【カリスマ】Prends garde à toi! ――訳ありの人にご用心
そうきたか。
このタイミングでこのストーリー展開をするのはセンスあるなあ……と思う。視聴者を出し抜き、惑わせ、ミスディレクションを誘う。引っかかるたびに次は細心の注意を払うよう胸に刻んでいるのに、なんだかんだ今回も引っかかってしまった。油断した。こわいこわい。
新住人
カリスマハウスに新しい住人が来るのでは、という話は昨年の8月(1stシーズン終了時)から今年の3月(2ndシーズン開始直前)まではよくされていた。1stシーズン最終話で知らない声のキャラクターが複数人登場し、カリスマハウスに3部屋の空きがあることが理由だった。
その話題は3月の特番で中神総右衛門が新キャラとして発表されて以来一気に見かけることが少なくなったが、それを今、2ndシーズン後半で持ち出してくるとは。
シーズン前半で「4週ひとまとめ」「ブレイクするキャラにフィーチャーしたストーリー展開」「きっかけになるキャラがいる」といった「お決まり」を提示しておいて、そしてそれに視聴者も慣れ切ったところで、このドリフト。はい上手い。しかもシーズン前半でビジュアルすら与えられないままひたむきに頑張っていた虎姫をここで活用してくる。変奏してくる。前半での積み上げがあるからこそなせる業。やはり信頼してよかったと思う、この作品。
※わたしは虎姫のことをたびたび「お姫」とか「お姫ちゃん」とか呼ぶが、これは決して彼を穿った見方で見ているからではない。他意のないあだ名だ。強いて言うなら『宝石の国』の某キャラのことを考えながら呼んでいるが、それも同一視ではない。この人は変な呼び方をするなあと思っていてほしい。
1stシーズンでは聞き飽きるくらいだったハウスの日常BGMも本当に久しぶりな気がしてほっとした。アットホームな感じがする。わたしの家でもないのにね。
お部屋ツアーも本当に牧歌的で楽しそうで、なにより。2ndシーズンではこういうシーンは軒並み「嵐の前の静けさ」だったけれど、今回からはハウスにいるだけ安心感が違う。装備が揃っている感じがする。どんとこいや。
そしてどんとぶつかられたのが虎姫である……(かわいそう……)
いや実際に伊藤ふみやが虎姫を原付バイクで轢いたかは定かでないけども。
教習所で学科と格闘しているわたしにとって原付乗ってる発言は地味にリアルに感じられて面白かった。絶対二段階で右折しないんだろうな。しろよ。交通法規は割とマジで守ってもらえないと困るよ。
廊下でのシーン/轢いたか轢いてないか
廊下でのシーン、ふみやが「ごめん」と言うのがすごくいい。
ふみやが実際に虎姫を轢いてしまったのならそれについて謝る義理があるが、本人の主張通り「勝手に倒れた」のならこれはどういう「ごめん」なんだろう。
わたしは「轢いていない」イメージで聴いていたので事故ったことに対する謝罪だとすぐに結び付けられなかった。ゆえにこう、伊藤ふみやという存在を買いかぶるような読みをしてしまった気がする。
彼は目の前にいる人間が虎姫だと気づいていて、彼がぼろぼろの姿で放浪していたのは自分たちが研究所を破壊したせいだと罪悪感を抱いていて、いつものように皮肉っぽく言うことができなかった。
うーん、どうかな。罪悪感のざの字もない人間だよ伊藤ふみやは、と言われるとなんだかそんな気もするし。いや負けるな。彼も人の子、感情がないわけではないし虎姫は(人間味あふれる)いち助手にすぎないのだからそういう思いを抱くことも……あるはずなんだけどこれカリスマだからなあ。先読みなんてするだけ無駄とすら思える。小説だったらこの線ありなんだけど。
でもふみやが「ごめん」と言ったあとに虎姫が「ああいえ、こちらこそ」と返しているところ、本当に事故ったのかもしれない。行き倒れたところを介抱してくれたうえに家に泊めてもくれた人に突然「ごめん」とか言われても、言われたほうは「え、なにについてのごめん?」と困惑するだけだろう。あの素直な虎姫が聞き返さずにその謝罪を受け入れているところ、実際に轢かれていたからその謝罪だと思ったのかもしれない。
いや、そうとも限らないか。
虎姫側の主観を考慮するのを忘れていた。轢かれていようが轢かれていなかろうが、虎姫自身は90話の件で既に被害者なのだ。現にラストシーンで「先生の仇は必ず取ります」と言っているし、カリスマたちにはその件しっかり謝ってもらいたいと思っていたとしても不思議ではない。そこに虎姫の素直な本性が組み合わさるとどうなるか。ふみやからの「ごめん」を、(身分を隠しているという自分自身の状況を忘れて)博士と自分への仕打ちについてのものだと勘違いしてしまうのである。だから仮にふみやが事故っていなかった場合でも虎姫は「ごめん」の言葉に質問で返すことはない。敵の立場の人間の優しさに触れて戸惑うことはあっても。
じゃあこの廊下のシーンはどうとでも解釈できることになり……今ここでどうこう言って判別できることはなさそう。もう何話か進んだところで真意がどうだったか答え合わせをする感じで、今はどきどき待っていよう。
疑う人たち
虎姫の部屋は202号室。芸術家に挟まれている。自己肯定感が釣り合ってとんでもなく中庸になりそうな立地。でも鏡割れたり窓ガラス割れたりうるさいだろうな。
ところであなた足を痛めてたんでしたね。なんで2階に? ここエレベーターとかないですよ。
さて動画の13:41の字幕にはこうある。
微笑んでいない人が約2名いる。猿ちゃんはこの直後に「けっ」というセリフがあるし、大瀬は今回虎姫のことを始終遠巻きに見ていた。馴れ合いが面白くないとか人見知りだとかいろいろ考えられるが、もしこの2人が虎姫(字幕では「謎の男」)に不信感を抱いているのならストーリーとして面白いなと思う。別にそうでなくても面白いが、わざわざ字幕に書く以上ここになにかこだわりがあると言ってよいはずだ。
2ndシーズンのブレイク当番を既に済ませた2人である。
大瀬は『白い部屋』『ぶちのめせ!』で虎姫と交流があり、顔を覚えている可能性がある。これまで様々なことにいち早く「気づいて」きた彼なら順当に考えれば気づいていそうである。
猿ちゃんは人を軽々しく信頼しない。常に疑いの目を向ける。これは79-82話でも如実に表れていて、自分のテリトリーにいきなり入ってきたよそ者を警戒するのは当然のことだろう。そこが自分たちの今の居場所であるカリスマハウスであるならなおさら。あと彼はハウスの人間に対して「俺が守ってやらねえと」と思っている節があり、防衛担当を担う意識が人一倍あるからこそ虎姫を信頼しないかもしれない。
この2人が来週以降どのように行動するのか、要チェックや!(彦一)
彼はカリスマになりえるか
そういえばハウスへの新入居が懸念されていた春あたりでは、主な悩みの種はこれだった。ずばり「新たなカリスマが登場するのではないか」。
虎姫という(一時的ではあるが)新入居者が現れたことでこの懸念が再び持ち上がりつつある。わたしとしては物語が許すなら虎姫が新カリスマになろうがもはや歓迎する気であるが、それはそれとして、たぶんそういうことにはならないんじゃないのかな~というのが個人の見解である。
これは『ツァラトゥストラはかく語りき』にて超人論を説いた哲学者、フリードリヒ・ニーチェの考えに根拠を持つ。曰く、「凡人は超人になりえない」。リピートアフターミー。「凡人は超人になりえない」。超人に至れるのはごくわずかな人間だけであり、並の人間がプロセスを辿ろうとしたって無駄、ということである。虎姫は2ndシーズン前半の言動を見る限り、凡人にすぎない(※紛らわしい。ファンネームではなく本来の意味である)。だから彼は超人にはなりえない。安心してほしい。
ただ、ニーチェの言う「凡人」が「脱落者」の意にすぎないのであれば彼にもチャンスがある。彼がいかにして「凡人」の殻を破るのか、そういう物語も面白そうではある。カリスマに至るのかといえば着地点は必ずしもそこだけではない。「7人のカリスマ」というタイトルを標榜する限りこれは彼ら7人の物語である。が、ひとりの人間がその輪の中で成長してはいけないというルールはない。
虎姫は来週にはもう退居してしまうのか、それともなんだかんだ居着いてしまうのか、未来のことはわからない。でもそれが彼らにとって、つまりはカリスマたちと虎姫自身にとって良い影響をもたらすものになるといい。
後半の展開予想:既成観念を見つめる
最後に、ニーチェの話と関連して、今後の2ndシーズン(つまり後半)の展開について予想したいと思う。先ほど「予想など無駄」と書いたばかりだが、自分の持っている知識でああだこうだ言うこともまた面白いので、邪推にならない程度に考えていく。
ニーチェによると、超人に至る道には3つのステップがあるという。
ラクダのように忍耐強く、ライオンのように反抗し、子供のように純粋で自由であること。これに当てはめて考えると、「真のカリスマ」に至る道も3段階あるのではないかという予想ができる。つまり「3rdシーズンで完結するんじゃないか」というものである。
2ndシーズンをこれに当てはめてみると、ちょうど「ライオン」の段階に当たる。これは「自分を縛りつける既成観念への反発、反抗」を意味している。平たく言えばなにかと戦うということで、平和には暮らせないということである。
2ndシーズン前半を思い出してほしい。平和には暮らせなかった。総右衛門、敵組織、父彦、また総右衛門というように「縛るもの」が登場し、それらに反抗することで戦いに発展する。ところが変わり主人公が変わり、根無し草の戦いは終わらない。だから伊藤ふみやが半強制的にピリオドを打ったわけだ。
だが2ndシーズンはまだ半分ある。まだ「ライオン」の段階は続いている。ということは、ハウスに帰ってもなお戦いは続くということだ。それがどういう種類の対立なのか、始まるまでは見当もつかなかったが、虎姫の状況を見てなんとなく納得した。
なるほど。まだ彼らも諦めちゃいない。攻勢に転じてさあ、どうする。
また、「ライオン」の段階のキーワードは「既成観念」である。自分を縛り付けている、ということは自分がこれまで歩んできた道のり上に存在し、避けては通れない存在が「既成観念」なのだろう。
つまり対象は「過去」の座標にいる。だから彼らは必然的に自らの過去に目を向けざるを得ない。
学生時代とか、故郷とか、お家とか、2ndシーズン前半で既に「過去に目を向ける」ことはやってきた。だから後半でもそれは継続されるとして、問題はその動機だ。シーズン前半では、彼らはハウスを追放された結果やむを得ず特定の行動(自分の故郷にかくまうなど)をし、それによって自分の過去と向き合うことになった。つまりは消極的選択、過去への受動的なまなざしである。
対して後半ではハウスの生活を取り戻したので無理に自分の過去と向き合う必要はない。必要はないけれど、その選択を自らすることになるんだと思う。積極的選択、過去への能動的なまなざしである。これは、彼らがもし1stシーズンのような生活を続けていたらしなかったであろう選択だ。平穏無事な生活に「安住」していたところから追放されてはじめて、自分と、あるいは他人と相対することができた。そして気がかりなことを自ら解決するという決断に至った。苦しい状況の中で自らの過去に立ち向かった仲間の雄姿を心に浮かべながら。
な~んて、そういう感じだったらどうしようね~。
でも『夏祭り』ペアの片方だけが綺麗にブレイクしているところ、なんだかなにか起きそうな気がする。そんなの来たら耐えられないよ。わくわく。
これで言いたいことは全部書き終えた気がする。またなにかあったら追記したり修正したりするつもり。
楽しい。『カリスマ』、君に出会えてよかった。
「Prends garde à toi!」:「ご用心!」(仏)
オペラ『カルメン』の中で主人公カルメンが歌う『ハバネラ(恋は野の鳥)』で何度も用いられるフレーズ。私に目をつけられたら気をつけなさい、私に恋されたら気をつけなさい。そしてこの歌の内容が示すとおり、カルメンに思いを寄せられた真面目な隊長ドン・ホセはだんだんと道を踏み外していくことになる。
カルメンは始終、死ぬときまで、自由な女である。平穏を乱しにやってきたのではない。勝手に周りが乱れていくのだ。
用心すべきはどちらなのか、より自由なのはどちらなのか。ラストシーンはどのようになるのか。今からとても楽しみです。
いただいたサポートは 個人的な記事→個人的なことに 元ネタのある記事→元ネタの公式様に 還元させていただきます。