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幼児性の迷宮

何者も逃れられないのかもしれない


最近、精神的な幼児性ということについて考える。
幼児性というのは要するに「自分さえよければいいと考え、己の選択だけを愛する閉じたエゴイズム」のことだろう。

では、これと反対の精神性は何なのかといえば「自分で選んだわけではない人・集団のために献身し、責任を引き受けようとする覚悟」だと思う。
例えば、私たちは自分が生まれてくる家族を選べないし、国や地域を選べない。更にいえば、自分自身に備わっている性質や資質も選ぶことができないだろう。
だから、こうした「運命」的なものに、抗うことなく、しかし完全に盲目にもならず献身する者のことを、人は「強い人」だとか「大人」だとかいうのだろう。

……果たして本当にそうか?

彼らが「自分で選んだわけではないもの」に献身するのだとしても、献身が行われた理由があるはずなのだ。
ではその理由とは何か? それは自分が・・・そこに生まれついたという運命」だろう。

自分がその家族のもとに生まれた。自分がその国に生まれた。自分がその性別に、その人種に、その階級に、その属性に生まれた。
だから献身するのだ、「自分が生まれていない共同体」ではなく「自分が生まれた共同体」に、「自分がそれであるところのもの」としての責任を引っ提げて。

結局、この「献身」というのは、自分との関わりから生じてくるわけだ。
完全に自由な選択の結果ではないにせよ、それが他ならぬ自分の一部を分け持っているからこそ献身するのである。

というか、「選んだわけではないが自分の一部を持つ共同体」でも「自分が選んだ共同体」でもないものに献身するのは不可能だろう。論理的に。
自己との関わりがないものは知りえないわけだしな。認識した時点で自分との関わりが生じているんだ。

つまるところ、自分とは完全に無関係のものに献身できる人間は存在しない。
「運命を引き受ける」という英雄性ないし処女性にあっても、人は運命の中に自分の一部を見出す。
これはやっぱり、「幼児性のかけら」なのではないか? 他者への献身という強さの根幹にも、自分というものが紛れ込まざるをえないじゃないか。自分というものなくして、他者への責任なる概念を正当化することはできないじゃないか。

他者だけを志向する純然たる献身は存在しない。そんなもん人間にはできない。
「目の前のかわいそうな人」を見ることなしに、その人に手を差し伸べることができるのか、って話である。無理だろ。

長くなったが要するに、いわゆる「大人」の強さの中にも、一抹の自己・幼児性・エゴイズムが混じらざるをえないんじゃねーの、ということである。

最も分かりやすい例は(排外的な)ナショナリズムだろう。
あれは「自分の生まれた国」であるがゆえに愛するという、幼稚なナルシシズムを潜ませている。

だからといって「大人」を批判したいわけでもない。
だって、幼児性が紛れ込むのは必然的で仕方のないことなんだもん。しょーがねーだろー、人間なんだから。
認識することなしに手を差し伸べられないのは人間の悲しき性だが、まあいうて手を差し伸べないよりはマシだろう。次善策次善策。

優しさの根幹にわずかばかりのエゴイズムが混ざっていると知り、そのことを絶えず反省しながら、なお優しくあろうとする「強い人」を私は応援します。大好きです。
逆にそこの自覚がない人は嫌いなんです。己の根源的幼児性を自覚せずえらそ〜に「大人になれ」とかなんとか言っているやつよりは、クソガキの方がまだマシだね!!

言うまでもなく「自分が生まれていない共同体」に献身することを「選んだ」場合、それはその人の自由な選択の結果である。
そしてもちろん、自由な選択とは自己に属するものだ。

蛇足

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