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バウハウスの変遷とその理念

以前大学で書いたレポートをほぼそのまま載せています
改行なんかは追加しているけど、まあまあ読みづらいかもしれません


本文

人々の生活を大きく変えたバウハウスの理念とは、どのような背景を持ち、何を主張したものだったのか。
初期から中期にかけて起こった、手工業から工場での大量生産に至るまでの変遷を、グロピウスならびにイッテンを中心に概観する中で考察する。

バウハウスは、1919年から1933年にかけて運営され、芸術と工業との融合を目指して絵画・工芸・インテリア・建築などの幅広い分野に影響を与えた造形学校である[1]

第一次世界大戦直後からナチスの政権掌握までの間運営されたこの学校は、ワイマール共和政と時期を同じくしており、第一次世界大戦のもたらした精神的荒廃による近代合理主義への懐疑を思想的背景として成立した[2]
そしてそこでは、1890年代以降のドイツ工業の急速な発展によって人々の生活様式が目まぐるしく変化した[3]ことに加えて、戦争によって近代合理主義という土台が揺らいでいく中、「人間や生活のあるべき姿」という問題に答えを出すことが目指された[4]のである。

初期バウハウスの持つ非合理的で手工業を重視する姿勢にせよ、中期以降の合理的な機械生産にせよ、根底にはこうした問いに発する「全体的な人間の完成」への志向が見られるように思われる。

このうち、初期バウハウスの手工業重視の背景の一つには、モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動があった。
この運動は、技能の機械的な体系化と資本主義の進展によって、「真の労働」による喜びが失われてしまうことを強く危惧したものであった[5]。モリスにとっての真の労働とは、個々人が独自に持つ言葉や文字では説明ができない技能を駆使するような、自由で個性的な熟練労働である[6]
したがってこの労働は、システム化されたり機械化されたりしない人間の身体的熟練を要する他、他者の設計したものをただ機械的に作るのではなく、主体的に考えてこれを手仕事に落とし込んでいくような芸術活動と不可分なのである。

芸術と労働とを同一水準で考え、芸術と人間ならびにその生活全体とを不可分のものとして捉えるバウハウスの精神は、まずここに由来しているといえる[7]

その一方でバウハウスは、第一次世界大戦以前の1890年代からの工業発展、ならびにこれを受けたユーゲントシュティールドイツ工作連盟の流れも汲んでいる[8]
ドイツが指導的工業国家の地位に上り詰めた要因には、アーツ・アンド・クラフツの工房と異なり、90年代以降に現れたドイツの工房が機械による仕上げを取り込んだことがある[9]
そして、「芸術と機械」との和合を求める工作連盟が登場したのも、こうした状況下で、市場におけるドイツの国際的な評価にふさわしい表現が求められた結果であった[10]

工作連盟に参加していたグロピウスにも、技術化によって生産性を増加させるため、機械技術やテイラーの科学的管理法などを積極的に取り入れようとする同様の姿勢が見られる[11]
このことからも、グロピウスのバウハウスには、芸術を重んじつつも後に機械生産へとつながっていくような精神が、当初から備わっていたと考えられる。

しかしそれでは、初期バウハウスの「非合理性」はどのように位置づけられるべきなのか。この点に関してイッテンを中心に考えていきたい。

初期バウハウスの「非合理性」を象徴したイッテンは、その教育体系において調和のとれた人格の形成を目指した人物であった[12]
彼の教育論の出発点は「直観と体系」ないし「主観的体験能力と客観的認識」という対立概念によって説明される[13]。彼が目指したのは、全身全霊をあげて対象となる現実を主観的感覚に従って知覚した上で、コントラストに代表される客観的法則性の観点から究明することなのであった[14]
ここには、まず主観と客観の弁証法が見られる上に、客観の中にある法則性についても「対比」という弁証法が見て取れる。

かくして、イッテンの授業では主観的な訓練と並行して、対比論や形態論、色彩論の教授による素材への感性の訓練が行われたのであった[15]
更に、彼の授業に取り込まれた朝の体操やマズダ求道運動といった要素も、運動や集中の訓練によって、人間が普遍的に持つ色彩、音調、感性、形態の均衡を取り戻すことを目的としたのである[16]

とはいえ、円に「流動的で中心的」、正方形に「静か」、三角形に「斜め」といった性格を付与する[17]など、イッテンの理論には恣意的なところもあったといえる。
そして、こうした恣意性やマズダ求道運動などが、初期バウハウスの神秘的かつ非合理的な性格の一部を形作っていたとも考えられる。

しかしながら、イッテンやその信奉者らの「非合理性」は、必ずしもバウハウスの理念と相容れないものではなかった。
イッテンならびに彼の助手として採用されたグルノウの思考体系は、非合理性から合理性への移行のプロセスの中で新しい形態を見出そうとしたものであり、これが後にグロピウスの新たな建築思想にも強い影響を与えることとなったのである[18]

「建築各部のシンメトリーは・・・新たな均衡理論の前に当然の帰結として消え去ろうとしている。新しい理論は空虚な均衡を、非対称ではあるがリズムのあるバランスへと変えるのである」[19]というグロピウスの言葉にもある通り、イッテンの流れを汲む非合理性を含んだ弁証法の理論は、いわばジョン・ラスキンが主張したような、野蛮さ、すなわち非対称性という不完全さの中にあるより高い自由を体現した建築へとつながっていったように思われる。

このように、ものづくりという点においても、身体・魂・精神の調和のとれた全体的個人の教育[20]という点においても、イッテンの「主観と客観の弁証法」や「非合理性から合理性への移行」という理念は、バウハウスにおいて一定の影響力を保った。
西欧的な近代合理主義とは異なった、ともすれば神秘主義的にも映りうるコスモロジカルな身体知[21]を志向した彼の論理は、全人教育という理想を追求する中で、バウハウスの造形教育過程に一つの「止揚」をもたらしたといえるのではないか。

初期にこうした非合理的な手工業重視の姿勢が見られる一方、中期以降の機械生産への転換が起こった理由としては、先に触れたグロピウスの理念、ならびに資金問題が挙げられる。

まず、戦争直後の貧しいドイツでは経済的理由から手工業の力を自覚することが必要とされたため、バウハウスも当初これに時間を要した[22]
しかし、グロピウスが目指していたバウハウスとは元来、手仕事のみならず機械生産をも取り込んだ協働の場だったのである[23]
それは中世の工房をモデルとしていたにせよ、安価で機能的な「製品」を製作することを目指していた[24]。バウハウスの工房はそのための実験室・研究室であり、そこで生み出された製作品はバウハウスに帰属するものとされたのである[25]

このようにバウハウスは、創設期から一貫して、実験としての手工業の範囲にとどまらず、これを実生活の領域にまで広げるための機械生産も積極的に取り入れる姿勢を持っていたといえる。
以上のように、バウハウスにおける手工業から工業技術への転換の第一の理由として、第一次大戦後のドイツの厳しい経済状況とグロピウスの理念との間の摩擦が、徐々に解消されていったことが挙げられるだろう。

加えてバウハウスの資金問題も、この転換の理由となった[26]
まず、グロピウスはバウハウスを将来的に国家の補助金から独立させるため、工房を教育用から生産もできる形に拡大した。
また、そのための融資を政府から受けるにあたっての政治的・経済的圧力もあった。
加えて、1922年9月以降急激に進行し始めたインフレーションも、バウハウスに経済面重視への方向転換を迫ったのである。

かくしてバウハウスは、グロピウスの理念と、戦後ドイツの経済状況ないしバウハウスの資金問題といった実情とが絡み合う中で、非合理性から合理性ないし手工業から機械生産といった大きな変容を遂げた。

しかし、両者は必ずしも二項対立によって捉えられるものではない
バウハウスの変遷をたどっていくと、そこには「非合理性から生まれる合理性」や「機械生産をも取り込んだ協働の場」といった理想も見て取れるのである。

そして、手工業の場である工房が、芸術と工業との融合を図る「実験室」だったとすれば、工場での大量生産とは、資金繰りという現実的問題に制約された側面もあるにせよ、実験によって有用性が確認された製品を実現するための「生産の場」であった。
この意味でこそバウハウスは、手工業から機械生産までを巻き込む総合芸術を追求した生産事業体であったと捉えられる。

加えてバウハウスは、単に生活の利便性を向上させるのみならず、イッテンの教育理念に見られるように、調和のとれた人格の形成を目指す全人教育の側面も持っている。これはまず、生徒において目指された。
しかし、バウハウスが戦後における西洋の既存の理性のあり方への不信感を背景に成立したことや、グロピウスが機械による大量生産をもその理念の範疇に入れていたことに鑑みれば、この「全人教育」は製品を介して一般大衆にまで押し広げられうるものだったといえるのではないか。

統括するとバウハウスの理念とは、非合理性と合理性ないし手工業と機械生産の弁証法・融合を通じて、教育と生産の両面から、人々が労働や生活、ものに向き合う仕方を変えようとしたものであったと結論づけられる。


脚注

[1] 阿部裕太『バウハウスとはなにか』阿部出版、2018年、18頁。

[2] 阿部前掲書、53-54頁。

[3] マグダレーナ・ドロステ『バウハウス』タッシェン・ジャパン、2002年、11頁。

[4] 阿部上掲書、12-13頁。

[5] 阿部前掲書、58頁。

[6] 阿部前掲書、58頁。

[7] 阿部前掲書、59頁。

[8] ドロステ上掲書、14頁。

[9] ドロステ前掲書、11頁。

[10] ドロステ前掲書、11, 14頁。

[11] 阿部上掲書、90-91頁。

[12] ドロステ上掲書、31頁。

[13] ドロステ前掲書、25頁。

[14] ドロレス・デナーロ著/石川潤編訳「第Ⅰ部──造形芸術への道」ドロレス・デナーロ他著/石川潤他訳『ヨハネス・イッテン 造形芸術への道』京都国立近代美術館、2003年、80頁。もの同士がぶつかり合う関係性を重視するという意味で、「コントラスト」はまさに弁証法であるといえるのではないか。

[15] ドロステ上掲書、28頁。

[16] ドロステ前掲書、32-33頁。ここからは、イッテンが「身体性」を重視していたことが読み取れる。彼のいう「全人教育」や「調和のとれた人格」は、身体と切り離してはあり得なかったといえよう。

[17] ドロステ前掲書、28頁。

[18] ドロステ前掲書、33-34頁。

[19] ドロステ前掲書、34頁。 

[20] デナーロ上掲論文、21頁。

[21] 向井周太郎「生命の根源へ─「ヨハネス・イッテン 造形芸術への道」展に寄せて」ドロレス・デナーロ他著/石川潤他訳『ヨハネス・イッテン 造形芸術への道』京都国立近代美術館、2003年、15頁。

[22] ドロステ上掲書、58頁。

[23] グロピウスが「工業・手工業・工芸のための芸術指導機関として教育機関を創設する勧告」の中でこのような主張を行ったのは、バウハウス設立以前の1916年のことであった。阿部上掲書、96頁。

[24] 阿部前掲書、101頁。

[25] 「ここに、バウハウスの生産事業体としての性格が見て取れる」といわれる。阿部前掲書、101, 105頁。

[26] ドロステ上掲書、58頁。


参考文献

  • 阿部裕太『バウハウスとはなにか』阿部出版、2018年。

  • 向井周太郎「生命の根源へ─「ヨハネス・イッテン 造形芸術への道」展に寄せて」ドロレス・デナーロ他著/石川潤他訳『ヨハネス・イッテン 造形芸術への道』京都国立近代美術館、2003年。

  • ドロレス・デナーロ著/石川潤編訳「第Ⅰ部──造形芸術への道」ドロレス・デナーロ他著/石川潤他訳『ヨハネス・イッテン 造形芸術への道』京都国立近代美術館、2003年。

  • マグダレーナ・ドロステ『バウハウス』タッシェン・ジャパン、2002年。

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