******号室、16:47


 何か理由があるだろう、とか。誰かの思惑があるはずだ、とか。冬に雪が降るメカニズムが解明されたとして、雪の理由が分かったとして、雪が雪であることに何の揺らぎもない。人間の感情と自然現象は全く別の話をしている。意味は見出すもの。理由は付けるもの。本当のところ、そんなものは無い。頭の中だけ。もちろん、それはとても重要なことだ。人間にとって重要なことだ。
 統合失調症、という言葉を見て思ったのは。
 完璧なものを統合することは出来ない。単一のものを統合することは出来ない。まずバラバラがあって、それを後から組み上げている。自動車を見て、それを自動車だと思うこと。それは数多の部品が組み上がっている結果を見ている。解体されバラバラになった自動車を見て、それを部品だと思う。モノは同じ。構成が違うだけ。先にあるのは部品で、それを組み上げる。パッケージの完成品を見てから箱を開けて、床に散らしたブロックを見て「完成品がバラバラになっている」とは思わない。それは、これから組み上げる部品だと思う。

 実は、人間でいることはとても疲れることだ。とても疲れる。拘束されているのに、何も無い空間に放り出されている。
 私の自由は、私をどのように縛るか決められることにある。どのように在ろうとしたって、それは束縛でしかない。紐で縛ってる。そうやって、バラバラにならないように括ってる。
 それに気付けるかどうかじゃない。気付いたとして、何を欲するか。何を欲望して、どんな夢を見るか。


 ……ああ。
 人の温度がしないものを作りたい。
 理想は遠い。近付きたい、と、思う。
 個であることはこんなにも。
 こんなにも、バラバラだ。




 ドアノブに手を掛け、ため息をつく。頭の中がまとまらないから。形にしたいと欲する時ほど、そうなる。考え抜いた何かを生み出そうとするたび、何も考えず描いた落書きの方が上等に思える。
 ドアの隙間から、天の川の香りがする風。
 芒。
 そこは海だった。腰まで浸かっている。一面の、風に靡く海。夜がある。気温は初夏を思わせるが、風の涼しさが印象を上書きしていた。
 両手を交互に動かして、波を掻き分けながら進む。肌や服を攫ってしまいそうな流れの中を、進む。段々と鈴虫の音が聞こえてくる。解像度が上がったからだ。
 少し先には丘があって、そこには小屋があった。木造にトタン屋根の簡素な小屋。たぶんそこだ。見晴らしの良いところから眺める必要は無いが、そうしたいと思った。
 ぼおお、と遠く汽笛が。後ろだろうか。星の明かりに混じって、海を渡る船の灯りがゆっくりと動いていた。大気圏の内側を、水平線に沿って流れる星。

 船のデッキには二人の女がいる。甲板に出て、一人はスカートと髪を風に乗せている。音楽は無くても踊っている。ゆっくりと、ステップを踏んで。なめらかに、腕を動かして。もう一人はそれを見守っている。
「これからどこへ行くの? って私に訊いてみて?」
 吐息に意味を封じ込めて、右耳のうずまきへ。きっと彼女のピアスが輝いただろう。
「ねえ、私のキミはどこへ行きたいの?」
 便箋に、優しい問いの口付けで封をした。この距離ならば切手はいらなかった。
「──いじわる」
 音を見た。悪戯のような、秘密のような音を瞬きで預かって。黒いシャツのボタンを一つ外して、もう一人は微笑んだ。
 二人でいると、私達は一人一人から抜け出せる。どこにも実在しない私達は、だから秤の上の羽根よりも軽い。風に乗って、船に乗って、波に運ばれて何処へでも。だって、どこに行ったって私達は私達。
 水面が見えるの。
 街の灯りが。
 星が滝になって流れてる。
「いつも不思議よ。ここにいるのに、ずっと遠くに感じるの」
 キミの歌はいつでもキミのもの。喜怒哀楽はキミのもの。心臓を動かしてる。
「でも、淋しくはないんでしょ?」
 ストップモーション。花束を贈りたくなるような微笑みの回答。いいえ、本当は淋しいの。だけど、それくらいが丁度良い。
「天秤が一番安定してるのはどんな時?」
「あなたって、もしかしなくともなぞなぞが好きね?」
 不安定な安定感を二人は好んだ。指先で少し触れれば揺れるような安定。風鈴みたいだ、と、どちらかが連想した。


 その頃、船長はパイプをふかしながら新聞を読んでいた。船室の丸い窓には白い雪がはらりと舞っていた。あれが本物でないことを知っていた。彼は小さい頃、遊園地に連れて行って貰ったことを思い出す。思い出の中でも彼は船長で、アトラクションに乗っている間は現在よりも生き生きとしていた。大人になることは、孤独を知ることだった。黒い海を割いて進む一艘は、寄る辺のない流木と大差なかった。灯台の火を見つける度に、言い知れない安堵を感じた。海を征くごとに、人間の足は大地を踏むものだと理解していった。夢が現実になるとはつまりそういうことで、しかしそれもまた良しと思えるようになった。負け惜しみではなかったし、諦観でもなかった。鏡を見て、そうして見つけた許しのようなものだった。
「それにまあ、パイプは山で吸うのが一番美味い」
 揺れる水面に浮かぶ密室でくゆらせる煙の不味いのが、彼は嫌いではなかったのだ。
 航海日誌。古いが、よく手入れされた机。
 そういえば、彼は新聞を読んでいた。正確には、紙面に目を落としながらぼんやりしていた。いつからそうなのか分からないが、そもそも船に新聞があるだろうか。
 雪が降っている。
 一面の見出しには大きく写真がある。そこには集合住宅と思しき建造物が写っている。
 彼には日付が分からなかった。航海日誌を開けば今日が何日で何曜日なのか分かるだろう。しかしここのところ何日も日誌をつけていない気がした。歳だろうか。
「甲板のお嬢さん方、星は綺麗かね?」
 壁に取り付けてあるパイプを通して声を送る。時代遅れの仕組みが愛おしかった。
「ええ、船長さん。そちらの雪はどうかしら?」
 金属の空洞を流れて透き通る声が下ってきた。「なかなかだよ」と声を返送する。船員はとうにいなくなり、乗客も彼女たちだけになった。互いに利のある旅だったが、目的にもはや利害が絡むことはなかった。半世紀前からの約束のように、乗客は目的地を夢見て船長はそこへ二人を運ぶ。
遊覧船みたいだがね、と自嘲にしては穏やかな独り言。
「そうだ、すっかり忘れていた。君達二人に紙片が届いているよ」
デスクに積まれた書類に、栞のように挟まっていた一枚の紙を抜き取る。船長には読むことの出来ない言葉で書かれた紙を、昨晩の夜更けに受け取っていた。深海魚が運んできた郵便物を、丸い窓から腕を伸ばして受け取っていた。歳だろうか、窓から僅かばかりの夜が浸水してきてしまった。郵送料にライターの火を深海魚に分けて、そのことを今まで忘れていたようだ。
「へえ、なんだろう。キミは何か心当たりがある?」
「いいえ?」
 二人は見つめ合って、謎の送り主からのメッセージに胸を躍らせた。知らないことは多い方がいい。謎と海と信頼は、深い方が良い。だからきっと、紙片は二人の旅を先に進める道標、灯台の火になるだろう。そんな予感を共有していた。さらさらと風に流れる波の音。月から零れる光の音。
「それでは、船長室まで取りに来てくれるかな? すまないが、人手が無くてね。舵から目を離す訳にはいかないんだ」
 言葉の端々から優しい雰囲気の感じられる二人だ、船長は快諾してくれるものと思っていた。
「それは出来ないわ」
 柔らかな声が返ってくる。彼にとっては意外な返答だった。
「目に見たものを信じてしまうのよ、人間って。だからいけないの」
 それが何を意味するのか、彼には分からなかった。この時彼はふと、何年も何年も昔に寄港した街で聴いた、時計台の鐘の厳かな響きを思い出した。港で宣教をしていた牧師が言っていた。音は光よりも、見えない境界を越えられる波であると。
「船長さん、今からこの管に釣り糸を垂らすからさ」
 なかなか粋なことを考えたものだ。言葉通り、からからんと落ちてきた釣り針を受け止め、紙に開く穴が最小限で済むよう慎重に、途中で外れてしまわないよう深く針を刺した。
 くん、と一度糸を引っ張って合図を送る。するすると釣り針は昇っていった。
「ありがとう、船長さん」