リビングの煙と線香の煙

 四月五日、煙草をやめると心に誓う。

 煙草は百害あって一利なし。朝、裏庭で雲のないまっさらなブルーを眺めながら煙草をふかしていた時、唐突にそう思った。まるで雷に打たれたような唐突さと衝撃で、嘘みたいだと自分でも思ったが、その日はそれっきり煙草を吸いたいと思わなかった。
 その日の晩飯はなぜかやけに美味く感じた。焼肉だった。リビング中に漂う煙さえ美味く感じたような気がした。煙草から離れると味覚が敏感になると誰かが言ってたがあながち間違いではないらしい。その日は久しぶりに御飯茶碗二杯食べた。
 ヤ二が体に混じってないせいか、腹が膨れたせいか分からないが、万年の不眠症は息を潜め、その日は嘘のようにスッと眠りについた。

 四月六日、無意識に煙草に手を伸ばすが、なんとか思い止まる。

 次の日は、嘘のようにスッと目が覚めた。体が軽く、立ち上がっても寝起き特有の朦朧とした感じがなかった。禁煙の成果は日常生活のあらゆるところに現れるのだと実感。
 スキップするように軽い足取りで階下に向かい、リビングの手前の右に折れ、洗面所へ向かう。歯を磨くため、歯ブラシを手に取ろうとするが、気付いたら煙草を握っていた。体は自動的に洗面台を素通りし、その奥にある壁掛け棚に手を伸ばしていた。その箱を握った瞬間、悪魔の囁き声のようなものが脳裏を掠め、私は一本くらいいいか、という思いに駆られ、勢いそのままにサンダルを引っかけ、裏庭へ続くドアを開けていた。煙草の箱から一本取り出し、口に咥え、その先端をライターで炙るように思われたが、なぜかライターが上手く点かなかった。何度やっても小さい火花が散るだけで、そのうち親指が疲れ、それと並行して正気が戻ってきたので私は咥えてい煙草を地面に叩き付け、サンダルの底で捻り潰し、洗面台へと踵を返した。ドアノブに手を掛けた時、なんとなく上を眺めると空はブルーだった。昨日より薄いブルーだった。
 その日は地獄だった。ほとんど煙草のばかり考えていた。作業がままならず、それならと読みかけの小説を手に取り心を鎮めようとするがそれも上手くいかなかった。煙草を忘れようと思えば思うほど、物語が頭に入ってこない、右から左へ流れる。その一瞬の空白を待っていたかのように煙草の煙が音もなく脳内に侵入、終いには脳内が昨日のリビングのように煙だらけ、つまり煙草が頭から離れない状態、物語が煙草に侵される。
 それを防ごうと、ひたすらアメリカ製のグミを噛み続け気を紛らわせていたせいか、その日の晩飯はほとんど食べられなかったし、床に就いたら急に腹の塩梅が悪くなり何度もトレイに立った。結局あまり眠れなかった。

 四月七日、つまり今朝、リビングに蝋燭用のチャッカマンがあったのを思い出したで、いつものように裏庭で煙草を吸った。連日ブルーだった空は黒い雲に覆われていた。つまり雨だった。
 禁煙後の煙草は体に沁みた。細胞が生き返るようだった。チャッカマンの存在、いや、家人にこれほどまでに感謝したの初めてで、その感謝の気持ちをしみじみ胸の中で温めていた時、空から落ちてくる雨粒が煙草の先端に命中し、シュッというなんとも切ない音と共に、煙草とそれを挟んでいた私の指先が盛大に濡れた。濡れた瞬間に先端から漂った煙はまるで線香のように空に向かって細く揺らめき、しばらくすると空気に溶けた。

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