【メモ】「神の領域」とはなにか(crsm)

メモなので収録するところが決まったら取り下げます。
ツイートに毛が生えた程度の長さです。

神の統べる土地。
ただ、それが「彼らの統べる土地」つまり「彼ら=神」と認識するのは早合点ではないかと思う。

「神の領域」という言葉はここで初めて使われた言葉ではない。むしろキリスト教圏(キリスト教世界)では慣用表現である。聖書の教えを知っている人なら、その理由は当たり前にわかるはずだ。

神は唯一。もし神を自称したり神のみぞ知る運命を人の手で曲げたりしようものなら、それは神への冒涜である。2000年前、神の名を騙った咎で処刑されたのがナザレのイエスだ。彼に対する評価はその後変わっていくが、神の仕事を奪うことは今でも眉をひそめられる話。特に中絶や遺伝子操作のように意図的に命に手を加える行為は「神の領域に触れた」のではないかという議論の温床になっている。今でも。

『神の領域』では、タイトルと曲中でのルビは"region"とぼやかされているものの、サビでははっきりと"God's realm"と言っている。作詞が「あの」及川眠子さんなので言葉の意味も分かったうえで用いているのだろう。

神の統べる土地。「目指すは」神の領域。それは禁忌の世界だ。立ち入ろうとするものは多くの人々から非難され、ともすれば殺されてしまう。それは物理的な場面にとどまらず。

ただし彼らが一般にいわれる「神の領域」を侵害しようとしているか、には疑問が残る。
たぶんこれは隠喩だ。立ち入ってはいけないほどに険しく気高い場所。槌を振る手も届かないような高みまで、出過ぎた杭になることの。

それは彼らが超人に至るということであって。
(=いつかたどり着く真のカリスマ)

そういえば、"Charisma"とは「神の(霊的な)賜物」のことであるけれど、それを磨くことで神に近づくというのも、簡単に考えれば自明のような気がする。
神は自分に似せて人間を作った。ゆえに人間は神と同じ「善性」を持つ、というのは神学でよく語られることだが、その善を磨けばいずれは「神のように善き存在」になるのではないだろうか。それは禁忌なのだろうか。神を騙ってはいないにせよ、領域を侵したことになるのではないか?

「君は神様みたいだね」と言う場合、"godlike"という言葉を使うらしい。しかし「お前は神の領域を侵害した」と言うときは"playing god"と表現するそうだ。神を演じる。それが鍵らしい。
でもその判断の根底に「それはいいことか/悪いことか」という人間の恣意があるような気がしてしまう。godlikeだろうがplaying godだろうがいいじゃないか。まあ原義の諸倫理の話は今は別として、少なくともこの隠喩上では「神の領域へ手を伸ばすこと」に変なレッテルを貼られても迷惑なだけだ。

誰の指図も受けずに自分の信じた道を極める。
愚かなほどに。


そう、それは愚かなことかもしれない。それ以上はいけない、そんなことしたらみんなからどう思われるか、そう言う側にも相応の理由や経験、直感があるから。案の定、ということも少なからずあると思う。総合的に見たらそれはただの「愚かな行い」かもしれない。

でもそんなこと、彼らはとうにわかっている。

愚かなほどにただ貫き通す
生きる力を試すように

『神の領域』

これが愚行かもしれないことも、自分自身が愚かであることも。
歌詞だけじゃない。それは言葉の端々に表れている。自分の中での矛盾、ダブスタ、一般世界との乖離。目を背けたり自分を強く規範したりすることはあっても、それを全く認識していないわけでない。

そんな中で、どう自分の愚かしさと付き合っていくか。誰に後ろ指を指されても強く在るべきか。そういう話がしたい。そういうことを伝えたいんだと思う。

ただやっぱり1stシーズンだけでは足りないんだとも思う。自分はなにがダメなのか、なにが愚かなのか、じっと向き合う必要があった。それが2ndシーズンだった。心の引っかかりをそのままにしない。自らが自らとして強く在るために、そこには「他者」の存在が不可欠だった。

1stシーズンは複数人で暮らしながらも、ブレイクの流れと着地はキャラ個人の個性にあった。「やっぱり自分はこうだから」というある種のエゴというか、強引さがあった。
2ndシーズンでは問題が個々のものとなり、舞台も特定のキャラ一人にスポットが当たるように都度移り変わる。しかしそのブレイクは明らかに同居人たち「他者」の支えありきのもので、一人で暮らしていても起きうる1stブレイクとは異なる。

純粋愚直のその先へ。
それに手を加えるのではなく、より研ぎ澄ましていくような、そんな感覚。

そしていつか彼らは「神の領域」へたどり着くのだろう。
ニーチェの言う「超人」にも似ている。全てを受け入れる完全なる人。神の死んだ世界で、終わりのない現実をなお踏みしめ歩く人。

それは決して「次なる導き手」ということではない。救世主メシアなんて大それたものではない。ただ、彼らは彼らの道を行く。それだけだ。

その道を極めた先に……たとえ別れが待っていようとも。
それが悲しいものになることはない。わたしはそう、信じている。


『カリスマ』は一見とんでもない特例人間の話をしているように見えて、その実誰もが直面する問題について描いている。

わたしたちは遠くへ行きたい。ここではないどこかへ。そう願いながら自分の足元を見て苦しむ。現在地を不満がる。ときにそれを社会のルールや自分の今置かれた環境のせいにして、そこに納得できる言い訳を探す。
と、いうのは言葉が強いけれど、暗い思いだけでなく真摯な思いからもそうした自己制限は知らず知らずのうちに自分にかけられている。

それで敬虔に生きられているうちは安心。でもそうでなくなったとき――具体的には停滞したとき、わたしたちにはそれを打破するトリックスターが必要だ。

愚かなほどにまっすぐに、突き抜けるようなその光は、
ゆえにわたしたちの心を打つのだと思う。

これからもどうか、その生きざまをちょっとだけ覗かせてくれ。

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