ヴァーチャル神保町勉強14回目 畏怖や崇高の感じ方を考える

ちょっと遅くなりましたが、6月15日開催回のレポートです。

崇高という概念は自分はあまり詳しくはないので、深い話というよりは、いまそれぞれ理解していることをそれぞれ話しあう会として行いました。

注目したかったのは、自分では為すすべのないものと対峙したとき、人はどのような対応をするのか、それは文化によって違ってくるのか、といったことです。

直近の勉強会全体の流れとして、文化間の共通点や違い、異文化の理解を話してきたので、その中で位置づけています。


やや手前味噌ではありますが、やはり一応コトバンクから引いてみると、基本的に美学の中で定義されており、その流れを追うのが良さそうです。

「世界大百科事典 第2版」の中では、近世なのでやや歴史的な定義ではありますが、E. バークによる「崇高とは危険を望見しつつ身の安全を確信できるところに生じる歓喜」という定義が掲載されています。

「大辞林 第三版」の中では、「西洋美学において、古代ギリシャ以来の古典的調和美と対比される、ゴシック式大聖堂やアルプス山系などの壮大な美。また、それによって喚起される高揚感。」とあります。

抽象的には、ときには危険の予感さえも感じさせるような壮大さで、しかしポジティブな感情である、と言えるでしょうか。

より具体的には、ゴシック式や山脈など、極めて背の高いものと結び付けられています。


今回出た話題で面白かったのは、思想などの概念から荘厳さや高揚感を感じさせられるとき、それも崇高に入るのか?という話題です。

確かに、必ずしも物理的なものではなくても、これまで想像も及ばなかったような概念、理念、構造、数式などに出会い打ち震えるとき、そのとき感じる自分自身の為すすべのなさは、崇高と呼んで良いように思えてきます。詳しい方が読んでくださっていたら、お教えいただけたら嬉しいです。

(為すすべのなさ、という考えは、『音楽の哲学入門』も参考にしています。「自己の感覚と自己の重要さの感覚を崩壊させる衝撃」という表現がなされています。)

また、「為すすべのなさ」という点では、自分が対象を完全に理解しきれないときのほうが、それが生じやすいのかもしれない、という話もしました。

例えば映画の場合であれば、すべて理解しきれない作品のほうが、より打ち震えさせられる部分があるのではないか。と。

これは再びコトバンクのちからを借りれば、「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」の、F. シラーによる「われわれの対象把捉力の無力感」に近い考えですかね。

センス・オブ・ワンダーという言葉もこの回のなかで教えていただきましたが、このある種の不思議な感動を指す言葉が、崇高とどのような位置関係にあるのかも気になるところです。

少なくとも、分からなさ自体も感動の源になることが、この言葉によって示唆されてきます。


他にも気になる論点がいくつかあります。

崇高を感じされる形状とは何か。高層ビルの壮大さや、粗いポリゴンが感じさせる怖さ (例えばムジュラの仮面における月。) とは。

作品の作り手のかたはどう感じていたのか。

様式化しすぎてしまうと、相手のことを分かってしまっている分、恐怖による畏怖を感じにくいのか (現代におけるゾンビ)。これは時間を通じた受容の変化という意味では、間接的に文化による崇高さの違いを示していそうです (崇高さの抽象的な定義自体の変化というより、単に崇高の具体的な対象が変わっただけ、というところに落ち着いてしまうかもしれませんが)。

あともう一点興味を惹かれた話題が、「小説で非人間を書くということは、人間を考えるということ」という話題です。

圧倒的な存在が作中に登場する時、それと比較した等身大の人間にこそ人間の特徴、あるいは少なくとも我々の自画像が現れて来、自分たちをいっそう相対化/対象化できることでしょう。

それでは今回もありがとうございました。

若干レポートが遅れがちになりましたが、やれる範囲で急ぎ目に追いついていきます。


参考文献

https://kotobank.jp/word/%E5%B4%87%E9%AB%98-83268

※ 2020/07/05 最終アクセス


https://www.ajup-net.com/bd/isbn978-4-7664-2588-8.html

セオドア・グレイシック 著, 源河 亨, 木下 頌子 訳, 慶應義塾大学出版会 2019

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