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犬山 白い城の会 1947年に旗揚げした劇団(文芸サークル) 

今から75年前の1947年。
戦後間もない時期に、犬山で旗揚げした劇団(文芸サークル)がありました。
その名を「白い城の会」。
会長を長らくつとめられてきた田中一夫さんにお話を聞く機会に恵まれました。
田中さんは97才というお年にもかかわらず、かくしゃくとしたお話ぶり。
同じく会員で舞台にも立たれていた石黒保美さんも同席くださり、当時の活動についてお話をうかがいました。 

アルバムを見ながら語る田中さんと石黒さん

私がこの会について知ったそもそものきっかけは5年前のこと。中日新聞でこんな記事を見かけました。
 
「戦後の劇団資料 後世に」
“七十年前に犬山市(当時は犬山町)で旗揚げした劇団「犬山白い城の会」の資料をメンバーが市立図書館に寄贈した。戦後間もなく、郷土に文化で貢献しようと若い仲間が二十年にわたり活動した。その痕跡を後世に伝えたいという。” (中日新聞 近郊版 2017年3月31日)
 
先日、図書館でその資料一式に目を通す機会を得ました。10周年を記念して作られた会報誌や演劇のシナリオ、会員を募るポスターなど。その多彩な活動には目を見張るばかり。1950年代に日本各地で行なわれていた生活綴方運動や、サークル文化活動に興味をもっていたこともあり、犬山でそれに類した活動が行なわれていたことがわかり興奮します。その日のうちに田中さんに連絡をとり、ご自宅でお話をうかがう運びとなりました。
 
「白い城の会」の創始者は中央大学出身の詩人・劇作家の伊神農作さん(1920-1960)。戦後の復員後は父の故郷である犬山に滞在した後、名古屋に移り、40才の若さで早世されました。お墓は犬山の浄誓寺にあります。
この会は、もともとは犬山・中本町の仲間が集まった野球チームからはじまったものでしたが、1947年4月に文芸クラブに転身。当初は「犬山中央クラブ」という名前でしたが、同年12月に名前を「白い城の会」と改称しました。
その少し前に、合唱部も発足。かつて滝実業学校のブラスバンド部に入っていた田中さんにも声がかかり、会の主要メンバーとなっていきます。伊神さんから「白い城の会」に改称しようと思うという話を聞いた田中さんの目に浮かんだのは、戦争が終わり、呉の方から復員するときに乗ってきた高山線から見えた犬山城の白い壁。予科練性として死と紙一重で向き合うなかを生き抜いてきた田中さんは、電車からその城が見えた瞬間、犬山に帰ってきたんだと、ポロポロと涙したそうです。
 
「伊神さんも犬山城を見た時に涙が出てきたと言っていた。みんな復員してきたものは、そうした想い出がほとんど犬山城とつながっている。だから私もその名前に賛成した。そういうことではじまったんです。」
 
戦後、1950年代をピークに、全国各地で普通の生活者が自分たちで自分たちの文化を創り上げようとする活動が盛んになります。生活を見つめ記録する生活記録運動、サークル活動、演劇運動、文化運動。職場、労働組合、地域の団体など、職業として行うのではない素人が集まり、話し合いを通じて、学び合いのなかで創造する。「運動」の形で繰り広げられたその活動は、歴史を自分たちの手に取り戻し、自分たちで社会を創り上げようとする民主主義の根幹となる活動でもありました。
 
田中さんが細かくまとめられている活動記録を見てみると、1947年11月という早い時期に、大日本紡績犬山工場にて、劇団文化座の創設メンバーで女優の鈴木光枝を囲んで、「演劇について」の会があったようです。さらに、翌48年1月には、オペラ歌手村尾護郎による合唱指導会もあります。
 
少し話が逸れますが、犬山にも工場があった大日本紡績の年譜を見ると、終戦後いち早く日本経済の再建の担い手となった紡績産業は親元を離れ寄宿生活を送る女性によって支えられていました。そのなかで、特に意識したのが職場や寮生活に明るさとうるおいを与えることだったそう。敗戦とともに心の支えを失った勤労者に新しい文化の息吹を与えるため、大日本紡績では、羽仁説子(自由学園長)、柳宗悦(日本民芸館長)らが企画し、46年春に発足した「民衆文化同志会」の主旨にも賛同し、労働組合と協議の上、従業員の文化活動を積極的に進めていくことになったとあります。
 
おそらく、そうした活動とも連携しながら、「白い城の会」のメンバーたちは当初は研鑽を積んでいったのでしょう。しかし、そこからどんどんと独自の発展を遂げていきます。
小山内薫作「息子」(犬山高等女学校・48年)、オペラ「良寛と童」(犬山高校・49年)、人形劇「のらりくらり地獄めぐり」(北小学校・52年)、犬山が生んだ俳人内藤丈草を偲ぶ250年記念祭にあわせた「丈草劇」(光明幼稚園講堂・53年)、長塚節「土」(光明幼稚園講堂・56年)、ノエル・カワード「花粉熱」(東映劇場・59年)などのほか、混声合唱、人形劇など、たくさんの公演を重ねられていきました。演劇部、合唱部、人形劇部、文芸部と、会の活動は多岐にわたり、田中さんは自宅に稽古場まで建設するという熱の入れようです。はじめはあきれられていたご両親も、次第に応援してくださるようになったそうです。
伊神さんが亡くなられた後は、田中さんのいとこで日活のシナリオライターだった横山保朗さんが、東京と京都の仕事の途中で犬山に立ち寄り、演劇指導をしてくださったそうです。その影響もあってか演劇も外国の演目が多くなり、ジュール・ルナール作「にんじん」(光明幼稚園講堂・61年)、プリーストーリー作「夜の来訪者」(犬山高校・62年)などが上演されました。

途中から参加された石黒さんも、この頃には主演もつとめられ、日々稽古に励んでいたそうです。外国人の役をするため、金髪になって羽黒から犬山に電車に乗られた思い出など、とても懐かしそうに語ってくださいました。

舞台風景を収めたアルバム

はじめは14人ではじまった会も、2、3年のうちに会員約50人もの大きなサークルに成長。53年に開催された「丈草」では光明幼稚園の講堂も超満員で、二日間で1500人が訪れたといいます。他に娯楽もなかった50年代は、子供会や老人会、婦人会などの席に招かれて出演し、市民劇団として親しまれていました。でも、会の軌跡は順風満帆といったわけでもなかったようです。ガリ版で切られた10年史に再録された日誌からは、会を続けていくことの意気込みだけでなく、その苦労も偲ばれます。60年には伊神さんが亡くなり、テレビなどの娯楽の普及や、会員の入れ替わりなどもあり、67年にはやむなく解散。以来、稽古場を小道具を集めた資料館にしたり、同窓会や会合を定期的に重ねるなど活動を続けていましたが、2017年3月に資料を図書館に寄贈することで、一区切りをつけられたということでした。
 
白い城の会の10年史(56年)を作成しているときに、田中さんは伊神さんから、「田中君から白い城の会を取ったら何も残ら無いなあ」と言わしめたくらい、この活動に没頭されてきました。その原動力はどこにあったのか、今度は田中さんの個人史をさらにお聞きしてみたくなりました。
 
田中さんが詳細な資料と記録を残してくださっていたおかげで、私たちは全国的にみても戦後のとても早い時期にはじまった、犬山でのサークル文化活動の軌跡を知ることができます。この活動は犬山という一地方都市における特徴ある活動だったというだけでなく、1910年代にアメリカでおこったコミュニティ・シアターや、それをいち早く日本に紹介した坪内逍遥や、新劇運動の拠点となった築地小劇場の流れにも連なるものです。実際、大日本紡績犬山工場にやってきた女優の鈴木光枝は新劇界を代表する女優でした。
そして、さらには戦後に各地で作られた地方劇団(そのほとんどは数年で活動を終えています)や、鶴見和子らの生活記録運動、上野英信、谷川雁、森崎和江らの文化サークル活動の流れにも、直接ではなくとも、時代の空気を共有する形で連なっているはずです。
 
戦後の文化の交差点が、犬山にあった。
それは記録がなければなかったことになってしまうかもしれない記憶です。
その記憶に今こうして触れさせていただけることに、ただ感謝するばかりです。

白い城の会にまつわる詳細な年譜
創始者の伊神農作さん

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