 私は……私は、何も出来ない。
 ごめんなさい。



 二回目の授業でも進展は無かった。先生や他のパートリーダーは諦めた。やれる人だけやればいい。やりたい人だけやればいい。クラス一丸となって本気で取り組むクラスもあれば、そうじゃないクラスもある。飲み込んで喉を通過させてしまうために渋々取り組むクラスもある。それだけ。

 だからきっと、あなただけが。

 あなただけは、まだ諦めていなかった。



 ……その日は放課後に図書委員の当番があったからいつもより長く校舎に残ってた。鞄を図書室まで持っていくのが面倒で教室に置きっぱにしてたから、取りに戻ってた。
 その途中、人気のない廊下。
 壁に隔てられてなお、透明度を失わないあの声が。声が聴こえてきた。
 廊下の大きな窓から夕焼けとは少し違うトワイライトな角度が、容赦なく放課後の空気に切断してた。そういう瞬間、切り取り線。
 すぐ分かった。人見さんが、たったひとりで練習してるんだ。

 歌声はやっぱり綺麗だった。けれど、壁越しってことを抜きにしてもあの時とは違った。人見さんは何度も何度も、同じパートを繰り返して練習している。音の高さとか運びとか息の使い方とか、ひとつひとつ噛み締めているみたいに。ドアについた縦長の四角い小窓から覗く。楽譜を指で押さえて、音の流れをなぞりながら。一歩ずつ踏み締める登山みたいに。だからそれは、寂しげに見えた。私にはそう見えた。ステージの上から、あの時体育館に存在した全員を震わせた歌声とは違う。練習だから、ってことじゃなくて。そうじゃなくて。
 山のてっぺんに登りつめたとして、それを体験するのは人見さんひとりだけだ。もちろん登山ならそれでいいけれど。合唱は、登山じゃない。綺麗な景色があったとして、それをみんなで見ることが大事だった。

 私には「ひとりで歌の練習? せっかくだし、私も混ざっていいかな?」なんて気軽さ持ち合わせていなかったから。ただ逃げるようにして教室に帰って。そしてノートのページを一枚破った。


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 直接励ましの言葉を伝えられない惨めさが涙になろうとしていて、でもそんな理由で泣くなんて癪で、目を擦った。水滴で紙を汚さないように服の端でごしごしと拭いて、前みたく折りたたんだ1ページを人見さんの机の中に入れた。

 筆記用具を放り込んだ鞄を引っ掴んで廊下に出る。階段を降りてすぐに帰ろうとした私の足を、かすかに聴こえる人見さんの声が――綺麗な音が止めた。文字を書いてる時間がどれくらいだったのか、無我夢中だったから分からない。私の図書当番は17:30までだった。人見さんが、いつから練習してるのか分からない。きっと、一緒に帰ろうと誘う友達を「ちょっとやることあるから」って見送って、それからずっと……

 踵を返して、少し声のする方へ近付いた。声が途切れないうちは大丈夫だろう。忍び足で、ゆっくりと。歌詞の意味まで聞き取れる距離まで寄って、曲全体の最後のパートを練習してることが分かった。さっき通りがかった時はサビ手前くらいだったから……じっくり進めていってるみたい。

 盗み聞きをしてる状況なのに、私はなんだか「ああ、上手いひとはこうやって練習するんだ」「きっとステージで歌っていた曲も、たくさん練習したんだろうな」なんてことを考えてた。私は人の気持ちがわかる方じゃないけど、人見さんは人見さんにとって得意な「歌う」ことの上手さに期待をされていて、それに応えようといまこの瞬間も頑張っているんだろう。きっと。


 私の勝手な想像が合っていたとして、私が無責任に思ってしまったのは……人見さんが自由だったらいいのに、って願いだった。本当、人見さんのことなんにも知らないのに。なんて自分勝手なんだろう。でも、でもさ。なんとなく、人見さんは背負い込みすぎなんじゃないかって。ステージに立って歌ったのは、純度100%で人見さんの意思だったと思う。「登壇者が足りないから出てくれないかな」って頼まれて歌ったものだったなら、私はあんなに心動かされなかった気がする。もちろん緊張とか気恥ずかしさはあっただろうけど、たしかに歌の中に没入していて。光に照らされた舞台、ただ人見さんと歌だけがあって。喉を震わせ、声を響かせる喜びがあって……だからこそ私の目には輝いて見えた。

 人見さんにとっての「歌」が、自由であってほしい。

 本当に、なんて身勝手。


 唇を噛んだそのとき、声が聞こえなくなっていることに気付いた。くぐもった、僅かな物音。

 私は咄嗟に階段まで戻り、そのまま上の踊り場まで消音とスピードをギリギリで両立させながら駆け上がった。一瞬遅れて、扉の開く音。あぶなかった。下から死角になる位置まで移動して、耳をそばだてる。扉が閉まる音、そして短く足音……のち、再び扉が開く音。右から左へ。つまり、人見さんが廊下を通って教室に戻った……ってことだと思う。そっと階段の手すりから首だけ出して階下を見る。静か、誰もいない。どうしようか、下りて、教室の様子を伺ってみようか。あぶないかな。

 少し息を潜めて待っていたけれど動きがなかった。教室でなにかしてるのかな。いやなにいってんだろ、私が手紙を引き出しに入れたから、それを見てるんじゃないのか。そっか、だとしたら……ちょっと覗きにいきたい。見つかって怪しまれるリスクよりも、もし人見さんが手紙を見てくれていたとしたら……どんな反応なのか見たい、って欲が勝った。


 あえて自然に堂々と、あたかも上の階からただ降りてきただけみたいに。教室の前の廊下を通るとき、さっと横目で。たったひとり佇んで、手元の何かをじっと見つめてる姿が一瞬見えた。立ち止まりたくなるのを堪えて、ひとまず廊下の先にあるトイレまで普通に歩く。そこで反転、また忍び足に戻ってゆっくりと教室後ろの扉まで。


 斜め後ろから人見さんを覗く。おもむろに鞄を開いて、クリアファイルを取り出してた。中から一枚の紙を手に取って、そしてもう一枚と並べてた。ちゃんと文字まで見えてるんじゃないけど、でもたぶん、どっちも私の手紙だ。

 二枚をひとしきり見比べてから椅子に座って。今度はノートを取ってページを破った。もうそれだけで私には十分だった。

 人見さんは返事を書こうとしてくれる。

 ちょっと教室と人見さんの姿がにじんで、水彩画みたいになって。陽の光が浅い入射角で瞬間を景色にして。思い出にして。優しい事実が私の胸を締めて。



 そして、匿名だったから人見さんは書きたくてもお返事を書けないってことに気付いて。

 見れば、ペンを持ったまま固まった後ろ姿。


 ……ああ、どうしよう。





6


No. DATE ・ ・ 

 ぜんぜん考えてなかった。って言ったら嘘になるけど。なんというか、ちょっと文通みたいなのを夢見た瞬間も実のところあった。でも、私のはファンレターみたいなものだから、こう、見返りが欲しいわけじゃなかったから……まさか本当に、人見さんが返事を書こうとしてくれたなんて。

 あのとき、人見さんは書いている途中で手を止めて、誰に返せばいいのか分からないことに気付いたみたいだった。私が臆病なばっかりに……
 人見さんは少し迷ったあと、またペンを手に取って続きを書き始めた。私は時折周囲を確認しながら、じっと見ていた。だんだんと夕陽が窓の上端から忍び込んできて、その無遠慮な眩しさが邪魔になった。けれど、すぐにそんなものは忘れてしまった。静かに手を動かす姿だけを見ていたから。見惚れて、いたから。

 夕映えの教室はオレンジに音を奪われたみたいで。書き終えた手紙を折り畳んでそっと学生鞄に仕舞ったのを見つめながら私は、ああどうしてこの目蓋がシャッターでないのだろうとぼんやり思った。そして急いで逃げないと覗き見がバレることに思い至って、そそくさと廊下を去った。

 人見さん、あの手紙はどうするんだろう。
 文化祭の日みたく、美術室に向かいながらそう考えた。



No. DATE ・ ・ 

 一本、絵筆を手に取る。パレットには青と白をのせてある。筆先に水を含ませ、しっとりと混ぜていく。滑らかさを、筆を通して感覚する。プラスチック、アクリルガッシュ、ナイロン。伝播して、私は色に触れる。この感情を伝播させて、まずはパレットの上に可視化する。ナイロン、アクリルガッシュ、紙の繊維。

 ノートの1ページ。普段使うのと違う紙質だったから、試しの一回目だと水分が多過ぎた。もっと粘りを濃くしたまま、油絵みたく、絵の具を乗せるイメージで。しっとり物理的な重みを感じられるように。

 次の一枚に筆を落とす。一文字、すっと引く。サイン代わりに水色の線を。これで分かって貰えたなら、それでいい。これ以上はやっぱり恥ずかしい。でもきっと十分。これで十分。



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 絵の具が乾き切ってから、誰もいない教室に戻って三度目の投函をした。もう暗くなった道を帰る。足早に、胸を押さえながら。




 昨日は学校を休んだ。微熱が出たのと、ここ3ヶ月くらい珍しく一度も休まなかったからいいかと思って。要するに半分サボりだった。熱の原因は分かってる。心のもんだい。

 昨日も合唱コンの練習はあっただろうか。きっとあっただろうな。ふと考えた。ふと考える時って7割が人見さんのこと。最近はそんな比率。人見さん、パートリーダーとしてみんなをまとめようと、グループ全体で上手くなるように、きっと奮闘したんだろうな。その結果はどうなったんだろう。人見さんの頑張りに感化されてやる気を出せる人が多くいればいいな。

 そして今日、淡い期待を抑えながら登校して、最初に下駄箱を開ける指が緊張にかじかんだ。
 ──大丈夫、ここにはなかった。そうだよね、一応鍵は開けっ放しにしてみたけれど、冷静に考えればこの中ってあんま綺麗じゃないし。
 そう、そもそも気付かない可能性の方が高いんだから。それならそれで良い。私の臆病さが言い訳をする。もうほとんど、誤魔化しきれないくらいには小さく落胆を感じてしまっている。
 朝練する生徒と、早めに教室に来る生徒の登校時間の隙間。通勤・通学ラッシュの電車を避ける私は大抵一番乗りになる。だから教室の鍵は普段開いていなくて、こうして階段を上がって、けれどいつもより息を切らして、そうして荒い呼吸のまま教室に着いても、そこにはまだ密閉された扉があるはずで──


「……いつもこの時間なの?」

 心臓。

 とっ……って。跳ねた。
 一度だけ、静かに、この胸骨の天井にぶつかるくらい、跳ねた。

 声。
 遅れて認識する聴覚。

 さらにラグがあって、私の首はようやく振り向く。


「夕咲さん……夕咲、青さん?」
 人見さんの唇が動くのを見た。あなたの声が私の名を呼んだのを聴いた。
「そっか、いつもこんな時間に来てるんだ」

 琥珀色の瞳が私を真っ直ぐに捉えて、そして微笑んだのを見た。




7


「ぇと……その、はじめまして……」

 みっともないくらいか細い声しか出なかった。目を合わせらんなくて下を向く。そこに人見さんがいる。そして、話し掛けてくれた。というか、私が来るのを待っててくれた。

「あ、はじめまして。人見藍です……って、おんなじクラスなのにちょっと気恥ずかしいね」

「そう、ですね……私がひとと話すタイプじゃないから……」

「なんか私、夕咲さんの声ちゃんと聞いたの初めてかも」

 そんな、私の声なんて大したものじゃないですよ……とか言おうとしたけど、ちょっとズレてる気がして結局何も言えなかった。そのせいで数秒、堅苦しい沈黙の時間をつくってしまった。目を合わせるのが怖くて、首元あたりに視線をさまよわせてた。人見さんも、ちょっとどうしようか思案してるみたいに指を行き場なく動かしていた。


「その……夕咲さんからのお手紙、嬉しかった、です。あのとき……文化祭の時は……緊張したけど、じぶんでもけっこういい感じに歌えた、って思ってたから」

 人見さんがゆっくりと、言葉に気持ちを込めるようにゆっくりと言ってくれた。私は小さく頷いて、やっと顔を上げる決心をする。穏やかな表情。優しい微笑。圧倒的美少女。かわいい、ひとだな。

「うん……すてき、でした。人見さんの歌、いまでも目を閉じたら聴こえる気がします」

 誇張でもお世辞でも、ただの表現でもない。貝殻を耳に当てれば波がざあざあと聴こえてくるように、私は目を瞑って思い出せば頭蓋の内側に反射し続ける残響が聴こえてくるんだ。それくらい印象的な出来事だった。けれど、あなたは戸惑ったような笑みを見せるだけで、私の感想をどう受け取ったものか捉えあぐねている感じだった。

「……えと、ここで立ち話もあれだから、一緒に教室行こ……行きませんか?」

「あ、うん。じゃあ鍵取ってきま……取ってくるね」

 ちょっとお互いに敬語かタメ口か距離感を測りかねているのが可笑しくて、私達は見つめ合ってちいさく笑い合った。同じ感情をともにしたことがとってもうれしかったから、人見さんに見られないようにこっそり頬を緩ませた。


「ところで、夕咲さんって前より元気になったよね? 間違ってたらごめんなんだけど、夏くらいまで休みがちじゃなかった?」

「うん……あんまし身体が強くなくって。夏は好きなんだけど、体調に影響するから……苦手」

「そうなんだ。じゃあ冬の方がいいの?」

「過ごしやすいのは冬かな。立ち眩みとか貧血しないで済むから……」

 並んで階段を上がりながら世間話をする。私なんかの出席事情を覚えていてくれてるのは意外だった。いや……流石に、あんな頻繫に休んでたら目立つかな。それでも嬉しかった。気になる人の意識に、一欠片でも私がいたのなら。

「あー、そっか……だから前より学校来れてるんだね。ならよかった」

 教室の鍵を開けながら、内心「ちがうよ」って言いたかった。それだけじゃない、理由はそれだけじゃないの。電気のスイッチを押してくれる横顔を見る。でも、「あなたのことをずっと見てたから、見ていたかったから」ってもう一つの理由、面と向かって言えるわけない。

「それでさ、夕咲さん」

 人見さんは彼女の席に座って、私も自分の席に座る。ちょっと遠いけれど。人見さんは椅子の向きを変えて、ちゃんと私に向き合ってくれて。

「……お返事を書いて渡そうと思ったんだけど、でもこうして声で話せるならそっちの方がいいかなって。手紙で返せなくてごめんね」

 思わず首を振る。

「そんなのぜんぜん気にしないで……! 私が勝手に送っちゃっただけだし……でも、そう思ってくれるのすごくうれしい、です」

 ふふ、と微笑んでくれて。

「そっか。それでね……私の頑張ってるとこ知ってるから、って書いてくれたのがすっごく嬉しかった。私、自分に自信がなくてさ……だから……ああ私、ちゃんと頑張ってるじゃん!って思えたよ」

 その言葉が聞けて本当に良かった。あんな、誰にも知られないところでの努力が、本当に誰にも認められないのは寂しい。特に人見さんなら尚更。好意っていう贔屓を抜きにしても、普段遠くから観察してるだけで分かる人見さんの優しさとか気遣いとか遠慮とか配慮とか頑張りとか、評価に値する言動をしてる人だからこそ。そう、値するひとなんだよ。どんどん見合ったご褒美を、賞賛を、感謝を、お返しの優しさや幸福を、受け取って良いひとなんだよ。

 私は胸がいっぱいになって、だから思わず聞いてしまった。

「……よかった。じゃあ、その、昨日の練習はどんな感じだったのかな。みんな、そろそろ人見さんを見習って──

 最後まで言い終わらない内に気付いた。斜め下を向いて、曇った表情のあなたに。

「あ──その、」

 ごめんなさい、も違う気がして。

「……あはは、昨日も上手くいかなかった。きっと夕咲さんは、一昨日私が一人で歌って練習してるのが聞こえてきたんだと思うけど……」

 そんな乾いた笑い方。やだ。やだ……

「私ね、パートのみんなが頑張ってくれるように……私がリーダーとしてすごく頑張って上手くなってるところを見せたら……きっと、みんなも……ああ頑張らなきゃ、って気持ちになると思ってたんだ」

 想像したくない。人見さんの想いが空回りするところなんて。それが現実に起こってしまったなんて、信じたく、ない。


「なんか……せっかく夕咲さんに褒めて貰ったのに……みんなの心を動かせなかったな、って」

 ちく、たく、と。これまで一度足りとも耳に入ってこなかった教室の掛け時計の音が聞こえてきた。他に何の音もない。今日は朝から雲一つない晴天で、この季節は晴天だからこそ寒かった。だから何なんだろう。曇っている。曇っていて、その綺麗な青が翳っている。

 せっかく、なのに……ってことはたぶん……人見さんは、貰った言葉を嬉しいって感じて。その言葉を大事に仕舞って。でもその後、上手くいかない事があって。そんな時にも、本当に優しいあなたはそんな時にだって……もしかしたら言葉を思い出して、「せっかくあんなふうに言って貰えたのに」って一層自身を責めるように悔いるように考えてしまうんじゃないか。

 だとしたら、と。喉に言葉が詰まる。情けない。私は言いたいことを言いたかった。伝えたいことを伝えたくて、手紙を書いた。こんな、直接お話し出来てる機会を逃してどうするんだ。

「それって、それは、それはさ……人見さんなんにも悪くないよ。周りの人たちがダメなんだよ。人見さんは頑張ってるじゃんか、だから……」

「……ありがと。でも、やっぱり私なんかが──他人に響かせることなんて、到底出来ないから。だから、夕咲さんもそんなに気にしないで」


 “他人に響かせることなんて到底出来ないから”


 真っ白になった。

 声の感じでは全く寂しさを思わせない人見さんの言い方に、私の五感は一時的にシャットダウンする。

 いつも無表情でかわいくない私が、たぶんこの時ばかりは目を見開いていたと思う。

 「手紙を送ってまで感動を伝えたのに」ってことじゃ決してない。

 大きな断絶があるように感じてしまったから。私が抱く人見さんの姿と、人見さん自身が見る人見さんの姿との間に。謙遜じゃないと思う。そう言ってしまえるほどの確信めいた感覚を人見さんに植え付けてしまうような、実際の経験……あるいはその体積があったんだと思う。

 咄嗟に、あなたを抱き締めてしまいたくなった。こんな冷たい肌でも、触れ合えば少しは良いのかもしれない。

 けれど私にそれは出来ないことを思い出した。関係性とか距離感とか時間とか勇気とか、そういう問題じゃない。私には、出来ない。


 なら、このまま無言で頷いて……「そっか……でもそんなこと、ないと……思うけどな……」なんて同情で終わるのだろうか。

 ただ一方的に、「あなたの歌声は素敵なの」と捲し立てれば良いのだろうか。


 俯くあなたに、あなたの心に、私は何をしてあげられるだろうか。


 ……違う。

 何が出来るか、じゃない。大事なのは「何をしたいか」だ。私は、何がしたい?

 胸に手を当てるまでもなく、早鐘を打つ鼓動が告げる。

 手紙を書いた時と変わらない。ただ、私は伝えたい。それだけなんだ。



「ね、人見さん」

 静かに、思ったより静かに声が出た。

「?」

 私の声のトーンがさっきまでと違ったからか、きょとんとした表情で顔を上げてくれた。片目を隠す前髪、小さく結ばれた唇。

 息を吸って、言ってしまおう。


「ちょっと、屋上に行きませんか」






 なんで屋上の鍵を持ってるのか、私にだって分からない。たぶん、それが必要だったから。教室じゃ狭過ぎたから。「屋根で空が 見えないだけ」って歌詞を思い出したから。曲名はたしか、『青い空』だった。空。おいしくるメロンパンだって、屋上で歌ってた。ここなら、思い切り叫んでしまえるから。

「夕咲さん……どうして屋上に……?」

「定番かなって」

 風が吹いてなくてよかった。髪が靡いたらきっと綺麗だろうけど、私は靡いてなんかほしくないから。そういう押し付け。うん、押し付けだ。

「定番……? 何の……?」

 くるり、あなたの方を向く。にこり、自然に微笑んだのは久しぶり。くらり、血が薄いの。ことり、首を傾げる仕草があんまり可愛いものだから。ぽつり、さらりと、

「告白」

 風に邪魔されないから、聞き取れない事故もない。故意だけ。一方的にこちらが悪い事故。恋に似た、一方通行の感情。恋愛のそれとはたぶん違うけど、似てるんだと思う。

「え……っ」

「ごめんなさい、告白はちょっと過言だったかもです。すきなのは間違いないけど」

 うん。すきじゃなかったら手紙なんて書かないもん。あんなに観察……もとい覗き見しない。人見さんは流石に面食らってたけど、でも頷いて「ありがとう」と言ってくれた。そんな優しいあなただから、ちょっとだけ心苦しいけれど……でも、言いたいから。

「ここまで来て貰ったけど、また我儘を言ってしまいます。どうか、私がこれから言うことは……手紙だと思って欲しいんです」

 私自身、半分くらい何を言ってるか分からなかったけれど。人見さんは私よりもっと分からなかったと思うけれど。

「うん」

 言ってくれる寛容さに感謝します。


 息を。歌う前みたいに大きく吸って。


「人見さん、私ね、私って、すごく自分勝手な人間なんです。会話したいとか寂しいとか少しも思わないからクラスで全然話さないし、でも最低限の協調性は見せたいから行事はそこそこ参加するし、言いたいことは仲良くしてくれる変わり者のひとにだって言っちゃうし。だから私、いつだってやりたいことをしたい。絵とか文章とか、どっちもまだまだ下手くそだけど、でも私を表現したいって思ったから、それをやってみたの。私の意思は私だけのもので、私の欲望は私だけのもの。私は私で、それ以上でもそれ以下でもない。だから私が悩むときって少ないの。せいぜい、どういう風になる表現しようか、ってことくらい。どんな色を使って、どんな言葉を散りばめようかなって。それくらい」

「だけどね、私は人見さんのことが気になってから……人見さんがすっごくひとに優しくて、気遣って、思いやりがあって、そういう言葉とか行動が出来て、だからこそ悩むことが多い……っていうか多そうだな、っていうか、きっとそうなんだろうなって思うようになって。そこでね、ああ私はとっても弱いんだって思った」

 酸欠になりそう。肩が勝手に上下する。ちょっとちかちかする。でも、息を吸って、前を見てそこに人見さんがいて、一言も聞き逃さないって具合に真剣な人見さんが私を見てて。

「……そう、人見さんは強いなって思った。私は、そんな風に出来ないなって。自分のことだけじゃなくて、周りの人のために悩めること。頑張れること、ほんとにすごいなって。最初はね、もっとじぶんのことだけ大事にすればいいのに、周りの人なんて放っておけばいいじゃん、大切なのは人見さんだけ、他なんてどうでもいいじゃん。私はそう思ってたし、あなたにそう言おうと思ってた」

「違うんだ。人見さん、人見さんのすごいところは……強さは、頑張って、それが上手くいかなくて、悩んで、悲しんで、辛くなって……それでも一歩前に進めるところなんだよ。誰かのためになることなら、あなたはそれを投げ出さない。そういうところが凄いんだよ」

 息切れする私を心配しながら、そんなんじゃないよ、って言う。人見さんは、そう言う。

「……うん、そうかもしれない。これもね、最初は……ここに来るまでの階段を上りながら思ってたのは、違うよ私は絶対にそう思うし、きっと人見さんに自覚がないだけで、人見さんの側面なんだよって。言おうと思ってた。でも、人見さんは人見さんの在りたい人見さんであればいいし、私の印象を受け入れるかどうかだって自由だなって。だから、これは手紙だと思って欲しいの。読んで、そんな気がしたら私からの印象もアリなのかなって思えば良いし、そんなことないって思ったらまあそういう意見もあるんだーって思ってくれたらいいの。でも手紙だから、読む度に感想が違っても良くって。どっちかじゃなきゃいけない、なんてこと無いし常に意見が一貫してなきゃいけないってことも無いの」

 なんでこんなに口が回るのか分からなかった。けど、きっとそれが必要だったから。私にとって、必要だったから。

「それでね、私はほんとに自分勝手な人間だから……人見さんの意思に関係なく、“他人に響かせることなんて到底出来ない”なんてあなたに思わせた全てのこととか人を殺してやりたいって思う。ぶっころしてやる。私が、心の底から素敵だと感じた歌声を……あんなに、あんなに綺麗に歌えるあなたに、そんなこと言わせるものを許さない。許したくない」

「って言ったらさ、予想だけど……“私の言葉のせいで、そんなことを思わせてしまった”とか、“私の暗い感情を見せてしまったのが原因で、いまこうやって息を切らせて話させてしまってる“とか……そんなことを思ってるんじゃないかな……勝手な想像だけど。それもさ、先回りして、”そんなふうに思わなくていいよ”って。言うつもりだったよ」

「けどさ……やっぱり違った。これも全部、選択肢でしかない。それ以上でもそれ以下でもなくて。その、つまり……まとめると、私はあなたが選びたい方を選んで欲しい。選びたい方を選べる自由が、あなたにあってほしい」 

 肺の中の酸素と、肉の内側にうだった熱をあらかた吐き出して、少し咳き込む。けほ、けほ、って。それでも人見さんは待ってくれた。駆け寄って、背中をさすって「大丈夫?」ってしたい気持ちを抑えて、待ってくれた。

 私は空を見上げる。青い空。空は空の色をしている。どこまでも高くて何にも遮られない、空の青。

「人見さん……人見藍さん。私、あなたの第一印象は藍色っていうより空色だと思ってた。でも、名前の通り藍色なの。愛は深くて、藍は青より深くて。あなたの思慮とか思いやりの深さは、まさに藍色……そして、やっぱり空色な印象もずっとあるの。楽しそうに誰かと話してる時とか、好きな歌を歌ってるときとか……透き通っていて、軽やかで、心地よくて。本当に素敵」

 そう、青い空。あの歌詞は、いまこの瞬間の思いを伝えるのにうってつけだった。

「……“とぼけるなよ”」

 小さく、歌い出して。人見さんは聞き取れなかったみたいで、ちょっと助かった。ここの部分だけは、あなたに贈るにはちょっと合わないから。

 息を吸って。

「“止まって見えるのは 気のせいさ”」

 語り掛けるように、歌ったつもり。そうじゃなくても人見さんは聴いてくれてるけど。この歌詞が、あなたにとって良い言葉であってほしい。時には悩むこともあって、きっとそれはあなたを「何も出来ていない」気持ちにさせてしまうと思う。けど、だけど。止まって見えてるだけなんだよ。私から見ればさ、あなたは歩き続けてるんだよ。ちゃんと足跡だって残ってるんだよ。

 そして、これは二番の歌詞なんだけれど。だけど、屋上に来たのはさ。

「“屋根で空が──」

 ああ、だめだ。なんでか、涙声になってしまう。それでも叫びたかった。

「──見えないだけ“」

 最後は掠れながら、伸ばした「え」の音が青空と境目のない空気に溶けていく。吸った空気から酸素を減らして、二酸化炭素と感情を声という波に乗せて空に還す。遠く遠く、青天井。

 ほんとは、ほんとはさ。自由なんだよ。やらなきゃいけないことなんてせずに、あなたのやりたいことだけやったっていい。

「……でも、人見さんはそうじゃない。そこが、人見さんの一番すきなところかも。過去に自分の頑張りが届かなかった経験があっても、それでも“やらなきゃいけないこと”を決めて、少しずつ乗り越えていく。そうしていまのあなたがある。そう思うの」

「だけどね、もし……もしまた何か頑張りが辛くなったり、成果が報われないような事があって……次の一歩が重くなってしまったり、足を上げることが怖くなってしまった時はさ、」

 もう一度、あなたの瞳を見つめる。この目に溜まる液状の透明が、その琥珀色をぼやけさせるのが嫌で。手の甲でぐしぐしと拭った。だから私の瞳は、もしかしたら夕の赤色になってたかもしれない。

「その時はさ、ただあなたに思いを伝えたいって極大のエゴで……屋上にあなたを連れてきた人がいたなって。そしてこの空、空色の空を見上げて、あなたの可能性はこんなにも澄み切って高いんだって……言ってたことをさ。思い出してくれたら、うれしいな」


 やっと、言い切った。こんな必死で呼吸したのは本当に久しぶりな気がした。初めてだったかもしれない。血中に沈んでいた蒸気は全部吐き出してしまえたから、あとは名残の火照りだけが身体に残った。


 急に手足から力が抜けて、私はその場にへたり込む。今度こそ人見さんは私のそばに駆け寄って、そして、あなた自身の言葉を紡ぐためにその唇が動いたのを見て────


「──────────」
















 追伸


 ──えっと、その。このことを書いてもいい……ですか?

 あなたに読み返して欲しくて。もし必要な時があればいつでも確認出来るように。これが、あなたのことを絶対的に肯定出来る手段に……なれるように。
 え、冒頭?
 それはもちろん、あの日にするつもりです。あなたの歌声に惹き込まれた、あの日の情景に。

 そうなると、これはやっぱりファンレターみたいなものだから、一方的に送って、それで終わりでも問題ないのだけれど……
 ──でも、もしあなたがお返事を下さるなら。どんなことを書いてくれるだろう。どんなことを話してくれるだろう。

 この短い物語を締めくくる一番綺麗なカタチは。――欲張りだけど、きっとあなたからのお返事で。そこだけは、あなた本人の言葉が──文字でも声でも、どちらでも嬉しいけれど──欲しかった。
 だから、読んで下さったあなたが、これを完成させてくれると……嬉しいです。



 fromに青を、toには藍を添えて。

 夕咲青から、他でもないあなたへ。