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ひとりひとりの

川崎洋の詩『存在』を教わった。

「魚」と言うな
シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな
樫の木と言え橡の木と言え
「鳥」と言うな
百舌鳥と言え頬白と言え
「花」と言うな
すずらんと言え鬼ゆりと言え

さらでだに

「二人死亡」と言うな
太郎と花子が死んだ と言え


『死者◯◯名』といった、数字にまとめられてしまうような事故や災害を目の当たりにするたび、この詩が浮かぶ。あの日もそうだった。
 震災の十年ではない、失い傷ついた一人一人の十年である。

 直後に及んだ混乱の中で、あたりまえに並ぶ品物やインフラが、精緻なシステムと弛まぬメンテナンスの上に立つ奇跡的なものであることを学んだはずである。振り返り、そのことを今も胸に刻んでいるかと問うてみる。

 上記のツイートを見てはっとした。生活が生活の形をなすのも、多大なコストを誰かが支払い、それを享受する人々で分け合っているからに他ならない。
 責めることにあくせくし、理解することを疎かにしていなかったか。

 何年か前、福島を旅した。彼処に覗く傷跡のそばに、美しい海と山と、美味い魚が並んでいた。すべては自然の行いの中のことなのだと知った。
 責めも褒めもいらない。自らを律するだけで世界は変われるはずである。

 震災の十年ではない。浮き彫りにされた課題と、今なお残る傷の十年である。
 だが同じくらい取り戻し、癒し、新たに得た十年でもあったはずだ。
 海深く魚介に恵まれた国は、地震に添われてしまった国でもある。これからも当たり前に暮らしてゆくため、気と物を備える日であってもいい。



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