ググった先に見えるもの

 歯を磨く——。これはもう日常生活とは切っても切れない行為で、私は上の歯、下の歯を丁寧に三分以上歯ブラシでゴシゴシやり、歯ブラシは二週間に一度は新品に取り換えている。改めて考えてみると、歯という存在はかなり優遇されているような気がする。
 これまで沢山の大人に言われてきた「歯だけは大切にしないといけないよ」と。
 その理由を今考えてみる。様々な部位が組み合わさり形成されているこの肉体の中で、なぜ歯だけは大切にしなければいけないのかを。
 今パッと思い浮かんだのは理由は、お金、つまり治療費。
 歯科医院にかかったことがないのでよく分からないが、歯の治療ってのは結構お金が掛かるらしい。数万、数十万、酷い時は数百万掛かるみたいで、たしかに高い気がする。
 でもそれだけが理由なのか。もっと他の部位とは違う明確な理由があるのか? ないのか? 私には分からないし、階下で食パンを齧っていた家人に訊いても、わかんなーい、と口をモグモグさせるだけで何の情報も得られなかった。ググればその理由を教えてくれるのかもしれないが、調べる気にはなれない。
 というのも、僕はググるのがあまり好きではない。
 たしかに「ググる」という手法は便利だし、我々現代人の生活を豊かにしてくれるし、これまで私も幾度も「ググる」に助けられた。でも「ググる」でその場の問題を解決して数分後、いつも妙な違和感を覚える。なんかズルしている気分になるのだ。何百何千年という時を経て、蓄えてきた人類の「知の集積」を、借りた、というより奪った、というなんとも居心地が悪い気分に襲われる。それに大体の場合、「ググる」で得た情報は、ある程度の時間が経過すると頭からすっぽりと抜け落ちる。そして、あれ、なんだったけ? とまた同じワードを「ググる」。そのループは止まらない、幾度も繰り返す。つまり、頭にこれっぽっちも入っていないのだ。他の人はどうか分からないが、私は必ずこのループに陥ってしまう。
 もし私が自分の行動を俯瞰で見ていたとしたら言うだろう、こいつ馬鹿だ、と。だから、私は「ググる」をやめた。分からないことがあったら、書物を読んだり、可能であれば自分の足でソコへ出向くようにした。
 そんな効率の悪い事するより、「ググる」で得た情報を忘れないように努めればいいじゃないか、それだけの事なのにイチイチ頭でこねくり回して面倒な方向に自ら進んで馬鹿みたい。という声が周囲から聞こえてくる気がするし、実際そういう意見を声高に訴え続ける自分も自分の中に存在している。だが、なんというか「ググる」と「読む、出向く」では実感がまるで違うのだ。乱暴な言い方でいうと、「ググる」はVRって感じ、「読む、出向く」は現実って感じがする(今ではVRが現実で、現実がVRだ! って意見もあるような気がするが)。「ググる」はスマホを置いた瞬間に、その情報はもちろん、その過程やその時の空気感さえ消えてしまようなそんな感じがあって、「読む、出向く」は書物や出先から戻ってきても、情報はもちろん、過程、空気感もありありと残っている感じがするし、むしろ時間の経過と共にそれがどんどん色濃くなっている感があるし、その瞬間に、何百何千年という時を経て、蓄えてきた人類の「知の集積」に触れた気さえする。その手触りは、いつも私に喜びを与えてくれた。
 だから今回生まれた『なぜ大人達は歯だけは大切にしろと言うのか?』という疑問を私は「読む、出向く」で紐解いてみようと思う。と言っても歯医者関連の知り合いもいないので、今回は「読む」で紐解いてみることにする。
 これから、近くの本屋に行ってみようと思う。きっと私の疑問に答えてくれる本があるはずだ。いや、必ずある。だって、本屋が私を裏切ったことなんてないもの。って言い切ってしまうと、いや、一度や二度くらいはあるかと思ってしまうが、まぁほとんどの場合、ない、なので、今回は、ない、と言い切ってしまいたい。今ふと思ったが、膨大な種類の本がある本屋ってのは、言ってしまえば「人類の知」の集積場なんだな。そんな場所を提供してくれる、この地域、いや、この国、いや、この世界に、感謝感激雨あられ。
 本屋に着いたらまず、歯関連のコーナー(そんなコーナーがあるのか分からない。けど、今日行くことであるのか、ないのか分かる)に行って、それから小説コーナー、歌集コーナーに行こう。本屋のいいところは思いがけない出会いがあるところだ。これまで私は本屋で思いがけない出会いを何度もした。その中には私の「今」を形成した出会いもあった。池田晶子氏の本だ。おそらく、いや、確実に、池田晶子氏の本と出会ってなかったら今の私はいなかった。そういう意味も含め、私は「ググる」でなく「読む、出向く」を強く推したい。

 では、イッテクル。

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