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アンセム依央利パート 「名前」について考える

Twitterで11ツイートにわたって書いていた、『Charisma Battle Anthem』依央利パートに歌われる「名前」という言葉についての個人的考察です。
リプツリーが長くなってしまったのでまとめました。一部補足もするのでよろしくお願いします。


名前を呼ばれなければ捨て犬

『Charisma Battle Anthem』依央利パート

ここで「名前」を引き合いに出すことにはなにかしら意味があるように思えて……

名前、というのはモノを定義するためのものです。名付け親になることは古くは後見人になることを意味した(godfather)ことからもその重要性がわかります。

一方、夢枕獏の『陰陽師』に「名前は呪いの一種である」とある通り、その定義は(例えそれが自己によるものであっても)そのモノを固定し縛るものでもあります。

(『陰陽師』第一巻収録「玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること」より)

ここで、依央利パートの「名前」という言葉について大きく分けて2通りの捉え方ができます。
①家族から名付けられた(定義された)もの
②自ら名付けた(定義した)もの

「名前」が一般に人名のことを指す以上、①の視点は切り離すことはできません 。依央利は家族によって「本橋依央利」と名付けられました(※推定)が、①はただその事実だけを指しているわけではありません。

依央利の家族は「一般的な人間としての一般的に幸せな人生」を彼に期待した(彼を定義した)のだと思います。例外はあれど、子供の幸せを願うことは当たり前の感情ですから。

しかし彼自身が自らに名付けたのは「奴隷」でした。
それがなにに起因するものかは正直わかりません。生まれついての個性・性質はもちろんあると思いますが、後天的なコンプレックスも関連しているんじゃないかと思います。
ただとにかくここで言いたいのは、彼は名づけによって定義された「誤った」見解を、自分に新たな呼び名を与えることによって塗り替えようとしたのだろう、ということです。

①(一般的な幸せ)
②奴隷
この2つは(一見)排反概念に見えます。

ゆえに依央利は家族と揉めてしまったのでしょう。家族は彼を奴隷とは呼びません。こき使うことも命令することもしません。

優しさです。でも彼にとって、それは「本来の名前で呼んでくれない」「名前を呼ばれない」、つまり捨てられてしまったようなものなのです。

(今気づいたんですが、「名前を呼ばれない」というのは表彰されない、称賛されないという「自分には優れたものはなにもない」という意味合いもあるのかも。だからストイックに頑張って奴隷になってその空虚を「なにでも埋められる」「なんでもなれる」つまり「無限」に転化した、ともとれますね……)

ところで同居人のうち、依央利のことを元の名前で呼ばない人間が2人いますね。
猿川と大瀬です。(動画内アイコンの名前で呼んでいます)

コラ、いお

#1 『服従』より

い……いおくん……

#43 『お花見』より

猿川は依央利のことを昔から知っている、昔から見ているゆえに、無理をしていることも「トロい」ことも知っています。
彼の嫌がる「名前」は使いません。……でも旧知だからこそ彼を強く否定することはしないし、できません。言うときは言いますが、一定のラインを超えたと思ったら無理せず引き返してくれます。

家に連絡したのかよ。向こうから歩み寄るっつってんのに頑なに拒みやがって。
なにが「僕は自分がない」だよ。オメェほどガンコな野郎ほかに知らねーよ。

冗談だよ、いお!

#56 『いおとさる』より

だからこそ、他の誰にも再現できないいい塩梅の関係なんですけどね。

対して大瀬は依央利が呼んでほしい名前、「奴隷」を絶対に呼びません(捺印しない定義しないの意)。それどころか彼の「本心」、作中で「自我」と呼ばれているものを執拗に引き出そうとしてきます。ないはずはない、と信じて。

趣味は? 部屋で一人でいるときは? なにも用事がないときは?
(依央利:「なにも用事がないならなにもしない」)
なにも? まったく?

#50 『インタビュー 依央利』より

ハウスではいちばん「家族」のスタンスに近い人間なので依央利にとってはめちゃめちゃ嫌でしょうね。でも「家族」と同じくそれもまた優しさゆえの行動で……。

そして大瀬は『夏祭り』のりんご飴の件で(いや、きっとそれよりずっと前から)「奴隷」の名前もまた「呪い」でしかないことに気づいています。

りんご飴。
食べたいんでしょ。さっきから、ずっと見てる。

買おうよ。他の人のことはいい。

ダメ! りんご飴、買お!

#72 『夏祭り』より

(猿川も薄々わかっていますが強くは指摘できません。幼馴染ゆえにソフトなアプローチになります)

依央利に対して「もっと相応しい名前がある、「奴隷」じゃない!」と突きつける役目を担っているのが大瀬だと思います。猿川のやりにくいきつめのアプローチができる存在。

大瀬は自分のことを卑下する一方、自分に似ていると判断した人間に対しては多少の攻撃性・積極性を見せるという一面もあります(ふみやに対してが顕著)。自己肯定感が低い依央利のことも、共通するなにかを感じているのかもしれません。

持論ですが、名付けるとはそれを「その定義に縛り付ける」ことであり「不定形であるモノを無理やり定形にしてしまう」残酷さも秘めていると思います。
アート作品の写真にALT文章をつけるみたいなものです。一つにまとめられないものを一つにまとめる。

自分を名前にしたはずが、いつしか名前に自分が閉じ込められている……①の名前も②の名前も呼ばない大瀬は、そんな現状から抜け出すために不可欠の存在なのかもしれない、と思うのです。

そんなわけで、セカンドシーズンの依央利ブレイクのキーパーソンは大瀬なんじゃないかな~と予想します。あくまで予想です。

じゃあ猿川は、といえば、「支柱」なんじゃないかと。
大瀬は依央利を閉じ込めている「名前」を「破壊」するためには最も有効なメンバーです。しかし実際「破壊」しただけではまとまりません。拠り所をなくすわけですから、なにか他に頼れるものがなくてはいけません。ずっと前から自分のことを知っていて、揺るがない「支柱」です。その2つが両立しない限り、「名前」という視点から見る依央利の問題は解決できません。
変わらないものによる安心、新しい関係による改革。

最後に。
いつか呪いを解いて知ってほしい。
親心の望む幸せも、依央利の望む服従も、決して完全な排反ではないことを。

ご清聴ありがとうございました……


【追記】2023.12.21

 奴隷廃止と云うことは唯奴隷たる自意識を廃止すると云うことである。我我の社会は奴隷なしには一日も安全を保し難いらしい。現にあのプラトオンの共和国さえ、奴隷の存在を予想しているのは必ずしも偶然ではないのである。
   又
 暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。

芥川龍之介『侏儒の言葉-奴隷』より

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