プロローグ、*****号室、16:47



 団地の一室で、男は窓の開いた部屋に寝転がっていた。扇風機が送る風を浴びながら、方向性を持たずテレビのリモコンを弄っていた。部屋の電気は点けていない。気怠くて仕方がない。カレンダーを捲らない。男は大きく欠伸をして、やりもしない料理の番組をぼんやりと聞く。
「──ここに筋があるでしょう。包丁でスッと線を引くように切って、はい、これで取れました。それから次に──」
 右腕の筋肉に力を入れる。弛緩させる。筋ってことはつまり、食材がまだ生きてた生物だった頃には必要だったものだ。
「どうして筋を取るんですか?」
 分かりきったようなことを聞く。
「作りたいものを作るためには、本当は要らないと分かったからですよ」
 よく分からない答え。
 そろそろ、頭が痛くなる。確証はないが、昨日もそうだった。もっとも、昨日という言葉が意味を持たなくなってから……どれほど経ったのか。
 美味いモノが食べたい、と男は思った。食事は幸せの手段だ。こんな日には辛いものでも食べたい。汗を流して、素朴だが生きている実感を得たい。
「私は狂ってなんかいません。正常です。しかし何故でしょう、そう言えばむしろ、本当は頭がおかしいように思えるでしょう?」
「みりんを大さじ1杯です。目盛りのない計量スプーン」
 現実と夢を判別する方法は簡単だ。何も考えていない時が現実で、現実なのか夢なのか疑う時は夢。男は魘されていた。団地の一室、男をどこにも逃がさないだろう。蝉がうるさいのは、実のところ嫌いではなかった。このままでも良いと思い始めていた。またそろそろ誰かが根を上げる。自分は、と。自分はどうだろうと考える。男が住んでいたのはアパートだったし、部屋にテレビを置けるほど上等な暮らしはしていなかった。
「ここに予めボイルしておいた不透明で液状の情念が100mmlあります」
「それはありますか」
「それはありますか」
 何一つとして循環しそうにない。堂々巡りの迷子。既に脳みそが茹っている気がしてならなかった。このままで良いとは、とても思えなかった。
「あなたは、一体何を諦め切れないんですか?」
 そういえば、男は料理が好きだった気がする。かつてはそうだった。それがキッチンの狭い部屋に住むようになり、日々の忙しさと疲れによっていつしかコンロに火を点けることさえしなくなっていた。小さな羽虫を殺す。
「どうも、夢にしては夢がないな」
 悪態をつきながらも、一つ思い出せたことに笑みが抑えられない。男は、時間の概念が意味を成さないこの空間から、団地の一室から、重く暗い空気の淀む玄関のドアを開けようと思い立つ。体温の癒着で湿気たマットレスから起き上がり、沼から這い出るような気持ちで。ぎし、ぎしりと床板が鳴る。そうだ、こんな風にコンクリートに囲まれちゃいなかった。男の住んでいた部屋はお世辞にも新しいとは言えなかった。錆びついた郵便受け、水垢のこびりついたシンク、軋む玄関近くの床。埃。こっちの方が楽だろう、だから男は戻るのだ。
 やけに重いドアを開いて、男は何かを見る前に意識を失った。或いは取り戻した。

 これは、10026号室の話だ。