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不老閣のあった頃 

犬山栗栖・桃太郎神社に向かう途中、不老公園と不老の滝のすぐ近くに、「不老閣」と書かれた看板がひっそりと立っている。道を挟んだ左手には廃墟になり、中に建築資材などが放り込まれたままの建物がある。
前を通るたびにここは一体何だったんだろうと気になっていた。
そこが元は不老閣という高級料理旅館があった場所だと知ったのは、鳥瞰図絵師・吉田初三郎さんのことを調べはじめてのことだった。(現在の廃墟になっている建物は不老閣の名残ではなく、その後に建てられた別の建物跡らしい。)
初三郎さんが描く犬山近郊の鳥瞰図には、不老閣が描き込まれ、今からはおよそ想像もつかないような景観がそこには広がっている。

 吉田初三郎「日本ライン御案内 : 日本八景木曾川」1928年(部分)
画像提供:国際日本文化研究センター(吉田初三郎式鳥瞰図データベース)

不老閣については『名古屋鉄道社史』にこうある。

大正2年8月、村瀬周輔、木村又三郎、黒田忠譲氏ら名古屋の有力者は、木曽川べりの各自所有の山林を出資し、不老園土地株式会社を設立した。同社は昭和初期に不老遊園地を開き、鹿を放飼いして行楽客を呼び、また料理旅館不老閣や紅梅園を設け経営した。

『名古屋鉄道社史』p472(1960年)

また、別の話によると、不老園土地株式会社になる前は、不老倶楽部と呼ばれていた。その時分レジャー施設が何もないので自分たちで作ろうと、名古屋や犬山の名士が加わってあの付近の土地を買って開発をしたらしい。不老の滝も元々は「滝が洞」という小さい滝だったのを、上に石を積んで水路を変更して出来上がったもののようだ。そして、そこに名古屋から錦水楼とカザ荘という料理屋を引っ張ってきて、錦水楼に不老倶楽部の事務所を置いた。そして、カザ荘のあとが不老閣となったようだ。

ちなみに錦水楼の方は、初三郎が手狭になった元名鉄施設(蘇江倶楽部)の仮画室を引き払ったのち、1929年より新工房として使うことになる。上の地図に載っている蘇江画室は、初三郎が錦水楼に移る前の仮画室時代のものだ。(今の国際交流村の辺り。昔は紅梅園、木曽の里などとも呼ばれたらしい。)

知多の自然誌古典文庫さんとお話ししている中で、犬山在住の松永直幸さん(元名鉄資料館)のお父さんが不老閣を経営していたことを伺い、お話を聞かせていただくことになった。

「ここ(犬山のご自宅)に住んでるのも不老閣の関係なんですよね。不老閣は親父がやってたもんですから、社宅としてここを買って、建てた。不老閣の関係で犬山に住んでるんです」と松永さん。

「うちの親父が不老閣の経営をするようになったのは、昭和28年の4月から。結局55年にやめたというか、ちょっと老朽化しちゃってね。」

松永さんはお父さんの松永与十郎さんについて、『松永与十郎の生涯』(1987年)という私家本にまとめられている。そこには東京の料理店に勤めたのち、郷里一宮に戻って精肉店を開き、タクシー業、喫茶、カフェー、食堂を開業し、老舗高級料亭迎陽館を買収するなど、次々と事業を拡大する様が記されている。

その本にも掲載されているのがこの写真だ。

松永さんの家族アルバムより 
1953年5月28日 不老閣を開店した当日の記念写真
前列左から2人目が松永与十郎さん

「これが経営を始めた時の写真で、不老閣の玄関のところ。よく見ると(左の花輪のところが)城東村になっている。今思うと残念だけど、不老閣自体が写っている写真が意外になくて。ずっと撮っておけばよかったんだけど、その時は何も思わなかったからね。」

「これが本館で三階建てなんです。木造のね。入り口が二階になってた。入ると玄関のところが二階になってて、上に大広間があってね。大正二年の建築だったと思いますので、三階に上がると軋むような感じでしたね。」

「初三郎の関係でいうと、道路を隔てた別邸には上にあがる階段があった。階段の先が何もなくて戸だけがあったんだけど、これがひょっとしたら初三郎の蘇江画室に繋がってたんじゃないかなと。階段があって、その上に何かあったのは確かだったと思うんだよね。」

さらに、こう続けられます。
「不老閣で重要なことは、志賀重昂が来てますね。」

日本の風景を地理学的に描写し、世界で最も優れたものとして讃えた『日本風景論』(1894年)を著し、一世を風靡した地理学者・志賀重昂。岡崎生まれの志賀は、1913年(大正2)に木曽川の遊覧に訪れ、犬山城が夕陽に照らされる様を見て、「犬山は全くラインの風景そのまま」であると感慨を持ち、「日本ライン」と名付けました。中央新聞からの避暑旅行についてのアンケートに志賀が回答した内容が犬山・城とまちミュージアムのFBに載っています。

その中で、志賀は不老滝の主人への記念として、「千里江陵一日還 萊因夕照絶人間 東人漫誦西人句 咫尺無他説犬山」という漢詩を茶盆に綴ったことが書かれていますが、それと同じ内容の書が不老閣の二階建て別館の座敷に飾られていたようです。
その書は松永与十郎さんが経営を辞めて不老閣を名鉄に引き渡した時に、一緒に渡したようですが、残念ながら今はどこにあるのか不明です。
その書が写った写真も見せていただきました。

不老閣の二階建て別館の座敷。
床の間に志賀重昂の犬山の景観を詠んだ漢詩が飾られている。

戦前に作られた犬山の観光絵葉書にも不老閣を含む木曽川の風景は絶勝として写されています。

「真ん中の別館は方形屋根のなかなかいい建物だったんです。川沿いには離れが二軒ありましてね。川に向かって、別棟というか廊下が続いて浴場がありましてね。大正時代の温泉の効能書きみたいなのも壁に飾ってありましたね。」

犬山観光絵葉書 日本ライン下流の展望。
手前は三階建ての本館の屋根、その上は二階建ての別館。

戦前に不老閣が発行したこんな絵葉書セットもありました。

日本ライン絵はがき 不老閣発行 
木曽川から不老閣を望む

往時の様子がしのばれます。

松永さんからは、他にもモンキーセンターの京都大学の先生たちとのエピソード、(今西錦司さんや河合雅雄さんも不老閣にいらっしゃったことがあるらしい)、野猿公苑の猿の思い出、1960年〜70年頃に犬山に蟄居していた古書収集家の横山重さんのこと、犬山の方がお持ちだった初三郎さんの海を描いた油絵、不老公園のモダンな売店のことなど、貴重なお話を聞かせていただきました。
本当にありがとうございました!

以下は、国際日本文化研究センター「吉田初三郎式鳥瞰図データベース」より 
不老閣が載っている鳥瞰図絵(部分)を掲載させていただきました。
不老閣のほか、錦水楼、木曽川に浮かぶ帆掛船、犬返りなどの様子が伺えます。

吉田初三郎「日本ライン御案内 = Guide to the rhine of Japan」1927年(部分)
画像提供:国際日本文化研究センター(吉田初三郎式鳥瞰図データベース)
新見南果「尾州犬山継鹿尾山大悲閣御案内 : 日本ライン随一の勝景」(部分)
画像提供:国際日本文化研究センター(吉田初三郎式鳥瞰図データベース)
稲垣満一郎「日本ライン・桃太郎屋敷案内圖」1942年(部分)
画像提供:国際日本文化研究センター(吉田初三郎式鳥瞰図データベース)

文・楠本亜紀(みんなのアーカイブ)

※写真・図版は転載不可です


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