技術や才能だけじゃ製作者になれないのではと思っている一素人の考察

 20世紀中頃。漫画家志望の青年が、ある新聞社の編集部に原稿を持ち込み、漫画を連載させて欲しいと掛け合った。応対した編集部の男は、担当がまだ出社していない。原稿は預かっておくから後で来いと告げる。
 仕方がないので原稿を預け、近くの店でコーヒーを飲んでから再び編集部を訪ねる。すると先ほどの男や他の編集部員たちが、自分の漫画を絶賛しながら回し読みしているではないか。
 青年の名は、チャールズ・M・シュルツ。後に世界に愛されるキャラクター、スヌーピーを生む男である。
 コーヒー一杯を飲む間に、目の肥えた編集部の人々を魅了した青年の才能には、さすがというほかないが、さてそんな男が今ありせば、コーヒー一杯飲む間にどれほどの人々を虜に出来るだろう?

 今更と言われてしまうかもしれないが、昨今情報技術の進歩と変遷は目まぐるしい。ネットの普及で社会構造を変えたそれは、タブレット端末の登場で、ひとつの決定打を見せた気もする。PCが情報の生産の必需品から、消費の必需品になった瞬間だったからだ。
 同時にそれは、作品の発表と伝播の機会が、プロとアマで限りなく均等になった日でもあった。これはもっと以前から起きていた事象かもしれないが、音と映像に続き、印刷のメディアが電気的に手軽に過不足なく閲覧できる媒体を獲得したという意味では、需要と供給の手段が揃った日でもあったろう。
 どんな人々にも発表の機会が与えられ、文化の裾野が広がる事は喜ばしい。が、そこに至った人々は皆一様に、その先の『覚悟』は整っているのだろうか。

 アルファブロガー、アルファツイッタラー、または生主や歌い手など、ネットメディアで多大な人気と支持を博する人々が注目され始め、時にはプロフェッショナルにまで成長することも、決して珍しくなくなった。
 人々は自らの目と口コミで選んだ製作者を応援し、製作者達は加速度的に増える分母の中から勝ち上がるべく、切磋琢磨を繰り返す。一見健全な文化的成長作用に見えるが、それに絡んだトラブルを多々耳にするのは何故だろう?

 ストリーミング放送を使った音楽や映像の違法配信をはじめ、人気配信者による強制わいせつなど、ネットの人気者が起こすトラブルは後を絶たない。
 誤解がないように言っておくが、私はすべてネットのせいだなどと言うつもりは微塵もなく、こうしたことはネットにかかわらない世間でも(誠に不本意ながら)よくある事件である。
 私自身、そうした情報が目に付きやすい環境にある事も認めよう。しかしそうであるからこそ、こうした人々が身を落とすのが、あまりにも勿体無く思えて仕方がないのだ。

 製作者にとって、生み出したものへの多くの賞賛は、それだけで甘露である。ましてや金銭を頂戴できるとなればなおのことだ。
 私も過去、自分が書いた原稿でお金(正確には金券だが)をもらったことがある。あれは嬉しい。掛け値なしに嬉しいことだった。
 それが桁違いに多かったらどうか。溢れる賛辞、鳴り止まない嬌声、舞い込んで来る報酬。自身の仕事が生み出す愉悦に抗える製作者は、恐らくいないだろう。
 甘露に泥酔し、一時我を忘れ、つまらぬ失態で一転咎めを受ける側になる。もしかしたら世間を長く魅了できたかもしれない才覚も、要らぬ耳目を集める枷にしかならない。
 あまりにも勿体無いではないか。

 改めて誤解がないように言うが、私はネットから発したあらゆるアマチュアが、そうなるなどど言うつもりは、毛の先ほどもない。事実ネットから発し、ショウビジネスの一翼を担うまでになった人物は多い。
 ではそうならない人物。製作者として成功できる人物と、出来ない……否、できなくなる恐れがある人物との差異は何処にあるか?
 素人考えながら私は、そこに『覚悟』があるか否かだと思うのだ。

 明石家さんまが人気を博し始めた頃。夜の交差点で信号待ちをしていると、酒に酔った若者に見つかった。
 彼らは「おぅさんまじゃーん」などといいながら、さんまの尻に蹴りを入れた。一緒にいたスタッフ達が一瞬で凍りつく。喧嘩になるかと思われた次の瞬間、さんまは若者に言った。
「おぅ、ナイスキック!」
 そのまま何事もなく、若者と離れて青信号を渡り始めた一行。スタッフは思わずさんまに「なんで怒らなかったんです?」と言った。するとさんまは答える。
「あそこで喧嘩にでもなったら、俺TV出てお笑い出来んようになるやん?それはイヤやからな」
 一度舞台に上がれば、大なり小なり毀誉褒貶に晒される。不本意な評価や接触を受けることもあるだろう。
 批判にいちいち噛み付いたり、賛辞に酔って増長すれば、結局自身の名を貶める結末にしかならない。褒められても貶されても、自身が何者であるかを見失わない覚悟があればこそ、彼は若者を赦せたのかも知れない。

 話がやや逸れたのでまとめよう。
 技術は素晴らしい。コーヒーを飲む暇もなく、一瞬で作品を世界に披露できる。そして才能あるモノを『情け容赦なく』祀り上げてくれる。
 ではその先、溢れかえる毀誉褒貶の中で、自分を見失わないでいられる覚悟を持った人間は、はたしてどれくらいいるだろう?
 ネットが生まれる前、作品を世間に発表するのには、それこそシュルツ青年のように、直接配信元に持って行ったり、あるいは自身で場を設けたりと、膨大な労力を要した。
 だがその不便さは、製作者であることの自覚と、作品を作るだけでなく、世に出したいのだという熱意の、担保にもなっていたのではないだろうか?

 すべての人が放送局となった現代。より魅力的なコンテンツを提供できる人間は、正にテレビに比肩する影響力を持てるまでになった。
 それは即ち、一企業が相手にするのと同じ数のレスポンスを、個人が受けるということでもある。ネットの発信者達は、それを理解した上で発信者になっているのだろうか?
 製作者にとってはパラダイスとなった時代だからこそ、その事を教える手段も必要かもしれない。

 蛇足だが、シュルツはスヌーピー作品の中で登場人物に語らせている。製作者への戒めにも見えたのでここに転載する。


「ほめられたら、ありがとうだけ言えばいいのよ」

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