風の強い日、2019年8月
昨日の「ノル森」が思いのほか、自分の中で深く響いて、ひとつの解を得たような気持ちになった。あのときにぼんやりとしか見えなかったものが、今ならわかった…ように感じられたのは、ひとつの救い。
ワガママを言っても許される、別にそのまんま聞いて叶えてもらえなくても許される「安心」できる関係がほしいだけ。一日に5分だけ、ちょっとした一言でよいから、安心させてほしい。生きていてもよいのだと思わせてくれたら、今日の残りの時間、ひとりでもがんばれる、そんな気持ち。
それは依存なのかもしれないけれど。でも、ずっと、ではなくて、今しばらく。ほんと、今、何をすればよいのかわからなくなっていて。もうちょっとすれば、きっと、しっかりできるはずだから。
わたしが生まれてきた意味はなくても、わたし自身が生きている意味は感じるときがあっての。たましいのふるえる瞬間は、確かにあった。一度でもあれば十分だ。ただ、まぼろしではなかったけれども、あっという間に過ぎて。また違うなにかを期待している自分もいて。ごくささやかな奇跡。なんといっても強欲だもの、でもわたしは小さくて。
「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」 と直子は言っていたけれども、わたしは誰にそれを?いやいや、わたしのことなんて、すぐに忘れてくれてよい。
#たのしいこともつらいことも過ぎてしまえばみんな思い出
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