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En Attendant L'autobus カリスマ87話

蝉の声が聞こえてきた。既に夏の渦中にいた。

夏のおもしろいところはそのいいようのない魅惑性である。じっとりとした暑さの中にどこか清浄な感じがあって、それが自分をはっと我に返らせる。変にクリアな思考と口数の少ないコミュニケーション。そしてすべては短命である。
夏のノスタルジアはあるところでは死であり、またあるところでは対人のうちの孤独である。


っていうことを今年もやるらしい、この作品は。

これは去年の「夏のノスタルジア」。

これがあまりにもおいしすぎてこの作品にするっと足を取られてしまった。
もちろん第72話であるからそれまで71話も見てきたぶんの愛着もある。けれどそれは少し惰性的なものでもあったし、アメリカのケーキみたいに派手な作風に集中したくてこういう繊細な部分からは意図的に目を背けてきた。だからこそ一気に夏特有の雰囲気を纏ってやってきたこの一作にしてやられてしまうのも無理はなかった。

しかしそれを2ndシーズンでもやるとは思わなかった。

2ndシーズン13話目、通算第87話『バスは来ない』。
タイトルからしてただならぬ匂いがする。

バスは来ない。
文学チックな一文だ。「が」ではなく「は」であることが特にそう思わせる。そも、バスは時間通りに来るほうが珍しいものだ。道路の状況によって五分や十分の遅れはいくらでも発生する。待つほうにはその時間が二倍にも三倍にも感じて、もうバスなんて来ないんじゃないかとさえ思う。

バスは来ない。
タイトルでもうそう示しているのである。「バスが来ない」であれば、バスが来ないことに関しての愚痴だとか提案だとかがメインだろうとなんとなくわかるし、結局バスが来るという可能性は十分にある。しかし「バスは来ない」としてしまえばもうそれまで、もうバスが来ることはないのだ。これからどんな話をされようと、見る側はもうバスは来ないことを知っているのだ。

87話の内容に移る。彼らはバスを待っている。

オープニングに通常入るはずのSE、BGMがなく、聞こえるのは蝉の声。タイトル画面もいつもと黒白逆転しており、タイトルアニメーションも違う。不穏な空気が漂う。

なにより違うのは、これまで必ずあったはずの「キャラクターの顔アイコン」が一度も登場しないことである。
これまでもそういう表現がなかったわけではないが、それは一話のうちのある一場面だけの効果的な使い方をされていた。全編を通してというのは初めてのことだ。
形式上はキャラクターもの作品のはずなので、動画にキャラクターの顔を載せることは半ばセオリーである。それと、誰の発言か示すことでボイスドラマの欠点である「誰が喋っているかわかりにくい」を解決する役割もある。

今回はそれがない。あるのは背景。農村らしき開けた場所にバスの停留所が一つ。小さくてオープンな待合室が一つ。たったそれだけだ。
たったそれだけの十三分である。

彼らはそこでバスを待っている。
といっても七人全員がそこにいるわけではない。どういうなりゆきか、そこには最初二人しかいない。二人の会話。バスが来ないことについて、静かに、しかし日常の質感をもって語られる。
一人がいなくなる。すると新たな一人がやってきて、会話の後に一人が去る。また一人、あるいは二人が入れ替わり立ち替わり現れ、消えていく。

最後にやってくるのは最初にいなくなった人間だ。ここで最初に繋がるのである。その会話が終わると七人はみな戻ってくる。

「どうする?」
誰かが言う。このままバスを待つか、歩くか。バスに乗りたい事情もあれば、バスを待っていた時間も捨てたくない。
悩む。悩む。日が暮れる。日が暮れて、彼らは嫌々ながら歩きだす。
車が来る。彼らは懸命に呼び止めようとするが、虚しく車は走り去る。
バスは来ない。

おおよそいつもの調子からは想像がつかないほどの質感の繊細さである。

文学性に富んだ不思議な回である。この「文学性」というのはもちろん活字文化的ということだが、これはわたしの中では「演劇らしさ」にも繋がる。
演劇の文学性はすさまじい。すべてセリフで簡単に表現してしまう作品はほんの一部だ。多くの演劇ではセリフはなにかを秘匿している。別に意地悪く秘密にしているのではなく、観客に少し考えさせて自分の力でそれに到達させるのである。もちろん「それ」は人によって異なる。

演劇は見方によっては小説よりも文学的である。地の文を文章に固めてしまう必要がない。言語化してしまうと嫌でも多少の「定義」をしなければならないところを、演劇は身体表現という可視的な方法をとることで観客の解釈に幅を持たせることができる。一見ボイスドラマにはできない芸当のようだが、映像を合わせることで近い表現を可能にしたのはすばらしい発見であり、この作品のもっと褒められてよいところである。

『ゴドーを待ちながら』に似ている、と思うのはそういうところに理由があるのかもしれない。

87話はなんとなくこの一作の面影がある。といっても「バスを待つ」というシチュエーションは創作物において鉄板だし、『ゴドー』はバスを待つ話ではないし、こじつけに近い意見であることは否めない。ただ、わたし以外にもこの一作を想起していた方は複数いらっしゃったようで、そんな意見が出るほどに今回が特に文学的な回であったことは確かである。

『ゴドーを待ちながら』はサミュエル・ベケットによる戯曲である。ジャンルは「不条理」。いわゆるナンセンス演劇である。
その名の通りこの作品には「明確な意味がない」。人物の会話も行動も妙にずれていて一貫性がない。突拍子もなく話が変わる。意味不明といってもいい。
エストラゴンとウラジーミルという二人の男が「ゴドー」を待っている。いつから待っているのか、ゴドーとは誰なのかなどはわからない。何度も言及されるがそのたびに内容が変わってどれが本当かわからなくなる。しかし、これがゴドーを待つ間の話であることだけははっきりしている。

大きな共通点は、どちらもなにかを待つ間の話であることだ。87話はバス。『ゴドー』はゴドー。そして待たれているものそれ自体は内容に直接の関わりを持たない。
そういう意味ではバスもゴドーもマクガフィンに近い。代替可能なものということだ。電車を待つのでも太郎を待つのでも構わない。

しかしベケットは「ゴドー」を待たせることにした。なぜか? 恥ずかしながらわたしは『ゴドー』をほんの数ページしか読めていないので語るのも野暮な気がするが――白水社の書籍説明文に気になる表現があったので引用する。

田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている。

白水社 U183 ゴドーを待ちながら

ゴドーは「救済者」なのだという。
太郎を待つのでも、あるいはポッツォやラッキーを待つのでもいけなかった理由はここにあるのかもしれない。今の知識ではこれ以上書けそうにないのでここは通読後に追記する。

では『カリスマ』87話における「バス」とはいったいどのような意味があるのだろうか。
そのためには「バスとはなにか」について整理すべきだと考える。

バス。それはなかなか来ないものである。電車は決まった時間に来る。線路は電車しか通らないので、線路上でなにか起きない限りは遅延しない。対してバスは時間にルーズな乗り物だ。道路にはバス以外にもたくさんの車が走っている。雨の日はゆっくり走ることもある。多くの要因から、時間通りに来ることは半ば諦められている。

バス。それは心もとないものである。先述のように時間になっても来ないので、さていつまで待つべきか、と頭の中で計算が始まる。しかもバスは電車ほどアキュレイトなものではない。電車は駅を飛ばさないが、バスは停留所を飛ばすのである。来ないからといって歩き出したそのときにバスが来て、停まらずに走り去ることもある。

そして、バスとは楽をするためのものである。
人は移動手段として電車を使うとき、基本的には「歩いて行く」ということは考えていない。電車で行く場所は歩いては行けないほど遠い場所だからだ。一駅二駅ならまだしも。
対して人が路線バスを使うときはおおむね、「歩いて行った場合」と比較して考えられた後である。学校かあるいは会社が駅から徒歩10分のところにあり、駅からは目的地入口までバスが出ているとする。
一限に間に合うようにバスに乗る。書類を雨で濡らさないようにバスに乗る。足が筋肉痛だからバスに乗る。歩いて行く選択肢もあるが、比較して利益が発生する、平たく言えば楽ができるゆえにバスに乗るのだ。
もちろんこれらはわたしの主観でしかないが。

これらを整理すると、バスとは
・乗れば楽ができるが
・来るかどうかわからず
・下手したら走り去ってしまう
・焦れったく頼りないもの
となる。

「来るかどうかわからない」「この場を離れるかも悩ましい」というところは87話のストーリーを作っている。
そこで注目したいのは「乗れば楽ができる」という部分についてだ。

87話において、彼らがバスに乗ろうとした理由は楽をするためだった。「ブレイクの影響で体調が万全でない天彦に少しでも楽をさせたいから」という利他的な動機であるが。

ところが目的はそれだけではない。バスに乗ることで、あわよくば「この逃亡において楽をしたい」のである。
2ndシーズンの彼らにとって喫緊の困難はやはり「中神に追われていること」だろう。家を失い、常に緊張状態にいる。この苦しみから少しでも逃れたい。少しくらい楽をしたっていいだろう。そういう心理である。

神話や宗教要素のある話なら神の憐れみによってバスが来るところだろうが、この作品は無神論的なのでそんな都合のいいことは起こらない。神は死んでいるのである。神龍のパクリみたいなやつなら呼べなくないが、特に人に益をもたらす存在ではないのである。

神の死んだ世界でどう生きるかを自らの頭で考え、自らの足で歩く。
これはニーチェの考えだが、仮にこの作品のいう『超人』がニーチェに由来するならテーマとしてなくはないと思う。

白水社の説明文ではゴドーが「救済者」とされていたが、こうして見るとバスもある意味「救済者」である。
ゴドーという名は「God」になぞらえているという説もある。

『バスは来ない』というタイトルは、そんなふうに解釈すると「神は死んだ」そのもののようにも見えてくる。
言い過ぎかもしれない。与太話として聞いてほしい。

まあどのみち、簡単な救済は彼らには微笑まなかった、というのは事実だろう。この物語は彼ら自身で進めなくてはならないのだ。

他にもいくつか細かい共通点がある。待つ人数が2人であることだ。
『ゴドー』では、エストラゴンとウラジーミルの2人がゴドーを待つ。対して87話では、7人のうち(おおむね)2人が残ってバスを待つ。そこに誰かが割り込んでくる図式もちょっと似ている。

昨年の『夏祭り』でも彼らはペアで行動していた。
7人集まるとハチャメチャをやる彼らだが、2人になると途端に静かな空気が流れ始めるのはなぜだろう。
この7人の誰もがいつも、この7人という「集団」に対して話しかけていたのかもしれない。誰々という個人に話すのではなく。
リビングで大きな声で話しているような感じだ。部屋の隅々まで話が行き渡るので、本来話し相手ではなかった人から質問の答えが返ってくることもある。

大人数が常の作品だからこそ、2人回の味わいが深まる。
それをこうした形で見立てに使う(使ったかもしれない)のがなかなか巧みだ。お出汁の味にびっくりしちゃうくらいだ。

あとは周囲の状況だろうか。「田舎道」「一本の木」「夕暮れ」のうち、田舎道と夕暮れは共通している。バス停の標識柱を「一本の木」と見立てるならあるいは。
ここまでくると「だからなんだ」という気もするが、仮にこれが全部意図的ならすごいことだ。それに全くの偶然だったとしても、コメディ一直線を気取る作品がここまで不条理演劇の金字塔に近い表現をできるということ自体相当珍しいことだ。普通そこまでやったらジャンル逸脱で作品が崩れてしまうと思うのだが……ジャンルレスな作品は柔軟性があって助かる。

バスは来ない。救いは来ない。
飛びつけば安泰な正しさなんてない。
この苦難は自分で乗り越えなくちゃならない。

こういう文章、この作品で既に見たな、と思ったら『神の領域』だった。

築き上げろ 自分の哲学を
祈るだけじゃダメなんだ
Get up your life

『神の領域』歌詞

ところで、「バスは来ない」という一文は
「バスは来ないけど、他のなんかは来る」
と読むこともできる。

87話で来たものといえば、車である。
ヒッチハイクを試みるもあえなく走り去ってしまうあの冷たい車である。

87話の引きは理解の「助けろよ、ばかやろー!」というセリフだった。無論あの車に投げられたものだが、わたしにとっては少し意外な文面だった。助ける? 彼らはバスを「助け」だと、自分たちを車に乗せることを「助ける」ことと認識していたのか。
バスを待っても来ないので車に乗せてもらいました、というのは「助けてもらった」と言うにはグレーな気もする。「終電を逃したから乗せてってもらった」のニュアンスだろうが、彼らはバスを逃したわけでもないし時間に追われているわけでもない。強いて言えばマッドサイエンティストに追われているが、そんなことがヒッチハイク・ドナーに伝わるわけもなく。
というか7人も乗る車、なかなかないし。わたしの中ではあんな道を走っている車なんて軽トラか軽か農業用トラクターしかない。乗れない。
冷たい……のか?

まあ彼らから見れば冷たい。
彼らを乗せていってくれる車は来ないが、乗せてくれない一般車は来たのである。「みんな見て見ぬふりをする」とも「人はあまり他人をおもんばかってはくれない」とも解釈できる。解釈に正解はないし視点をどこに置くかでも変わってくるのでここで打ち止めとする。
あ、なんか「よきサマリア人の教え」にも近いかも……じゃあこのあとサマリア人こと中神がやってきてどこかまで乗せていってくれるのかも。いやそうしたら虎姫のほうが近いかな。いやいや打ち止めだってば。


漫然と書いてしまったが、とにかくこの第87話はとても面白かった。1stシーズンのような行間回はもう来ないものだと思っていたので、改めてこの作品の奥深さというかお出汁の部分を実感できて嬉しかった。
次回はきっと打って変わってアメリカンレインボーバースデーケーキのような回なのだろうが、よく考えてみればそのアメリカンレインボーバースデーケーキも土台の部分を切開すればお出汁がしみっしみの可能性があるのだ、薄ら寒くなってきた。怖い怖い。頭のねじをちょっと飛ばしてごまかさないと。
『ゴドーを待ちながら』を読むのは夏休みの宿題として自分に課すことにする。他にも読んでいない有名作は山のようにあるので今年の夏は図書館へ避暑に行こうと決めた。踏ん切りをつけさせてくれて感謝。

このnoteを書いているうちに一週間経ってしまったが、まだ最新話を見ていないのでセーフである。お昼過ぎにTwitter(絶対にXとは呼ばない)トレンドになにも載っていなかったので今回はパワーワードはなかったのだろうか。「次のブレイク」だけおすすめトレンドに出てきたがもしかしてまだグレーなのだろうか。ふーむ、気になる。楽しみ。

最後に、87話のタイトルだけを見たわたしの頭の中に流れた曲だけ貼って終わりにしようと思う。これはバスが時間通りに来て時間通りに出るのでよく考えれば真逆だった。でも曲の雰囲気はどことなく似ている。気がする。




【追記】
87話に感動して俳句を詠んだのをすっかり失念していた。

リビングのごとひぐらしの停留所

蜩ではないが誇張ということで許してほしい。あとこの「リビング」はこのnoteに書いた「リビング」のイメージとは少し違うのでさっき読んだことはできれば忘れてから見てほしい。
停留所、という舞台設定もなかなか隠喩的だなあと思う。動いていたものが停止し、その場に留まる。しかし再び動き出すまでも含んだ言葉だ。鳥が羽を休めるような、張り詰めた自分を緩めるひとときというか。

彼らが彼らであることを休んだ、という解釈もできるのかもしれない。


【追記】
伊藤ふみや1stブレイク1周年おめでとう!

ブレイク衣装を改めて拝見していたところ、服の模様に悲劇面と喜劇面があしらわれているのに今さらながら気がついた。

これ

よく劇場の入り口についているあれだ。ディズニーランドのブロードウェイミュージックシアターに一時期お世話になっていたので馴染みがある。
こんなに大きな意匠に今の今まで気づかなかったわたしって

……そういえば、『ゴドー』の説明に「悲喜劇」という言葉があった。

ベケット自身による英語版(1954)の台本には「二幕の悲喜劇」と副題がついている。

「artscape 《ゴドーを待ちながら》サミュエル・ベケット」

作者がそう言うならそうなのだろう。語義を手持ちの広辞苑で引くとこうあった。

ひ-き-げき【悲喜劇】
①(tragicomedy)悲劇的であると同時に喜劇的な戯曲。悲劇的部分と喜劇的部分とが交錯している劇。また、悲劇の部分が喜劇的に解決されるもの。
②悲しむべきことと喜ぶべきこととが同時に重なった出来事。「人生の-」

広辞苑 第七版 p2440

なんだかすごく親和性を感じる。
笑いだけでも泣きだけでもないこの感じ、すごく知っている。

①の意はもちろん、②の意もなかなか「来る」。このnoteを書いたあとにちゃんと88話を拝見したのだが、改めてこの作品は「悲しむべきことと喜ぶべきこととが同時に重なった」作風のところがあるなあと実感した。いやちょっと語弊がある。手放しにYesと答えられないような不気味さというか、笑うべきところのはずなのに彼らのことを思うと顔が引きつってしまうような、そういうタイプの「複合」である。

言いたいことの三割も言葉にできていない。くそー、力不足。

わたし個人の勝手な感想ではあるが、『ゴドー』もちょっと似ている。「なんだよそれ、全然意味わかんなーい」と笑って投げ捨ててしまいたくても投げ捨てられない自分がいるというか。

そういう新たな共通項としても見られるな、と思ったので追記。
こんな意匠を引っ提げて出てくるなんて本当に物語に対する「思想」が強くて助かるよ伊藤ふみや! とカリスマ! と思いました。これについては別のところでもう少しちゃんと書くつもりです。

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