素直に話したい

10月は自分の誕生月だから少しは意識して、どちらかと言うとポジティブなイメージがある。
でももう10月はネガティブなイメージに完全に塗り替えられた。

2019年10月25日
連日の早朝から深夜までの撮影続きで忙し過ぎて疲弊していた。10月はほとんど休みと言える休みはなかった。
兄の不倫とかなんだで母から少しだけ相談を受けていて、そんな兄のイメージがなかったものだから少しだけ驚いた。
とは言っても明るいアクティブな山田孝之似の兄は大人になってからの方が仲は良く、マメに連絡をとっていた。
それもそうで、父の長きにわたる闘病生活を支えていたのは兄夫婦だったし、最後を新井家全員で見送ったあの日々はより自分たちを強くした。
しかしあれから3年過ぎてIT系の仕事をしていた兄の金銭の問題が浮上していた。
俺は今年の始め相談を受けて大きな金額を貸した。人にお金を貸したことはない、それは親からの教育にも近い。
しかしこと兄になると違う、俺がこの世界で下積みをしていた時や先行き不透明で20代は精神的に地獄だった。よくご飯を奢ってもらい、言葉や行動で背中を押してくれた。本当に頼れる大きな存在だった。
そんな兄が苦しんでいるのだから、少し余裕もある現在なのだから、と手を貸した。
しかしその半年後にまた援助の申し出があり、それはないよとキレた。どうしちゃったんだよ? そんな兄貴見たことないし、なんか変だよ。金借りるのに下の奴に頼るような玉じゃなかったのに、少しルーズになりすぎなんじゃないの?
一度電話を切ったが、ここで俺が手を差し伸べないとなんと言うか、ダークな世界に踏み入れそうな気がした。感覚と言うか、そんな気がした。
キレながらも、わかったよ、貸すよ。ただし、少しでもいい、10年かかってもいいから着実に返してください。そして心入れ替えて生きて行こう、と話した。
言い伝えなければと考えをまとめて長文のLINEも送った。
「〜尊敬もしていた、ただ少し残念に思ってる。でもこれからお互い頑張って生きて行きましょう。」
最後の言葉は正直言ってイヤな予感がしたからだ。ダークな、今まで見たこともないような暗い影を兄の声音から感じたから。
生きて行こう、と伝えた。
100万分の1かもしれないけど、死を選んでしまう可能性もあるんじゃないかと一瞬だけよぎってしまったから。
ただ、送って数分後にLINEが送られきて安堵した。
「いや、自分でした事を再度見つめ直して頑張るわ。本当ありがとう。」
と返信が来た。

そして数日後の10月12日にLINEが来て、誕生日おめでとう! とメッセージをもらった。

その数日後、同居している母がまた精神の錯乱を起こして物がなくなっただの変な人がいたなどと言い始めた。
(母は数年前から精神を病み不安になると幻聴や幻覚を見始める。ここ2年ほどは一時期よりは回復していた)

また始まったよと兄に連絡をして明日電話しようと言われ、翌日撮影の合間に電話をした。まあ、昨日よりは今朝はよくなっていたけど、なんかまた戻っちゃいそうで俺すごいショックだったわ...と話した。
また改めて話し合おう、と兄が言い明日の夜また電話しようと言って切った。
だが翌日、兄からLINEがありごめん風邪ひいたからまた改めて話そうと言われた。
わかったと返してそのまま忙しくて2, 3日は連絡しなかったと思う。

そして10月25日
今思えば死ぬにはもってこいの天候だった。嵐のような風と雨、今日って台風だったっけ? と思うほど凄まじかった。
朝7:00、深夜までの撮影続きで軽く寝坊しそうになりタクシーを拾おうとしたが全くつかまらず、駅の方まで歩いて行った。それでもつかまらなかった。10分ほど経ちずぶ濡れになりながらようやくタクシーがつかまり乗り込み無事スタジオに着いた。
その後22:00を過ぎ香盤通り22:30には終わりそうだなと思っていた。
携帯を見ると兄の奥さんからTELが何件か入っていた。
出れないでいるとLINEが来て兄から不吉なメッセージが来たから連絡しても全く連絡がとれないとのこと。
俺はもうすぐ撮影が終わるからと連絡して、終わった途端電話した。
しかしかからず、兄の奥さんに折り返して事情をきいた。

長々書いたがこの先はもう書きたくない。


ただ事実を言えば、新宿のビジネスホテルから搬送されて早稲田の病院にタクシーで向かった0:30には生き絶えた兄が集中治療室で見たこともない顔色をしてカッと目を見開き、魂のない借り物の身体だけになっていた。
父の死を見届けてるから死には直面して免疫は出来ている。ただ今回は悲劇のTVドラマでしか見たことがない現実をいま数時間体験し、こんな悲劇は現実にあるんだな、と思った。
異世界のことだと思っていた。

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警察が、関係は? 弟です。
本当に対面しますか? 心の準備は出来ていますか?
無意識に会いたくて、はいとしか言えなかった。涙は出たけど、ここにはもう居ないと思った。そして死の影、オーラは見えないけど暗い暗い影を纏っていたのは確認できたし、こんな状態まで何もできなかった自分を責めた。
兄と弟でやってきたけど、兄を演じさせ過ぎて、俺は弟を演じ過ぎたのだ。
やっと金銭的にも精神的にも独り立ちして兄に頼らず兄に今までの借りを返すつもりで金も貸した。
人には、人生には波があるから、それを乗り越えて生きていくんだ。俺は10代20代と悲惨だった。どちらかと言えば兄はその日々を謳歌していた。
上がっていっていた。俺はと言うと暗いトンネルの中を彷徨っているかのようだった。
それがいまは全く逆転し始めているかのようでもあった。それはお互い感じていたと思う。ただ、トンネルを通った身としては、それは長い人生で見れば少しの時間だし、誰にでもある。兄貴の性格ならすぐに抜けられるさとすら思った。
だけど何も出来なかったし言ってあげられなかった。

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素直に話せば、その日以来価値観が変わった。若い頃は人より人生とか哲学とか死生について深く考えて人には考えすぎだし本読み過ぎだし鬱になるぞと言われた。
実際その気もしたけどおかげで生死について、その捉え方について免疫が出来ているとは思っていた。
母の錯乱もそうだった、父の死もそうだった。ただ兄の死は違った。
受け入れられず、この1年は世界が変わった。動揺し続けている。それでも働いて、平静を装って、生きている。
実際にコロナで世界は変わったけど、先に自分は変わってしまった。捉え方が、価値観が。
何を見ても涙が流れそうになる。
死にたくなる時もある、ただ俺は生きてやる、とも思う。
誇張でなしにあなたがいたから俺はここに生きている。
人生について相談したことがある。高校時代、スポーツを辞めて夢のなさに絶望して死にたいと言ったときに原宿でも行こう! と言って駆り出してくれた。街を歩く、服を買う、飯を食う...
帰り、帰って来た所沢駅のホームでホームレスを見て「あの人は今日一日を何もせずにここにいた、そして無駄にした。人はなんでもいいから動けばなにか体験できる。だから動いた方がいいぞ」と言ってくれた。

俺は時にスイッチが切れてしまう癖がある。
だけどこの人生は動き続けて行こうと思う。
ただそのことを教えてくれたあなたには死を選んでほしくなかった。
心も大人になった今だから互いに話せることがあると思うんだ。遅かったけど俺は30歳でやっと大人になれた。もっとこれから話したかった。
互いに子供が出来てさ、正月いつものように親戚集めてワイワイしたかった。
父になったあなたが見たかった。もうあなたは一生歳をとらない。永遠に34歳のまま。
俺はあっという間にその年に近づく。ーー先日32歳になったよ。
俺が50歳になっても70歳になっても、あなたはずっと兄貴のままで、俺が先輩ぶることもない。想像したくないけど、想像するだけで不思議な気分になる。

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ただ、今現時点でいえることは俺は命を繋ぎたくはない。もう結婚も子供も残さずこの生を全うしたい。
新井家はここで終わり。
子供に不幸を伝染させたくはないし、なによりも自分が不安だ。
この不幸は自分だけで十分だ。それに自分は仕事さえあれば案外幸せだし、撮影の仕事で金を稼ぐのが目標であり夢だったから、今は曲がりなりにもその夢が叶っていることになる。それでいいんだ。
この先どうなるかわからないけど、今はそうであることに感謝している。(満足はしていないが)

命日の日にこの文章を一人車内(iPhone)で書いて号泣している。
ただ兄のことを思い続ける1年だった。そして世界の自粛期間も相まってかこの1年間は一瞬で過ぎた。誇張なしに先月のような時間の感覚だ。
戻れるなら戻りたい時もある。今を愛してはいるが、またあなたのいた世界を一緒に生きたいと願う。
ただそれは来世に期待して、二人兄弟の片割れは今生をまだ生きようと今は思っています。

本当に愛してる


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