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パノラマの境界

このパノラマの世界の端っこで、自分は、なんとか、生きている。


 高校卒業後無為な日々をおくっていた雄二は、高知の実家を出て東京へ向かう。雄二はビルの窓ガラス清掃の仕事を始めるが、ある日偶然同郷の女子、美咲に出会う。明るく素直な美咲に人と関わりたくない雄二は戸惑う。しかし実は美咲は心の奥に深い傷を抱えていた・・・。都会が広がるパノラマの景色の中、ひしめく人混みに紛れた孤独な二人は、悩み、踠きながら、人と、そして自分と向き合うことの大切さを知っていく。


      1

 雄二が目を開けると、そこには青一色の八月の空が広がっていた。そのままゆっくり顔を横に向けていく。青い空の端に強い陽の光が入り、目を閉じる。瞼の裏にその光が滲んだ。雄二は思った。晴れた空は、どうしてこうも青いのか。しかし雄二はすぐに思い直した。空が青い理由を知って、それでどうなる。どうせ分かったような顔をする自分がいるだけだ。ものごとをへたに考えるとろくなことがない。晴れた空は青い、ただそれだけのことでいい。
 草の上で寝ていた雄二は身体を起こした。向こうには見渡す限りの海、太平洋があった。そこは遮るものが何もない海岸際の高台だった。そこから見る百八十度のパノラマの景色は、遥か向こうの水平線を直線ではなくほんの少し丸くなっているように見せていた。雄二は吹き出た額の汗を手で拭い、ポケットから携帯を取り出した。時刻は15:25を表示していたが、何の用事があるわけでもなく今が別に何時でも構わなかった。雄二は立ち上がって脱げていた左足のサンダルを履き直し、道端に置いてあった自転車に跨った。そして海の方を振り返り、また青い空を見上げる。眩し過ぎる太陽から顔をそむけると一瞬目の前が暗くなった。もううんざりだ。そう思いながら雄二は前を向き、自転車のペダルを踏んだ。

 畑の中の舗装された一本の道路を、雄二が自転車をジグザグに漕いでいく。四国高知の、車がほとんど通らない田舎の道をどうやって走ろうが誰も文句を言う奴はいない。雄二が蛇行運転を続けていると、久々に道路の向こうの方から車の音が聞こえてきた。やって来たのは軽トラックで、近所の塚本の親父が乗っていた。
「こらあ雄二、何しよりゃー!家の仕事手伝いやー!」
塚本の親父は窓から顔を出して、雄二に向かってきつい言葉を浴びせてきた。雄二は何も聞こえないふりを決め込んで自転車を漕いだ。
 しばらく行くと道端で近所の田中と飯田のおばさんが畑仕事の合間なのか立ち話をしていた。二人は雄二に気づき声をかけた。
「雄ちゃん、婆さんの具合どうなが?」
「おまん、心配かけちゃいかんちゃ」
雄二は自転車のスピードを上げ二人を無視して通り過ぎた。後ろでまだ二人が何か言っている。まったく、田舎の連中はどうしてこう人のことをかまうのか。いい加減にほっといてくれと雄二は心の中で文句を吐き出しながら首筋に流れ落ちる汗を拭った。

 雄二は自転車を玄関の前に置き家に上がった。そして台所に行き冷蔵庫を開け麦茶をコップに注いでごくごく飲んだ。雄二のばたばたと出す足音に、奥の部屋で床について寝ていた祖母の治子が目を開いた。雄二は父徹の仏壇のある部屋の前を通り縁側へ出た。猫が雄二に寄ってきた。雄二は猫の頭を撫でながら、俺もな、おまんみたいに誰のゆうことも聞かぇうてもよおなる、と心の中でつぶやいた。
 庭先に軽トラックが止まった。運転席から雄二の兄武が縁側の雄二を見るなり大声で叫んだ。
「おら、下ろしちょき!」
武の妻加代子が助手席から降りて、武を制するように言った。
「なんちゃーがやない、雄ちゃん。あしで間に合うから」
加代子は荷台にまわり一杯に積まれた茄子や生姜の段ボールに手をかけた。武はドアを開けながらまだ縁側に座っている雄二を睨みつけて言った。
「おんしな、働きな生きてちゃいかんがだ、いい歳しちゅうに!」
母の妙子が納屋から出てきて軽トラックの荷台に向かいながら雄二に言った。
「雄二!梱包手伝いやー!」
雄二は返事もせずに立ち上がり縁側を離れた。

 夜、武が居間で缶ビールを飲みながらテレビを見ていたところに、加代子が口元を手で押さえて入ってきた。
「おまさん、雄ちゃんが・・・」
加代子の声に台所にいた妙子が振り返った。武の顔が気色ばんだ。
「雄二が、出てった?あいつ、何考えちゅう・・・!」
加代子の携帯には、家を出る、という雄二からのメールが入っていた。
武がビールを一気に飲み干し、缶を握り潰した。妙子は台所の流しに目を落としため息をついた。奥の部屋の床で治子が目を瞑った。


 バスの黒い窓ガラスには雄二の横顔が映っていた。今から三時間前の二十時二十分にはりまや橋で雄二が乗り込んだ高速バスは、一路東京に向けて道路灯の下を夜通し走り続けていた。バスの乗客は全部で六人、皆それぞれが間隔を十分に取って座っていた。雄二はペットボトルのコーラを一口飲んで横のリュックの上に置き、Gパンのポケットから携帯を取り出した。そしてキーを押し電話帳を開いた雄二は、そこにある人の名前と電話番号を一つひとつ消去していった。あ行、か行、さ行・・・わ行。登録数が多いわけでもなく、消去をためらうような番号もなかったので全部消し終わるのにそう時間はかからなかった。作業も終わって電源を切りやることがなくなった雄二は、窓ガラスに映っている自分の顔を見た。そして顔の向こうの窓外に目を凝らしたが、そこには真っ暗な夜の闇があるだけだった。雄二は眠くもないのにただ目を閉じるしかなかった。



      2

 高速バスが新宿に到着した。雄二がバスを降りると、周りには見上げて首が痛くなるような高層ビルが何本もそびえ立っていた。歩き出した五人の乗客の後に雄二はついていく。朝もまだ早いせいか、道路を走る車や歩く人はそう多くない。ビルの間を歩いていった先、雄二の視界一杯にあらわれたのは、横に長々と連なるまるでダムのようなビルだった。
雄二はそのビル群の下のガードレールに腰掛け、リュックに入れてきたパンを齧りながら辺りを眺めた。空からの日差しは強さを増しながら気温をどんどん上げていく。東京も高知と変わらない今が夏の盛りだった。お盆休みが明けた新宿は、時間が経つにつれ行き交う人々の流れはものすごい雑踏となり、車はみるみる広い道路を埋め尽くした。しばらくして雄二は左の方へ歩き出し、緩やかな坂を下りていった。その先は一段と幅広い道路でものすごい数の車が連なって走っていた。左を見ると道路の向こうにはバスから見上げた高層ビルが何本も立っている。右を見ると道路の上に巨大なガードが横たわっていて、その下を車が次々と群れをなしてくぐり抜ける。それと交差するように大ガードの上を電車が走っていく。雄二はこのガードの向こうへ行こうと思い、車と電車の騒音が反響するガード下の歩道をくぐり抜けた。その先にはまたさらに、人と車、広告看板とビルだらけの大都会の光景が広がっていた。
 信号が変わり交差点を一斉に歩き出す人混みの中、リュックを背負った雄二は押し流されるように歩いた。雄二は交差点を渡り終えて立ち止まり、振り返って周りを見ようとした。しかしその目の先は、全ての空間を塞ぐようにして建つビル群と無数の広告看板、信号が変り一斉につながった数珠のようにして動き出す車の流れ、そして次の信号変わりを待って溜まり出す人混みで埋め尽くされた。ここでいったい何を見ればいいのか、何に目を留めればいいのか、雄二にはまったく分からなかった。

 雄二は吹き出る汗を拭いながら駅周辺の通りをただ歩いた。昼頃には高知にもある見知ったファストフード店でハンバーガーを食べた。そしてまた街頭を歩き続け、時々ビルに入った。飲食店、ファッション店、本屋。どこもかしこも物の数がすごい。歩き疲れた雄二は通りのガードレールに腰掛けたりして時間を過ごした。また歩き出すとすぐに汗が吹き出る。今度は大きなデパートに入り冷房で涼みながらすべての階を順番に回る。食器、家具、宝石など雄二が見たこともない物が溢れているが、目を留めてまともに見てみようと思ったものは何一つなかった。
 やがて日は落ち夜になった。じっとりとした湿気を帯びた暑さの中、街にあふれ出した人の流れはゆっくりとうねるようなものになった。雄二は駅と反対方向へ移動する流れに身をまかせた。大きな車道の向こうへ渡る横断歩道の先には、“歌舞伎町さくら通り”というアーチが掲げられていた。聞いたことがあるだけの、日本一有名な歓楽街がこの先にある。そう思った雄二はアーチの中に足を踏み入れた。全員白シャツにショルダーバックを下げ大声で話しながら歩くサラリーマンの一行。大きなリュックを背負った若い外人のグループ。スマホを見せ合い笑いながら歩くミニスカートの若い女の子たち。昼間の通りを行く人々とはまた表情が違う様々な人々が歩く歌舞伎町を、雄二はただ足にまかせて歩いていった。
 夕食もファストフード店でハンバーガーを食べコーラを飲んだ雄二は、店の窓越しに通りを行く人々をずっと眺めていた。夜も十一時を過ぎるとまた違った感じの人々が行き交うようになった。メイド風コスプレファッションで髪が緑色とピンクの二人の女の子。白いスーツにサングラス、丸刈り頭の恐そうな男。ドレスにハイヒール、バッグまですべてが真っ赤な髪の長い女・・・。雄二はやっと腰を上げ、夜中の歌舞伎町をまた見て歩こうと店を出た。
 辺りを見ながら歩く雄二に、茶髪で黒シャツの男が駆け寄り雄二の顔をのぞき話しかけてきた。
「いかがですか、かわいい子いますよ」
雄二は何も言わずちょっと頭を下げ歩いた。男は雄二の横を一緒に歩きながら話す。
「安くしておきますよ。せっかく歌舞伎町に来たんですから、ちょっと寄ってみて!」
男を振り切るように雄二は歩く速度を上げた。
「また、よろしくおねがいしまーす!」
男は客引きをあきらめ、明るい声で雄二の背中を見送った。雄二はまた声をかけられないよう下を向き、少し早足で夜中の歌舞伎町の通りを歩いていった。


 朝、雄二はベンチで目を覚ました。枕にしたリュックを抱えながら身体を起すが、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。周りを見るとここは狭い公園で、子ども用の遊具が二、三置かれていた。雄二の頭がやっと働いた。東京初日、雄二は夜の歌舞伎町をぐるぐる歩き回るだけで泊まるところも決めず、結局この公園で野宿してしまった。向かいのベンチにはスーツ姿の男がバッグを抱いて寝ている。横のベンチを見ると、白いあご髭を生やした爺さんが座ってタバコをふかしている。じいさんは雄二に気づき、手にしていたもう一本のタバコを、よく見るとそれは吸殻だったが、差し出す仕草をした。爺さんに軽く会釈してその吸殻をいただくことを遠慮した雄二は、ベンチから立ち上がり水飲み場で水をいっぱい飲んだ。そして顔を洗い身体を拭いて、公園を後にした。
 雄二は、昨日の夜と同じところとは思えない静まりかえった朝の歌舞伎町の中を歩いた。そして朝飯を食べようとまたファストフード店に入ろうかと思ったが、さすがに昨日続けて食べたので何か違うものにすることににした。入ったのは牛丼屋で、朝定食を食べてお茶を二杯飲んでから店を出た。外はもう暑くなり始めている。今日も真夏の東京を体全身で感じることになりそうだと思いながら、雄二は辺りを見渡した。そして昨日とは反対の方へ行ってみることにした。それがどこへ向かうことなのか雄二にはまったく見当もつかず、ただ昨日とは違うところへ、まだ見たことのないところへと、足を向けるだけのことだった。


 歩き続けた雄二は、新大久保駅の前に立っていた。東京にもこんな小さな駅があるのかと驚き、路線の表を見上げるとこの駅は山手線の新宿の次の駅であることが分かってまた驚いた。駅名に新が付くのにその感じがまったくない。駅前といえる広場はなくただの高架線路下と言う感じで、その駅前を左右に走る車の通り沿いには様々な店が立ち並んでいた。少し歩いてみると、窓にたくさん貼り紙をしている一軒の店が雄二の目にとまった。看板には一栄不動産とあった。雄二は貼り紙の賃貸物件を見た。二十五万、二十万、十八万・・・。この数字は何だ、と雄二は驚いた。目を見開きながら一番低い数字を探したが、それでも六万だった。雄二はリュックから郵便貯金通帳を取り出し、そこにある数字を見た。家賃六万だと、礼金二か月敷金一か月に最初の家賃一か月分で用意しなければいけない金は、二十四万円。通帳には二十万しかなかった。雄二は思い切りため息をついた。
そこに白い乗用車が停まり、グレーのスーツ姿の男が降りてきて不動産屋のドアに手を掛けた。そして中に入ろうとした時、男は物件を見ていた雄二に声をかけた。
「部屋を、お探しですか?」

 冷房の効いた狭い店内の応接テーブルの上には、一栄不動産部長、近藤浩という名刺が置かれ、雄二はうつむいてソファに座っていた。分厚い物件資料のバインダーを閉じながら近藤が言った。
「うーん、しょうがない。あれだな」
雄二は近藤と目を合わせないように顔を少しだけ上げた。近藤が赤い縁の眼鏡を指で押し上げ、雄二を見て話し出した。
「もうすぐ立ち退き取り壊しっていうのがあります。築四十年のアパートでね。でも工事始まるのが半年先だから、まずそこにいたらどうですか。家賃は月三万。礼金はなし、これならいいでしょう。まずは寝るところだけでも確保しないと。それで仕事、みつけなくちゃね」
雄二は三万という家賃と礼金なしという言葉を聞いて、塞がっていた胸が開きやっと息をつける感じがした。そして、すいません、という言葉がなんとか口から出た。近藤が物件資料のバインダーを自分のデスクに乗せながら言った。
「いや、こっちもそこに人が住んでてもらわなくちゃいけないこともあってね。逆にありがたいんですよ。でもね、四畳半一間で台所もトイレも共同で、なんといっても築年数、古いからからそのつもりで。じゃ、さっそく内見に行きますか」
東京で人と初めて話をして、物事が何とか動き始めていることが不思議だと思いながら、雄二はとにかく頭を下げた。

 戸を開けて近藤が部屋へ入った。後に続いて雄二が入る。そこは真っ暗で、黴か何かの独特な臭いがした。近藤がガラス戸と雨戸をがたがたと開けた。部屋は明るくなったが窓の外はすぐ隣の建物の壁だった。
「東京ってね、表向きすごく派手できらびやかだけど、裏に回るとね、こういうところなんですよ。みんなひしめき合って生きていてね。そこから這い上がれるかどうかは、何といってもまず頑張ること。でもそれだけじゃだめ。運!運をね、こう引き寄せないと・・・」
 近藤が喋り出した時、着信音が鳴った。近藤は気勢をそがれた感じでふうと一息ついて、スーツの内ポケットからスマホを取り出し耳にあてた。そのスマホも眼鏡と同じ赤だった。近藤の表情が営業モードに切り替わった。
「お世話になります!今ちょっと新しい物件をお客様に。ええ、ここもまた見晴らしがいい物件で・・・」
 近藤が話しながら雄二に目配せをして部屋を出た。雄二は廊下へ出て共同の台所へ行き水道をひねってみた。水が勢いよく出て、白っぽくなったステンレスにぶつかり大きな音を立ててはねた。奥のトイレを見てみる。右に小便器が三つ並び、左の二つある戸。その一つを開けると思ったとおり和式の便器があった。用を足し部屋に戻り、部屋の真ん中に座っていると、近藤が戻ってきた。
「ああ、いいかな、もう。じゃ、事務所に戻って契約を。ここの名前、かざみ荘ね。部屋は202号室」
 冷房の効き過ぎた近藤の車で事務所に戻る道すがら、雄二は後ろの席から辺りの様子を見た。立ち並ぶ店は独特の雰囲気でどこか日本ではないような感じがした。よく見ると看板も韓国語、ハングルというのか記号のような文字が多い。
「ああ、この辺は多いですよ、店も人もほとんど韓国、コリアンね。他にはベトナムとか中近東の人がいます。みんな日本でなんとかしようって思って来るんですけどね、なかなかそうはいかないんだ。一時期すごかった韓国ブームも去っちゃって、みんな大変。おかげでこっちも大変なところがあるんですけどね。君は日本人で若いんだから、努力しないと、いかんぜよ!ってそちらの土佐弁ですよね?そうしてこれから青春を謳歌しないと。後は運でね、お願いしますよ!あ、そこにコンビニあるから後でバイト雑誌買っていった方がいい」
 雄二はルームミラーに映る近藤に頭を下げた。しかし雄二は自分に運などあるとは思えず、近藤のいい調子には乗れなかった。




      3

 雄二はリュック以外何もない自分の部屋から、近藤に言われて買ったアルバイト情報誌を持って外へ出た。そしてまたコンビニに寄りコーラと履歴書を買い、近くの公園へ行った。そこで雄二はベンチに座り、早速バイト情報誌の上に履歴書を乗せて書き始めた。名前、年齢、住所・・・。雄二は財布の中の紙を取り出し、そこにメモしたかざみ荘の住所を書き写した。携帯番号、そして学歴。小学校、中学校、高校卒業の次の行に何と書こうかと雄二は悩んだ。実家の仕事、農業の手伝い。いや、適当にアルバイトとしておいた方が無難だろうかなどと思っていたら、高校卒業の後に“現在に至る”と書いてしまっていることに気づき、ため息をつきながらその履歴書を破った。十八歳で高校を卒業して二十二歳まで何をしていましたか?面接の人にそう聞かれるに決まっている。だが自分は高校を卒業した後、本当に何もしていない。
ふと横を見ると、隣のベンチに変な顔をした小さな犬を抱いた女が座った。茶色い髪をアップにしてくすんだピンク色のジャージを着ていた。女が雄二の視線に気づいた。
「何よ」
雄二はあわてて視線をそらした。女に抱かれた変な顔をした小さな犬が雄二を見て、ハアハアと舌を出しながらしきりに女の腕から出たがる素振りを見せた。その女は飼い犬の様子に、なあにマルちゃん、あのお兄さんがいいの?と聞きながら立ち上がり、雄二の横に来ていきなり座った。

「そう、高知なの?出てきたばっかり?あたしもね、香川の丸亀!そうだ、えーと何ちゃんだっけ、志保のお願いちょっと頼まれてくれない?同じ四国っていうことで!今夜だけでいいからこの犬の面倒見てほしいの。この間街歩いてたらペットショップでこの子みかけてひとめぼれしちゃって!だけど、あたし夜働いててさ、いつも預かってくれる子が今夜だけだめなの。で、どうしようかと思ってて。この子、マルちゃんていいます。お礼はちゃんとするから、お願い!はい、マルちゃんでーす!」
香川丸亀の川上志保と名乗った若い女は、雄二にマルちゃんを押し付けてきた。マルチーズだから名前はマルちゃん、と志保は言った。マルちゃんは雄二の顔をしきりになめようとする。志保は、マルちゃんよかったねーと言いながら、もうお願いが通ったものと勝手に決め付けていた。


 歌舞伎町のある雑居ビルの5F、ピンクサロン店“ハニーハニー”のとても狭い待合で、雄二はバイト情報誌を見ていた。ページをめくっていて目にとまったのはビル清掃の仕事で、中でも窓ガラス清掃は特に優遇とあった。会社の名前は、株式会社東京クリーンシステム。雄二はそのページの端を折った。
その時、色とりどりの大きなビーズがいっぱい吊る下がった暖簾のようなものをくぐって、マルちゃんを抱いた志保が出てきた。公園で会った時とは見違えるような派手な目の化粧と、丈の極端に短いピンクのガウンを羽織った志保を前にした雄二は、見てはいけないものを見てしまったように目をそらした。
「高見ちゃん、お待たせ。よろしくね。バイバーイでちゅよ、マルちゃん、いい子にしててねー」
マルちゃんを撫でながら雄二に預けようとして志保が豊かな胸を押し付けてきた。雄二はあわててマルちゃんを抱いて店を出ようとすると、ドアが開き背の小さな男が入ってきた。
「おお、なんだワンちゃんか。お出迎えありがとー!・・・どうも!これから?もうお済で?いや失礼失礼!」
その男はマルちゃんに気づき、ろれつの回っていない明るいあいさつをマルちゃんと雄二に向かってした。雄二はマルちゃんを抱きなおし、酔っ払いの小さな男に軽く会釈をして“ハニーハニー”の待合を出た。


 更衣室はこれから仕事に出るために作業着に着替えている男たちでざわついていた。そこにドアが開き入ってきたのは部長の武田だった。その武田の後ろに続いて雄二が入った。武田が太い声で男たちに静粛を促す。
「みんな、聞いて!今日から働いてもらうアルバイトの高見君。四国の高知から出てきたばかりだ。みんなで面倒みてやって」
雄二の肩を叩きながらみんなを見る武田だったが、武田を見るものは誰もいなかった。
「よろしく、お願いします」
雄二は聞き取れないような小さな声で挨拶をした。
「じゃあ田川、ローテーション頼むよ。高見君、現場の事は田川の言うこと聞いて」
武田が頼んだ背の小さな男、田川を見て、雄二は三日前の歌舞伎町のピンサロ店でこの男に会ったことに気づいた。
「よろしく!あれ、どこかで会ったっけ・・・?」
田川は雄二を見て、どこで会ったかをすぐに思い出したのか、はっとしてすぐにバツが悪そうに目をそらした。雄二を見ていきなり怒鳴り始めたのは、社員の菊池だった。
「そういうことか。まじめに働いてきた社員をクビにして、バイトでまかなうってことだな。汚い会社だぜ、東京クリーンシステム!どこがクリーンだ、名前からしてまったくおかしい!」
田川が菊池を制するように言う。
「やめろよ、菊池。こいつのせいじゃないだろう、ただバイトで入ってきただけなんだから。えーと、藤原さん、高見に仕事教えてやってくれませんか」
田川の声に振り向かずに返答する男がいた。
「できない」
田川が下手に出た。
「そんな、藤原さん、お願いしますよ」
「教える立場にない」
「いいんですよ、藤原さん、仕事見せてくれれば。後は高見がそれ見て覚えればいいんだから。な、高見」
田川が雄二に向かって言っている間に、藤原は外へ出て行った。
「あれ、行っちゃったよ。ほら高見、藤原さんについていけ!」
田川に背中を押され、雄二は急いで藤原の後を追っていった。

三十分後、太陽が照りつける十階建てのビルの屋上に雄二は上がっていた。十階は相当な高さなのにそこから見える景色はすべてビルで埋め尽くされていて、その下を無数の車がぞろぞろと行き交っていた。藤原は何も言わず窓ガラス清掃の仕事のセッティングをする。雄二は緊張で顔を流れる汗を拭うこともできず、ただそばに立ち作業を見ているだけだった。藤原はしっかりと固定したロープを伝い、屋上から姿を消した。雄二が恐る恐る身体を乗り出して下を見た。そこにはロープを通した座板に腰掛けた藤原が、窓ガラスをワイパーで清掃し始める姿があった。
昼近く、先に一仕事終えて車に戻っていた菊池が、中から大声で園部に言う。
「こら園部! 新人と昼の買出ししてこい!」
園部は細い眉毛を吊り上げ、雄二を見てあごを動かし、いくぞという仕草をした。園部は近くのコンビニでみんなの弁当と飲み物を買い、いっぱいになった二つのレジ袋を雄二に持つように言った。
園部は自分の缶コーラだけ手にして、ぐいと飲んでから雄二に言う。
「おい、高見。ここ、けっこう先輩後輩きびしいから、ちゃんとな。って、田舎からでてきたばっかりじゃわかんねえか」
園部は雄二から袋を取り上げ、後部座席の菊池に弁当を渡し、自分の弁当を持って助手席に座った。雄二は駐車場の隅に座って弁当を食べた。辺りを見回したが藤原の姿はなかった。


 働き始めて三日目、藤原は現場で洗剤の混ぜ方、ワイパーの使い方、ロープの扱いなどやってみせる。雄二は藤原の動作をくいいるように見た。そして見よう見まねでやってみる雄二。仕事を覚えようと必死の雄二は、藤原が仕事をするビルの屋上で、ただひたすらロープを扱う練習をくり返した。
その日、雄二は藤原のサポートで、初めてロープにセットした座板に跨がり五階建てのビルの壁面を伝って降りた。もちろん、それはただビルの屋上から地上まで降りるだけのことだったが、雄二にとっては胸の鼓動が高鳴り足が震える初めての体験だった。地上に降り立つことができた雄二は、藤原に何か感想を聞かれると思っていたが、藤原は何も言わずに道具を片付け、帰り支度をするだけだった。


 二週間後、雄二は会社で武田部長に呼ばれ事務室にいた。
「はい、高見、半月分のバイト代。入る時言ったけど、来月から銀行振り込みにするから、口座作って。どう、仕事だいぶ覚えた?」
「いや、すいませんまだ・・・」
武田から給料袋を受け取りながら、雄二はほとんど消え入るような小さな声で答えた。武田は雄二の言っていることが聞こえなくてもかまわず言葉を続けた。
「そう、早く慣れて、技術を身につけないと。自分から教わる姿勢みんなに見せてな。そしたら教えてくれるから」
雄二が事務室から廊下へ出てきたところを、田川が呼び止めた。
「高見、バイト代出たよな。今夜はみんなで飲み会だから」
「いや、俺は・・・」
「だーめ、出るんだよ、これは掟なの。会費二千五百円徴収します。バイトの奴のは、ちゃんと考えて安くしてやってんだぜ」
横を通った菊池が口を出す。
「田川さん、何か言ってるんですか、何も出来ないヤツが金もらっといて」
田川が首を横に振り菊池をやり過ごしながら、下の方で小さな手のひらを動かした。雄二は田川に聞こえないように小さなため息をついた。


 居酒屋の奥座敷で、ビールやチューハイのジョッキを手にした先輩たちの中に雄二は座っていた。そこに藤原の姿はなかった。雄二の小さなジョッキのビールはほとんど減っていなかった。会の初めからただ黙って座っている雄二に、バイト初日に文句を言った社員の菊池が目を向けた。
「おい高見、さっきからずっと黙ってるなあ。なんとか言ったらどうだ!」
雄二は目を落とし、小さな声で、いえ、と言った。酒がだいぶ入って酔い始めた菊池は、雄二にからんできた。
「てめえ、藤原にくっついてなんにも仕事しねえでいるってなあ。そんなことでいいのかよ。名前が高見だから、高見の見物か?」
アルバイトの園部がすかさず菊池をよいしょする。
「うまいねえ。菊池さん!」
「やめろよ、菊池」
田川が菊池を制した。しかし菊池はさらに荒げた言葉を雄二にぶつけた。
「高見、てめえ口がきけねえのか?いつも黙ってやがって。土佐の龍馬気取りで俺たちを馬鹿にしてんのか?お前のせいでな、社員が一人首になってんだよ、なんとか言え!」
「やめろって!」
菊池は膝立ちになり、制する田川を越えてその隣に座る雄二に掴みかかった。雄二は菊池に胸ぐらをつかまれた。田川が間に挟まれながら菊池を抑えようとした。周りのみんなはジョッキ片手に、まあまあ菊池さん、とただ言うだけだった。雄二は抵抗も何もせず、ただ黙り続けていた。



 一週間後、雄二は都心の十五階のビルの屋上にいた。空は晴れ上がり日差しは強いが、結構風が吹いている。この高さになると見渡す都会の景色は次元が違った。遥か向こうに富士山が見える。反対側には東京タワー、その向こうにスカイツリーが見えた。下を見ると地上は本当に遙か下にあって、車も人もミニチュアのように小さく見えた。
雄二は初めて清掃用ゴンドラに乗った。高さは相当だがロープ一本で座板に座っての作業よりも周りが囲われ安心感があっていいと感じていた。横では藤原が窓をワイパーで拭いていた。藤原に促され雄二も練習したワイパー使いを、大きな窓面に向かって実践した。
五階分の窓ガラスを清掃し終えた時、一息つきながら雄二はふと窓ガラスの内側に目がいった。そこには、窓を背にしてデスクに座っている男に、なにやら紙の資料を見せ説明している青いシャツの女がいた。男が女の話を手で止めるしぐさをして電話に出た。男の電話が終わるのを待つ間、女は腕組をして窓外に顔を向け、ゴンドラの中にいる雄二を見た。雄二はあわてて作業を再開した。女は雄二のワイパーの動きを目で追った。そしてその目が雄二の顔に来ると、視線はそこでぴたりと留まったまま動かなくなった。

 ビジネス街のカフェは、シャツにスラックス姿のビジネスマンの客がほとんどだった。そこに上下作業服姿のガテン系青年がいるのは違和感があった。雄二はフタに差し込んだストローでアイスコーヒーを啜った。雄二の向かいに座っているのは、胸元にIDカードを下げた青いシャツに白いスカートのキャリアウーマン、西野亜子だった。亜子は、自分のコーヒーに口もつけず、ずっと喋り続けていた。
「ほんと、びっくりした。窓外見たらガラス拭いている人がいて、よくよく見たらどっかで見たことある顔か?って思って。いったいこの窓拭いてる人と、わたしの記憶にある誰かとどうして頭の中で重なろうとしているのか、全然わからなかった。そしたらパッっと、窓ガラスの向こうの人の学生服姿が頭に浮かんだの。そうだ、高見君?高校で同じクラスだった、高見君?これはすごいことだ、すごすぎるよ、高知で一緒だった高見君が今、私のいるビルの、窓の外にいるなんて!こんなことって、ある・・・?で、東京で何やってんの?」
雄二がそっけなく答えた。
「窓ガラス、拭いちゅう」
亜子は椅子の背もたれに思い切りのけぞった。
「そんなのさっき見たから分かります!そうじゃなくって、なんで東京に出てきて、窓ガラス拭いちゅうか、っていうことよ」
「なんで・・・」
「だって高見君、高校出ても高知にいたんでしょ。それが今ここにいるってことは何かあってのことじゃない。東京へ出て来たモチベーションってのがあるでしょ。私はね、英語やりたくて東京の大学に入ったの。英語使えるようになって、海外で働きたかったの。そしていろんな人に会ってね・・・」
亜子の話は続いたが、雄二にはその話の中身より、昼休みの残り時間が気になっていた。
「・・・ってところかな。で、高見君は?」
西野の問いかけに、雄二は言葉を返した。
「行かぇいと、えずい」
「そっか、じゃ今度食事しようよ、同窓会ってことで。そっちの携帯番号教えて。ま、二人だけじゃ何なんで、もう一人呼ぶわ。これがね、またすごい偶然なんだけど、街を歩いてたらバッタリ高校の後輩に会っちゃって!村井美咲っていうんだけど。これも何か神の思し召しかもしれないから、呼ぶわ」
亜子がスマホに雄二の携帯番号を登録していると、着信音がなった。
「おっと仕事だ!じゃ連絡入れるから!」
亜子は次また会うことを一方的に決め、白いスカートから出た細くてきれいな足を大きく踏み出してすたすたとカフェを出ていった。亜子の後ろ姿を見ながら、行かないとまずいと先に言ったのはこっちだろう、と雄二は思った。



      4

 九月半ば、ピークは過ぎたが東京はまだまだ暑かった。その日の仕事は横幅のある八階建てビルの窓ガラス清掃で、藤原と雄二、菊池と園部の二組のロープワークで行うことになっていた。四人はビルの屋上で準備作業を進めた。ロープのセットは藤原と菊池、それぞれの自分の組で行うことになっていた。菊池がセットに入ると携帯が鳴ったので後を園部に任せた。園部は雄二にこっちを手伝えと声をかけた。園部がロープを所定の場所に結わいて、雄二は先端の座板を置いてロープを手繰り寄せた。園部はセットが済んだから乗って降りろと雄二に命令した。その時、その様子を見た藤原が園部の結わいたロープのところへ行った。藤原はロープの結びを見るなり思い切りロープを引っ張った。するとロープは何度か引っかかりながらも最後はするすると解けた。藤原はロープをまた所定の場所に掛けて結わき直した。その様子を見た園部が声を上げた。
「なんだよ、藤原さん。わざと解かなくてもいいじゃない」
藤原が園部に歩み寄った次の瞬間、園部の顔面に藤原の拳が飛んだ。
「このロープには命かかってるんだ!」
吹っ飛んだ園部は、倒れたまま目を丸くして驚くだけだった。そこに電話を終えて戻ってきた菊池は倒れている園部を見て、何やってんだと言い、藤原に目をやった。藤原は何も言わず作業の準備を続けた。雄二はその場でただ立っていることしかできなかった。


 仕事を終えた藤原と雄二は、車で会社に帰る道を走っていた。運転する藤原も助手席の雄二もずっと黙ったままだった。信号待ちで藤原がサイドブレーキを引いた。そして結んでいた口をゆっくりと開いた。
「田舎は、どこ」
屋上で怒鳴って以来の藤原の言葉だったが、それはあまりにも唐突な質問だった。雄二は答えるのに時間がかかった。
「・・・四国です」
「四国の、どこ」
「高知です」
藤原の質問は終わった。信号が変わり藤原は車を出した。そしてまたしばらく走ってから、藤原が雄二に聞いた。
「仕事始めて、どれくらいたった」
二度目の質問に、雄二はすぐに答えることができた。
「一ヶ月です」
「慣れたか」
「はい、あ、いや、まだ・・・」
「俺もだ」
俺もだ?藤原さんが、仕事にまだ慣れていない・・・?雄二には藤原の言葉の意味がよくわからなかった。沈黙が続いた。雄二がやっと自分から口を開き、藤原に聞いた。
「この仕事・・・、ずっと、ですか」
「前はサラリーマン」
すぐに返ってきた藤原の意外な言葉に雄二は驚いた。
「え?じゃ、なんでこの仕事に・・・?」
「なんで、か。言わなきゃ、だめか」
「あ、いや・・・」
「お前はなんで、この仕事なんだ」
「なんで・・・」
「うまく言えないか。そこに窓ガラスがあったから、とでもしておくか」
藤原が少し口元を緩めた。
「そうしておけ。面倒くさいからな」
「はい、あの・・・」
それから藤原は口を閉ざした。雄二は、藤原の運転で進む車の前方を見ているしかなかった。
 雄二は部屋に着き、小さなテーブルの上にGパンのポケットから出した携帯を置いた。携帯は電源が切ってあった。田舎を出てから電源を切る癖がついていてオンにすると留守電マークが出た。西野亜子だった。
「まったく、そのケータイどうなってんの。全然つながらない!バッテリー切れてんじゃない?もうスマホに変えたら?とにかく、このあいだ言ってた子と連絡取れたので、会う日決めましょう。高見君はいつがいいですか。あとメールアドレス聞くの忘れてました。教えてください」
雄二は亜子の留守電を聞き、あの時後輩と偶然会った話は聞いたが、一緒に会う約束をした覚えがなく、面倒くさいことになったと思いため息をついた。


      *

アパートに帰ってきた藤原は酔っていた。水道の水をコップ一杯飲み干し部屋に寝転がる。藤原はズボンの後ポケットから財布を出す。財布の間には定期入れの部分があり、藤原はそこに入れていた小さな紙片を取り出した。それは切り取られた写真で、小さな女の子が写っていた。藤原はその写真をしばらく見て、また財布にしまった。



      5

 土曜日の夕方、雄二は渋谷駅の前にいた。厳しい残暑の中、群れをなしてうごめく人、人、人。途切れなく続く車の流れ。その人と車が交互に溢れるスクランブル交差点。その周りにびっしりと立つビルは広告の幕や看板で埋め尽くされている。正面と左右のビルの三面で巨大な映像が映し出され、大音量の曲がバラバラに鳴り響く。雄二はこの大都会の真っ只中の喧騒を全身で感じていた。
しばらくすると駅の方から人混みをかき分け、明るいグリーンのワンピースの西野亜子が雄二のところにやってきた。
「ふうーっ、暑いな今日も!高見君、後輩の子から連絡あって十五分遅れますって。だからちょっと待って。しかし人だらけだね!って、私たちもその人だらけの中の一人だけど」
西野が人で埋め尽くされた周囲を見回す。雄二はビルの大きなビジョンに映し出された女の子に目をやった。その時、若い女性が亜子の名前を呼びながら、駆け寄ってきた。
「亜子さん!」
「あ、美咲!」
亜子がその青いニットに白いスカートの女性を見て声を上げた。女性は肩まである髪を揺らして亜子に頭を下げた。
「遅れてすみません・・・」
亜子は笑顔で女性の肩に手をやり、雄二のほうを向いた。
「いいの、いいの。あ、高見君、こちら村井美咲。この間話したバスケ部の後輩ね。美咲、この人高見君、クラスの同級生」
紹介を受けた女性が、その大きな目で雄二を見た。
「はじめまして、村井美咲です。遅れてすみませんでした」
自分にも頭を下げる美咲に、雄二は声を出さずほんの少し会釈をした。
「じゃ、行きますか」
亜子は美咲の肩をたたきながら、雄二に歩き出すよう目配せした。

亜子が予約したアジアンフードバーは、大勢の若い男女の客ですべてのテーブルが埋っていた。その奥の方のテーブルに三人は座った。雄二がビール、亜子と美咲は白ワインを店員に頼んだ。乾杯をした後、料理のオーダーと喋る話題は亜子が一人で担った。亜子は高校時代クラスが一緒だった雄二の人となりを美咲に話した。雄二は自分から話す事は何ひとつなかった。
「ほんとうに喋らない人なの、この高見君って人は。うんとか、いやとかしか言わない。二年のとき席が隣になったことあるんだけど、テストってみんなテスト用紙に向かって下向いてるじゃない。この人、ずっと横向いてるの、窓の外見て。答えなんかほとんど書かないまま提出よ。でもね、答えがわかんないんじゃないの。ただやりたくないだけなんだ、この人は。頭は悪くない。私にはわかる。この人の机の中にあった文庫本見たら、堕落論。坂口安吾よ。美咲、坂口安吾知ってる?」
亜子の問いに美咲は首を傾げた。
「坂口、アンゴ?いいえ・・・」
「まあいいわ。だからね、話すの下手だけど、悪いヤツじゃないから、この人。で、今は高いビルの窓を拭いてるんだ。この人すごいよー、あんな高いところでよく怖くないよね。ほんと、すごいと思う」
「ビルの窓・・・?」
雄二は美咲の大きな目が自分の方を見たのを感じたが、目を伏せたまま合わせなかった。
「教えてあげなさいよ、高見君。自分のことは自分で言ったら?キミの自己紹介を何でわたしが・・・」
「別に・・・」
紹介なんかしてくれなくても、と雄二は言葉を続けようとしたが、そこに店員がやって来て、お待たせしましたと生春巻とチキンと香草のサラダの二皿をテーブルに置いた。さあ食べよう、結構いけるよと亜子がそれぞれの料理につけるソースの説明をしてから、美咲の顔を見てまた話し出した。
「ゴメンね美咲、喋んない人紹介しちゃって。でも同じ高校出身だから安心でしょ。東京ではね、一人でいるより知ってる人がいた方が絶対いいから!」
「あ、いえ・・・、私の方が、すみません、迷惑なんじゃないかと」
「何言ってんの。最初は誰でも知らない同志から始まるのよ。そこから知り合って友達になったり、恋人になったりしていくんだから」
「そんな・・・」
美咲は亜子の言葉に目を伏せた。
「そんな、じゃなくて。同じ高校出身でそれぞれの理由で東京に来て、それもこんだけの人の多い東京でよ、偶然に出会うなんてある?この出会いは大事にした方がいいんじゃい?あなたとは休みの日、代官山でバッタリ。こっちはある日突然私の会社の窓の外にぶらさがってたんだよ。時期を同じくしてこれ、どういうこと?何かのシンクロじゃなくて、何だっていうのよ。だからこうやって会ってるの。私とだけじゃなく、あなた達もつながってるのよ、なんかきっと」
亜子は美咲の話を雄二に始めた。
「この子ね、わたしが三年の時バスケット部の後輩で一年生だったの。気がつく子なの、美咲は。ジャージ片付けたり、ドリンク準備してくれたりね。そこに気持ちがあるのよ。ただやってるんじゃなくて気持ちがね。だからけっこう面倒見たんだ。いっぱいおごったよね、ジュースとかアイスとか」
亜子先輩の言葉に、美咲はきちんと頭を下げた。
「あの時は、いろいろありがとうございました」
「ごめん、こういうのを恩着せがましいって言うんだよね。で、美咲は今、コンビ二のバイトしながら、これからってとこだよね。そういうことでよろしくね、高見君」
突然の亜子の振りに、雄二は何を言われたのかわからなかった。
「何が・・・?」
「これだよ。ね、美咲。これからも高見君と会いなよ。高見君も美咲と会ってあげて。私がいなくてもね。えーっと、美咲の携帯番号は・・・、高見君、美咲の携帯番号送るね。美咲、この人まだガラケーなんだよ」
美咲はスマホで指を動かす亜子に何も言えず、雄二を見てちょこんと頭を下げた。雄二もどうしていいかわからず、ビールを一口飲んで賑わう店内に目をやるしかなかった。


 「ありがとうございましたー」
美咲はコンビニのレジで客に明るく挨拶をした。美咲は客が店内にいなくなったのを見計らって、入り口外のゴミ箱の片付けに出た。そしてふと道路の反対側のビルを見ると、そこには屋上からのロープづたいに窓ガラスを清掃している作業員の姿があった。美咲は大きなポリ袋を持ったまま、空中で行われているその仕事に見入っていた。
 
 仕事を終え車で事務所に帰る途中、雄二の携帯が鳴った。雄二は運転する田川に会釈をして電話に出た。
「あの、わたし村井と申します。先日亜子さんの紹介で・・・」
「あ・・・」
雄二は美咲の声に面食らった。先日三人で会った時、亜子から美咲の携帯番号を教えられただけで、向こうからかかってくるとは思っていなかった。
「あの、突然ですみません、亜子さんから電話番号を聞いて・・・」
「・・・そう」
多分亜子が電話をしてみなさいとでも言ったのだろう。
「今日、高いビルの窓ガラスを拭いている作業の方を見たんです。大変なお仕事なんですね。あんな高いところで」
「いや、俺は・・・」
「もう、すごいなって思って・・・。私、今のコンビニのバイト始めて二ヶ月なんです。でも、難易度が違いすぎます」
「そんなことは・・・」
運転する田川が、とがめるように雄二を見た。
「あ、今、車なんで」
「ごめんなさい!またかけます。いやあの、また、かけてもいいですか?」
「ああ、はい。」
雄二は携帯を切った。田川がじろりと雄二を見た。
「女か?」

 雄二と田川は歌舞伎町の居酒屋で飲んでいた。田川は相当酔いがまわっていた。その証拠に田川は同じことを何度も聞いてきた。
「なんだなんだ、高見。おとなしそうにしてて、実は女がいるだって?」
「高校が、同じなだけで。同級生の後輩です」
「なんだかようわからんが、要はお前の女なんだろ?」
「違います」
「じゃ、何なんだよ!」
「・・・田舎の、知り合いです」
「へっ、知り合い。俺だってな、ちょっと前までいたんだ。結婚をな、しようって女が!ただな、ちょっとしたすれ違いがあってな・・・」
「すれ違い・・・」
「なんだお前、バカにすんのか。ちょっとしたすれ違いだったんだよ、ほんとうに。俺の好きだって気持ちと彼女の好きって気持ちが、ちょっとだけ違ってて・・・」
「そうなんですか」
「お前、俺をバカにしてんだろ、このヤロー!」
「してないです」
「お前もあの藤原と一緒かっつーの。そうやって喋んないで、人のことばっかり見てやがって」
「藤原さんは、そうなんですか」
「そうなんですかって、藤原見てりゃわかんだろ。園部殴ってやめさせちゃって、会社には言えないけどいくらなんでもまずいだろ。あの人、何か問題あるんだ、きっと」
「問題?」
「わかんないけどさ。あの歳で一人もんだろ。何かあるんだよ。付き合い悪いしヤツのプライベートはほんとわかんねー。会社に来る前に何かやらかした、前科者だったりして」
「前科者・・・」
「そうだお前、この会社に来る前にばったり会ったろ、あっちにあるピンサロで。なんでお前いたの、あそこに。犬抱いてなかった?」
「いや、ちょっと、頼まれ事で・・・」
「なにー、店の子と知り合いなの?知ってんなら紹介しろよ。よし、これから行こうぜ」
「そんなんじゃないです」
「なんでもいいよ。行こ行こ、ここは俺が払ってやるからな」
田川は伝票を持ってふらふらと立ち上がった。

 雄二が部屋に着き携帯を取り出すと、また電源を切っていたことに気づく。オンしたとたんにコールが鳴った。出ると西野亜子が大きな声が聞こえた。
「こらこら、ケータイまたつながんないよ、ぜーんぜん。どうなってるの?そのガラケーいいかげんスマホに変えた方がいいんじゃない」
「何だ」
「話したんだって?美咲と」
「電話が来た・・・。番号教えたのか」
「いいじゃない、どうせそっちから電話するわけないと思ったから美咲に教えといた。美咲、ビルの窓拭きの仕事初めて見て、すごいって言ってた。高見さんもやってるんですよねって。」
「別に・・・」
「ねえ、高見君。会ってやってよ、美咲と」
「そっちが会ってやればいい」
「違うの。私は確かに美咲の先輩だけど、女同士じゃない?男の意見とか物の見方とか必要なんだって。こんな東京に一人で出てきて、まだ危なっかしいんだから。それに美咲、まだ何をやっていこうっていう目標が見つかってないんだ。何がしたいとか、何になりたいとかっていう。そういう時って、なんかこう、ふらつくから、人って。心配なの美咲のことが。」
「俺もふらついてる」
「あなたは男でしょ!いやでも自力で生きていかなきゃしょうがないんだから。とにかくこれも出会いなんだから、会ってあげてね、美咲と。話が合えば付き合ったっていいんだから。じゃあね、よろしくね」
亜子の電話は一方的に切れた。雄二は部屋の真ん中で寝転がった。雄二は渋谷で会った美咲の大きな目とその笑顔を思い出して、ため息をついた。



       6 

 十月の青空に高く浮かぶ雲がビルの窓に映る。雄二は十階建てのビルのガラスをワイパーで拭いていた。一枚終えては下の階へロープを伝って降りる。手際の良くなってきた雄二の仕事ぶりを、藤原が横で見守っていた。

雄二のその日の夕食は、大型のカップ麺だった。雄二はテーブルに置いたカップ麺を前に座り込み、携帯の時計表示を見た。3分経過、とおもむろにフタを開け上がる湯気に、割り箸をさして食べようとしたその時、携帯が鳴った。
「もしもし」
「あ、村井です」
美咲の声に雄二は、亜子と話したことを思い出した。
「先日はお忙しいところ、すみませんでした」
そして、車の中だといって美咲の電話を切ったことも思い出した。
「いや・・・」
隣の先輩がうるさかったから、と雄二は言おうと思ったが、やめた。
「あ、今、大丈夫ですか?」
雄二は湯気の出ているカップ麺のふたを閉じその上に割り箸を置いた。
「あの、高見さん、お台場って、知ってますか?」
「聞いたことは」
「そうですか。わたし、まだ行ったことがなくて。あの、今度いっしょに、いかがですか」
「お台場に?」
雄二はその地名を聞いたことぐらいはもちろんあるが、そこに行くなどまったく考えたこともなかった。美咲は話を続けた。
「はい、お台場はレインボーブリッジが、見えるんですよね・・・」
雄二は、この流れの察しがついた。
「・・・西野だろ」
いきなり亜子の名前を言われ、美咲がたじろいだような言葉を返した。
「いや、あの、わたしが・・・」
雄二はすでに決めていた。一度だけ会えば、西野が紹介したメンツが立つだろうと。
「いつが、いい?そっちの休み取れる日」
予想外の雄二の言葉に、一瞬の間があったがすぐに美咲の明るい声が返ってきた。
「高見さんの、都合のいい日でいいです。わたし、合わせられるんで・・・。大丈夫です、いい日言ってください」
じゃあと言いながら、雄二はカップ麺のフタをめくり食べ頃の時をあきらめた。


 新橋、ゆりかもめ改札前に雄二は立っていた。駅のデジタル時計は13:45を表示していて、待ち合わせの時間から15分が過ぎていた。すると、向こうから白いセーターの美咲が小走りでやって来た。
「すいません、遅れました」
雄二はいや、と言って、美咲の息が落ち着くのを待った。
 動き出したゆりかもめは、進んでいく感じが電車と違って軽く柔らかかった。窓外に群がって立つビル群の間を抜けると東京湾が開け、レインボーブリッジが見えてくる。ゆりかもめは大きく一回りしたレールの上を進む。美咲はそうして見える湾岸の立体感溢れる景色に見入った。
「すごいですね、東京って。こんなすごいところだなんて・・・」
横に座っていた雄二も美咲と同じ思いでこの景色を見ていた。
雄二と美咲は、ゆりかもめをお台場海浜公園駅で降りた。そしてなぜかここにある自由の女神像の辺りからあらためてレインボーブリッジを眺め、それから家族連れや若いカップルで賑わうモールを歩いていった。その間もほとんど黙ったままの雄二に、美咲が話しかけた。
「高見さんは、どこに住んでいるんですか?」
「新大久保」
「新、大久保?」
その地名は初耳という感じで繰り返した美咲に、雄二は言葉を足した。
「新宿の隣」
「そうなんですか。すごいですね、新宿の、隣だなんて・・・」
「駅でいうと隣っていうだけで、新大久保はまるでアジア、それも韓国コリアンタウンって言われてる。住んでるのも働いているのも、みんなほとんど韓国人だって」
雄二の説明にそこがどんなところか想像もできない美咲は、違う質問をした。
「そうなんですか・・・。どうして、そこに?」
「部屋探していたら、不動産屋に、先々取り壊しになるのがあるって言われた。だから家賃安いし、とりあえず。そこが新大久保っていうところだって、後から知った」
「そうなんですか。高見さんはどうして、東京に来たんですか?」
「東京に、どうして・・・?」
雄二は美咲の質問に戸惑った。
「あ、すみません!」
美咲があわてて謝った。雄二は返す言葉を考えていた。
「どうして、か・・・」
「あの、いいです。すみません、立ち入ったことでした」
美咲はもう一度雄二に謝った後、目線を上げた。
「あの、あれに乗ってみませんか?」
美咲が指差した先、建物の向こうの空には、巨大な観覧車があった。

 真下から見上げる観覧車は本当に巨大で、地上から一番高いところで100メートルを超しているという。雄二は仕事柄ビルの高さに置き換えてみる。それはだいたい三十階くらいで、向こうに見えるテレビ局のビルと同じくらいの高さだ。しかし眺めを楽しむためだけに高い空に向けてよくこんな大きな輪を作るものだと感心はするが、この回転の遅さは東京には不似合いだと雄二は感じた。観覧車の下で搭乗を待つ人の列は後ろに長く続いていた。それを見た雄二は、美咲に言った。
「大丈夫?」
美咲は観覧車を見上げながら言った。
「高いところですか?うーん、上がってみないと・・・。でも、座席が全部囲われているし、大丈夫だと思います。だけど高見さんのお仕事は、やってみろと言われてもとっても無理です」
雄二は自分の意見を手短に言った。
「そうか、俺は待つのが無理。これじゃいつまでたっても・・・。今日はやめておこう」
行列を見ながらはっきり言った雄二の言葉で、美咲は自分の勘違いに気がついた。
「あ、そうですね・・・、じゃ、また今度」
列を離れて足早に歩き出す雄二の後に、美咲は遅れないように小走りでついていった。


 仕事帰りに雄二は焼鳥屋にいた。その雄二の横で藤原がチューハイを飲んでいた。雄二は仕事に就いて初めて、藤原に一杯飲んでいくかと誘われたのだった。飲むだけで何も喋らない藤原に、雄二はチューハイをごくりと飲みジョッキを置いておもむろに聞いた。
「あの、お台場って、行ったことありますか」
「お台場・・・、いや、ない」
「そうですか」
雄二は二人の間に置かれた皿の上のネギマに手を伸ばした。藤原が聞いた。
「お台場がどうした」
「いや、ちょっと、行ったんで」
「そうか」
話はそれで途切れ、また、ただ飲むだけの時間が過ぎた。唐突に雄二が藤原に聞いた。
「藤原さんは、東京の人ですか」
「いや」
「どうして、東京に?」
藤原はチューハイを飲み干し、ジョッキを上げてカウンターの店員にもう一杯頼んだ。
「聞かれたか」
「はい?」
一瞬、雄二は藤原の言っていることがわからなかった。藤原が続けた。
「一緒にお台場に行った人に、そう聞かれたか。どうして東京に出て来たのかって」
「あ、いや・・・」
雄二は一発で急所を射抜かれた。
「自分が分からないことを、人は人に聞いてみる。まあ、一緒に行った人はお前に少しは興味があったんだな」
「そんな、俺は・・・。その子は田舎で同級だった奴の後輩で・・・」
「俺はその人が誰かとは聞いていない」
藤原が雄二を見て、少し口元を緩めた。少しいらついた雄二はチューハイをぐいと飲んで空いたジョッキを掲げ、もう一杯と店員に頼んだ。

 雄二は知らない部屋で目を覚ました。身体にタオルケットが掛かっている。湯が沸いている音が聞こえてきた。体を起こして部屋の向こうを見ると台所に藤原が立っていた。ここは自分の部屋ではなく、藤原の部屋だった。雄二は、おはようございますと、しゃがれた声を出した。インスタントのコーヒーを入れようとしていた藤原が振り向いて、おう、と応えた。
「すいません。迷惑かけちゃって」
「何が」
「飲みすぎました・・・」
「そうか」
 雄二は起き上がってトイレを使わしてもらった後、部屋の窓を開けた。窓の向こうには少し離れて隣の二階建ての建物が見えたのでこちらも二階だと分かった。そして雄二は掛けてもらったタオルケットをたたみ、押し入れを開けていいか藤原に聞いて、中にしまおうとした。その時、横のテーブルの上をタオルケットがかすめ、置いてあった藤原の財布を飛ばしてしまった。雄二が財布を手にすると中に定期入れの部分があり、そこに小さな写真が入っていた。写っていたのは、小さな女の子のようだった。雄二はあわてて財布をたたみテーブルの上に置いてタオルケットを押し入れに入れた。藤原が両手にコーヒーを持ってきて、雄二にテーブルを真ん中に出すように言った。雄二はテーブルを動かし、正座して、すいませんと頭を下げた。藤原が財布をテーブルの横に置いてコーヒーを啜りながら言った。
「覚えてるか」
「何ですか」
「今度はお前の方からも電話してみたらどうだ」
「藤原さんにですか」
「馬鹿か。彼女にだ」
「彼女・・・?」
藤原が何を言っているのか、雄二にはさっぱり分からなかった。雄二のぽかんとした表情を見て藤原があらためて話し出した。
「普段のお前より熱い、もう一人のお前が飲みながら言っていた。何で俺なんかと、何で俺なんかとってな。いいじゃないか、お前でも」
「いや、俺はただ、会ってやってと言われて・・・」
「昨日も聞いたけど、その子が嫌いか」
「別にそういうんじゃ・・・」
「じゃあ、いいだろう。お前は人に会うのは面倒だと言っていた。その人のことを気にするようになるかもしれないからってな。お前はその子のことを気にしている」
藤原は昨夜雄二が言ったことを話した。雄二には覚えがなかった。そして藤原はもうひと言加えた。
「たぶん向こうも、気にしてる」
雄二は昨夜の酒が残っている重たい頭を抱えた。

 藤原の部屋から帰ってきた雄二は、昼間を部屋で寝転がって過ごした。夕方、さすがに腹がすいてきて何か食べる物を買いに外に出た。しばらく歩いて立ち止まり、雄二はハーフパンツのポケットから携帯を出した。

 美咲のバッグの中で着信音が鳴った。急いで出ると、その声に美咲は驚いた。
「あ、あの、高見ですけど」
「高見さん!?」
雄二から電話があるとは思いもしなかった美咲は、とても戸惑った。
「この間は」
「すみません、何か、電話してもらって・・・」
「いや、あの・・・」
美咲は雄二の次の言葉を聞くのが急に恐くなり、自分から何か話を切り出さなければと思った。口をついて出た言葉は、自分でも思いがけないことだった。
「いえ、あの、わたし、そちらに・・・、新大久保に行ってもいいですか?」
「え?」
雄二は一瞬、何か聞き間違いをしたかと思った。
「亜子さんに言われたんじゃありません。こないだのお話で、新大久保にちょっと行ってみたくなりました。どんなところなのか」
「こんなところ、来たって・・・」
「まるでアジア、なんですよね」
美咲の明るい言葉に雄二は押され、頭を激しく掻いた。結局最後は美咲と会う日を決めて雄二は携帯を切った。会わなければ終わるのにと雄二は思った。藤原の言葉が聞こえてくる。たぶん向こうも、気にしてる。雄二は美咲との間がこれからどうなっていくのか、まったく分からなくなった。
 
 雄二は腹がすいていることを思い出し通りを歩いた。ある韓国料理店の前に出ているビビンバという手描きのマンガのような文字に目が止まり、入ってみることにした。
ガラスのドアを開けると、いらっしゃいませえー、と声がかかった。雄二はその言葉に微妙な発音の違いを感じた。店内には4人掛けのテーブルが6つあった。客は奥の席に年のいった女性が二で人しゃべっていた。雄二が一番手前のテーブルにつくと、奥から若い女の子が水を持ってきた。その子は髪をひっつめにして、切れ長の目をした整った顔立ちをしていた。何にしますかと聞かれ、その発音からやはりこの子は韓国人だと雄二は思った。女の子がまた、何にしますかと聞くので、表で見た、ビビンバっていうの、いいですかと言ったら、もちろん、いいですよ!と女の子が応えた。その明るい笑顔に、雄二は慌てて目を伏せた。



      7

 待ち合わせの10分前の1時20分、美咲は新大久保駅のプラットホームに立っていた。山手線が左右何本も到着しては発車をしていく。スマホの時刻が13:30を示した時、美咲はやっとホームを歩き出し、ゆっくりと階段を降りた。そして改札の方をのぞいて見る。雄二の姿が、見えない。その時、美咲の胸に強い動悸が起きた。美咲は身体を戻して階段の壁にもたれ胸にバッグを抱いた・・・。
雄二は新大久保駅の改札口の横の方で美咲が来るのを待っていた。駅の時計は1時35分、雄二は改札の前に立った。
美咲はまた改札の方をのぞいた。そこに腕組みをしている雄二の姿が見えた。美咲は何度も深呼吸を繰り返して、動悸がおさまるのを待った。
雄二は小走りで改札に向かってくる青いワンピースの美咲に気づいた。
「すいません、また遅れちゃって・・・」
美咲は後ろで一つにまとめた髪を揺らして頭を下げた。
「いや。行こうか」
雄二は謝る美咲に首を振り、通りの方に歩き出した。
 
 雄二と美咲は、駅前の大通りを端から端までゆっくりと見て回った。そうして一通り歩いたところで二人は公園に寄った。ベンチに座りペットボトルのお茶を手にした美咲が言った。
「あっちの通りは楽器屋さんがあって、こっちはやっぱりコリアンタウンでしたね」
缶コーラをごくごくと飲んだ雄二がふうと一息ついて言った。
「仕事の行き帰りに駅前通るだけで、この辺り全然見てなかった」
「そうなんですか、ハングル文字がいっぱいです」
「記号みたいで全然読めない。韓国っていっても、焼肉しか知らない。ロースとカルビ」
「トッポギとかマッコリとか、ほんとに分からないです。ああ、通りのお店に出てましたけど、韓国の芸能人ならちょっと知ってるかな。音楽で、結構日本で活躍している人たちがいますよね」
「全然知らない。音楽聞かないから」
「そうですか」
「しかし歩いてる人もアジア系多いし、店の呼び込みも韓国人だろ、あいつら。まるで自分たちの街みたいに住んで商売してる。ここは日本だって」
雄二のきついひと言に、少し間を置いて美咲が聞いた。
「あの人たち、迷惑、ですか?」
「え、迷惑って・・・」
雄二は美咲の言葉に面食らった。何か特別な意味合いを込めたわけでもなく、ただちょっとした文句を言ってみただけだった。美咲は自分のことを話し出した。
「わたしも、迷惑な人なのかもしれない。東京に出てきちゃって、亜子さんに迷惑かけて。高見さんにも・・・」
美咲はペットボトルを横に置き話し出した。
「人に迷惑かけないようにって思ってるだけで、全然だめです・・・。わたし、こうやって東京にいても、何をしたらいいのか分からないんです。東京に来たら何かやりたいことがみつかるかなって、とりあえず出てきたんですけど・・・。コンビにのバイトがいやだってことじゃないんです。でも・・・」
雄二がコーラを飲み干す。美咲は話を続けた。
「小さい頃からわたしは、そこそこの子でした。これといって取り柄もなくって。それに何かやってみたいっていう思いもなかったんです。高校で進路を決めるときも、何も考えられなくって。とりあえず地元の短大に行くことにして。時間稼ぎだったんです。亜子さんには言われました。やりたいこと、ゆっくりでいいから見つけなさいって」
美咲の話を黙って聞いていた雄二が、口を開いた。
「食うため」
「え?」
「俺、今の仕事、食うためにやってる」
美咲は、雄二の言ったことに言葉が返せなかった。
 その時、ベンチの後ろの垣根でカサコソと音がした。雄二はしゃがんで垣根の中をのぞいた。
「いる」
そこにはうずくまっている猫がいた。雄二が手を伸ばし、明るい茶色の毛をした猫を抱え上げた。
美咲が声を上げた。
「猫!」
「こいつ、ケガしてる」
美咲が猫をのぞきこんだ。後ろ左足が赤く血で染まっていた。
「けっこうな傷だ」
「病院に行きましょう!」
「いてっ!」
猫がすごい顔をして雄二の指を噛んだ。


 猫を診ていた動物病院の初老の医者が、口を開いた。
「たぶんバイクか自転車に引っ掛けられたんだろう。車だったらあの世に逝っちゃってるな」
「怪我の具合はどうなんですか」
「骨折してるかもしれないからレントゲンを撮る。裂傷だけなら、治るのにそう時間はかからない」
「そうですか」
「君の方は応急処置で消毒しただけだ。後で人間の病院に行って、破傷風の注射打ってもらいなさい。猫は入院してもらわないと。よろしいですね、飼い主のお二人さん」
その言葉に一瞬、雄二と美咲はあわてた。
「いや、あの・・・。公園で見つけたんで・・・」
雄二の言葉に医者は指を白いあごひげに持っていった。
「じゃあ」
医者の言葉を遮るように、美咲が言った。
「あの、いいです。入院で。連絡は私にください。よろしくお願いします!」

 動物病院から出て、美咲が雄二に話しかけた。
「よかったです、ちゃんと見てもらえて。退院したら、飼おうかな、あの猫。これも出会いですよね!あ、でもペットは良かったかな、アパート・・・」
話し続ける美咲に、雄二が言葉を挟んだ。
「どうする」
「え?」
「駅、こっちだけど」
「あ、すいません!」
駅に着いて美咲が雄二に言った。
「猫の具合、わかったら電話します」
美咲が改札に入っていった。雄二はその姿が見えなくなった後もしばらく、そこに立ち続けていた。


 
 翌日の午前中、藤原と雄二はビルの屋上で仕事の準備をしていた。ロープをビル下へ下ろし終えた雄二が身体を起こした。そこで雄二はそのまましばらく風が冷たい曇り空の都会の風景に目をやっていた。雄二の様子を見た藤原が、何か珍しいものでも見えるのか、と声をかけた。その声にすぐに雄二は向き直って、すみませんと謝った。藤原も都会の景色に目をやり言った。
「しかし、ビルだらけ、人だらけだな」
「はい」
「人間界を見下ろす、天使の気分だ」
「天使ですか」
藤原が下をのぞくようにして言った。
「ただのちっぽけな人間だよ」
そう言って藤原は作業に取り掛かった。


 美咲はコンビニのレジカウンターの中で困っていた。窓側の本のコーナーで、中学生が二人座り込んでマンガを読んでいた。美咲は意を決して動いた。
「すみません、他のお客様もいらっしゃるので・・・、お願いします」
中学生二人は美咲の声にまったく反応しない。困り果てる三咲に赤いジャケットを着た中年の女性客が声をかけた。
「ねえちょっと」
美咲は中学生のことで文句をいわれるのかと思ったが、それは間違いだった。
「これ、ちょっとコピーしてくれない。使い方わからないから」
「あの、お教えしますので。」
「ちょっと用事があるのよ。やっておいてくれない。すぐ戻るから」
美咲は丁重なお断りを柔らかい表情であらわそうとした。しかしそれは相手に通じなかった。
「何よ。できないの。やってよ」
「すみませんが・・・」
美咲が言葉にした瞬間、相手は毒づいた。
「たかがコンビニのくせに、サービス悪いわねえ、まったく」
赤いジャケットの中年の女性客はコピーしたかった紙の束をばさばさと抱えて出て行った。美咲はその場に立ち尽くすしかなかった。

 駅を出た帰り道、美咲は立ち止まりバッグからスマホを取り出した。美咲は西野亜子に電話をしようと思ったが、開くと画面に高見雄二の名が出た。美咲は一瞬ためらったが思い切って雄二にかけてみようと発信キーを押した。
“お掛けになった電話は圏外にあるか・・・”微かな期待は、不通を知らせる音声で崩れた。美咲の目に涙が溢れ頬を伝った。

 仕事帰りの雄二は、着いた駅前で立ち止まりしばらく考え込んだ末、ポケットから携帯を出した。しかし携帯はバッテリーが切れていた。踏ん切りをつけたことが些細なことで肩透かしを食って出来なくなると、すぐに気持ちを起こし直すのは難しい。雄二はふと、前に寄った韓国料理の店でビビンバを食べていこうと思い直した。店のガラスのドアを開けると、いらっしゃいませえー、と初めて入った時と同じ声が聞こえた。


 美咲は今届いたばかりの吉報を伝えようと、コンビ二の控室で雄二に電話をかけた。
「もしもし、村井です。あの、退院できます!猫が、骨折してなくて!」
美咲はうれしさのあまり、あわてて喋ってしまった。
「そう、よかった」
雄二の言葉はとても短かったが、美咲には十分だった。
「明日わたしが、引き取ってきます」
治療代、と雄二がいいかけたが、美咲は自分で払うと言った。そして会う日を雄二に聞いた。
あさっての土曜に雄二と会う約束ができて携帯を切った後、美咲はあの夜雄二にかけてしまった電話が通じなくて良かったと思った。

 十月も終わりの晴れて穏やかな土曜日、10時50分。バスケットを抱えた美咲は、新大久保駅の改札に着いた。待ち合わせの時間は11時。美咲は公園の手前まで来て立ち止まった。見回しても雄二の姿はまだなかった。美咲は公園に入らずに辺りを歩く。スマホの時刻は11:00を表示したが、公園に雄二の姿はなかった。その時、美咲は動悸が始まるのを感じた。落ち着こうと思っても動悸が強くなる。美咲は手前の路地に入りバスケットを地面に置いて深呼吸を繰り返すが、息がうまくつけなくなってくる。美咲はその場にしゃがみ込んで目を閉じた。するとその瞬間、頭の中を閃光が走った・・・。

 「すいません、また遅れてしまいました・・・」
「いや、俺も遅れたから。・・・大丈夫か?ちょっと顔色悪いけど」
雄二の言葉に、走ってきたからと言って美咲はバスケットを差し出した。
「見てください、猫!」
美咲は扉を開け猫を取り出して抱いた。怪我した後ろ左足は一部毛が刈られ、治った傷跡が見えている。美咲が猫に向かって話しかけた。
「よかったね!わたしたちに感謝だよ。あのままでいたら、今ここにいないんだから。あの、わたしこの猫、飼おうって思ってます。今のアパートはペットだめなんですけど、コンビニで働いてる人が一時預かるくらいならっていってくれる人がいて、その間にペットOKの部屋を探します。」
そう言って美咲は雄二の顔を見たが、雄二は応えなかった。
「名前、何にしましょうか」
雄二は少し黙っていて、やっと口を開いた。
「その猫は、ここで放そう」
「え?」
「その猫はここで放してあげよう」
美咲は雄二の言っていることがわからなかった。
「せっかく治ったのに、どうして・・・」
「もともとこいつは野良猫なんだ。野良は野良がいい」
美咲の語気が強くなった。
「じゃあどうして、あの時助けたんですか!」
「あの時、ここにいたから。偶然に」
「偶然・・・」
「世の中の野良猫の生き死に全部になんか、関わっていられない」
「それはわかります。だけど今ここに・・・」
「野良猫が突然人に飼われて、いいとは思えない。放してあげよう」
雄二は美咲から猫を取ろうと手を伸ばした。美咲は一瞬抵抗したが、ゆっくりと抱いた手を緩めた。
雄二が猫を抱え直し、地面に下ろして手を離した。
猫はその場でしばらくうずくまっていたが、やがてゆっくりと歩き出し公園の裏へ出て行った。
「野良猫は、人と関わっちゃいけないんだ」
「そんな・・・」
「俺も、同じだ」
「同じ?」
「何にも関わらずに、一人で食っていければいい。俺も、この野良猫といっしょだ」
美咲は黙って雄二の話を聞いた。
「東京はめちゃくちゃ人が多い。でも周りの人は知らない他人ばかりだ。田舎ではいやでも知り合いになるけど、都会は誰にも知られなくていい。この人混みの中に埋もれた方が人と関わりを持たずに生きていける。俺が東京に来たのは、そういうことなんだ」
美咲は雄二の言葉に対して、何も言わなかった。
「俺じゃあ、見当違いじゃないか」
「え?」
「俺なんかと一緒にいたって、どうにもならない」
美咲の表情が険しくなった。
「高見さんは・・・、ひねくれています。高見さんは、ひねくれているんです。そんなひねくれ者のどこがいいんだか、わかりません!わたし、帰ります・・・!」
立ち上がった美咲は、目に涙をためていた。そして小走りに公園を出て行った。雄二は空のバスケットが置かれたベンチに座ったままでいた。


      *

 小さな女の子と母親が手をつなぎ背中を向けて立っている。女の子がこちらを振り向いた。そしてゆっくり口を開いて言った。パパ、ごめんね。パパ、ごめんね・・・。母親はこちらを向かない。その顔をなんとか見ようとするが、できない。小さな女の子が顔に少し笑みを浮かべて、また言う。パパ、ごめんね。パパ・・・。女の子に手を伸ばす。しかし思い切り伸ばしても手は届かない。母親がゆっくりとこちらを振り向いた・・・。
 
 藤原は目が覚めた。夢だった。藤原は起き上がり台所へ行き蛇口をひねる。流れ出る水の音が部屋に響いた。藤原はコップに水を入れごくごくと飲み、大きく息を吐いた。そのまま藤原は立ちつくす。夜中の部屋がまた静かになった。



      8

 カフェの入り口で白いブラウスに燕脂色のストールを羽織った西野亜子が席を見渡した。その大きな身振りに雄二が顔を上げた。
「ごめんごめん、来てもらっちゃって」
「別に」
「ちょっと、報告があってさ」
「何」
「私、転勤するの」
「どこに」
「香港」
「ホンコン・・・?」
亜子は、一年期限の香港赴任を、英語をもっと使いこなせるようにしながら、海外との仕事を覚えるということで決まったと説明した。
「それで、どう、美咲とは?」
雄二は返答をしなかった。亜子は体を起こし座り直した。
「今日来てもらった本題。美咲から手紙を預かったの。このメール、ライン全盛の時代に手紙とはね。でも、いいな。気持ちがちゃんと形になってここにある。何が書かれているかは知らないけど」
亜子はテーブルに白い封筒を置き、手を組んで雄二と向き合った。
「高見君、美咲から聞いたこと、私から言っておくわ・・・。美咲は絶対言わないと思うから。あんな平々凡々に見える子にも、とても辛いことがあったの。美咲が短大の一年のとき、付き合い始めた人がいた。そして、その彼と待ち合わせをした時、彼は免許取ったばかりのバイクで急いだらしい。それでスピード出して、道路のカーブがきついところで曲がりそこねて・・・。彼は亡くなった。美咲は自分がその人と付き合っていなければ、自分がその人と待ち合わせをしなければって、自分を責めて、しばらくショックで立ち直れなかったらしい。東京に来たのも、いろんな意味で新しい人生をはじめるため。だから、ほんとはすごく怖いんだと思うよ、美咲。だから、高見君のこと・・・」
亜子が話す間に、雄二は美咲との待ち合わせした場面を思い出していた。
 
 (新橋、ゆりかもめ改札前。通路の方を見ると、向こうから美咲が小走りでやって来た。)
「すいません、遅れました」
(新大久保駅。小走りで改札に向かってくる美咲・・・。)
「すいません、また遅れちゃって・・・」
(新大久保の公園。ベンチで待っていると、バスケットを抱えて美咲が来た。)
「すいません、また遅れてしまいました・・・」
 
 たしかに、美咲はいつも待ち合わせに遅れてきていた。それは、相手を待つ不安から逃れるためだったのか。しかし美咲は、彼を失った心の痛手から、今もまだ・・・。それを知った雄二は、コーヒーカップに目を落とした。
「何で、俺なんかと・・・」
「高見君、俺なんかとって、言わないで!私はもう香港に行っちゃう。東京で頼れる人は高見君だけなの、美咲には」
亜子が声を強めて言った。そして手紙を雄二の前に押した。
「とにかく、これ。美咲から」
亜子が席を立った。雄二はテーブルの白い封筒を見た。そこには高見様と青い文字で書かれた自分の名前があった。



 風が冷たい品川の八階建てのビルの屋上で、藤原と雄二は午後の分の仕事を終え、道具の片付けをしていた。
「案外早く終わったな」
「そうですね」
藤原はビルの先まで行き、インテリジェントビルが林立する品川のビル群の景色を見ながら雄二に声をかけた。
「高見」
「はい」
「彼女は、どうした」
雄二が藤原の横に並んだ。
「いえ、ちょっとあって・・・」
「そうか」
「何で俺なんかと・・・」
雄二がつぶやいた言葉に、藤原が片付けの手を止めた。
「何で俺なんかと、か。俺も、そうだ。俺も、女房が何でこんな俺なんかと一緒にいてくれるのかって、思ってた」
「え?」
雄二は藤原の言葉に驚いた。
「何故俺が東京にいるか、言ってなかったな」
藤原が、初めて雄二に自分の話をし始めた。
「俺は北海道でサラリーマンやってた。そこでリストラにあって会社を解雇された。俺には女房がいる。俺は東京で仕事を探すと言って家を出てきた。仕事が見つかったら東京に呼ぶと言ってな。そして・・・」
藤原は話を止め、首を振った。
「いや、違うな。正しく言うと、逃げたんだ。女房を残して俺は東京に逃げてきた。東京に来て三か月が過ぎて、俺は携帯を番号ごと新しく変えた。連絡が取れないように。俺なんかといれば、あいつは駄目になる。そう勝手に思って、俺は現実から逃げてきた」
藤原が自分の過去をさらけ出す。その言葉は雄二の胸に響いた。東京へ逃げてきたのは、自分も同じこと・・・。
 雄二は、藤原の部屋に泊まった時に見た財布の中の写真をふと思い出した。
「藤原さん、子どもは・・・、いるんですか」
藤原がしばらく黙った。そして息をふっと吐いた。
「いたよ」
いた・・・?雄二は藤原の言葉がひっかかった。藤原が続けて話す。
「女の子だった。三年前、5歳の時、交通事故で亡くした」
写真のあの子が亡くなった?あの子は藤原の子だった。そしてあの子は、もうこの世にいない・・・?雄二は呆然とした。
「すまんな。俺のことを話さないと、お前にものが言えない。」
藤原が雄二の方に向き直り、そして言った。
「関わりをすべて断ってしまえば、楽になるって思える。だけどな、それはただ逃げているだけのことだ」
藤原はふと表情を和らげた。
「自分のことより、相手と向き合え」
偉そうにな、と言いながら藤原は道具の片付けにかかった。雄二はそこに立っているしかなかった。ビルの屋上を冷たい風が強く吹き抜けた。


 夜、しんとした部屋で、藤原はテーブルの携帯を前に長い間目を閉じていた。そして目を開き、息を吐いて携帯を手に取った。ある電話番号を押す。コール音が鳴る。三回、四回・・・。七回、八回、九回・・・。
「・・・」
向こうが電話に出た。しかし、返答がなかった。藤原が口を開いた。
「俺だ・・・」
「・・・あなた」
無言の後に返ってきたのは、藤原の妻、郁子の声だった。
翌日の朝、田川が控え室のドアを開け、雄二を見つけるなり駆け寄ってきた。
「あ、高見、藤原さんがやめちゃったよ!会社に電話が入ったらしい。いきなりじゃまいるよなあ。あの人の分、やりくりつかないし。バイト入れるったって、すぐには使い物にならないしなあ。高見、とりあえず今日は日比谷の方お前一人で行ってくれ。後で応援まわすから」
雄二は現場に向かう前に藤原に電話を入れてみたが、藤原は出なかった。メールを入れようとも思ったが、やめた。雄二は、自分のことを藤原に聞いてもらう機会はもうないのだと思った。



      9

 高知駅前、短大生の美咲は、待ち合わせの場所に着いた。腕時計を見ると、5時10分前だった。彼と付き合って間もない美咲には、この約束少し前の時間が、これから会えるうれしさとほんの少しの不安な気持ちを落ち着かせるためにあるものだった。

しかし美咲との待ち合わせに向かう彼には、残された時間がまったくなかった。腕時計はすでに5時を指している。フルフェイスのヘルメットをかぶった彼の運転するバイクは、スピードをどんどん上げて走しっていく。
    
駅前の美咲の腕時計が5時を回った。彼が時間ちょうどに現れなくても美咲には何でもないことだった。しかし10分が過ぎ、15分が過ぎていくと、美咲の心はだんだん揺れ始めた。何か、彼に何かあったのでは・・・。一瞬よぎる考えを振り払うように美咲は頭を振った。美咲は、遅れてごめんと言いながらやってくる明るい彼の顔を目に浮かべた。

彼のバイクが疾走する。前方に大きなカーブが見えてくる。しかし彼はスピードを落とさずにそのカーブに切れ込んでいく。バイクはその車体を倒してカーブを曲がり切ろうとする。しかしその瞬間、バイクは道路に倒れこみそのままガードレールへ突っ込んだ・・・。
美咲は彼を待ち続けていた。時計は5時40分を回っていた。美咲はどうしていいのかわからなかった。メールは返ってこない。電話も通じない。わたしと会いたくないから?これで終わり?彼と、会えないまま・・・?
駅前でバスから降りた短大の友達が美咲を目にとめ声をかけてきた。
「あ、美咲!何してるの?」
美咲は咄嗟に平静を装った。
「ああ、ちょっと・・・」
友達は美咲の返答を待たずに言った。
「今バスで来たんだけど、途中、事故があったみたいなの」
「え?」
美咲は、頭の中で瞬間的につながったことを、また瞬時に否定した。
「何か、バイクがカーブで転倒したらしくて・・・」
続けて話す友達の言葉は、美咲自身の激しく打ち出す胸の動悸で聞こえなくなっていった・・・。

 美咲は救急病院の手術室の前にいた。うつむいたまま、何度も何度も口をつくごめんなさいという言葉と溢れ出る涙を止めることができないまま――。


 雀の声が聞こえ出した。美咲は、眠らずに朝をむかえた。テーブルの上にはまだ何も書かれていない白い封筒と便箋が置かれていた。美咲は立ち上がり、カーテンを開けそして窓を開けた。明るくなりだした辺りと朝の冷たい空気をしばらく感じていた美咲は、テーブルについてペンを手に取った。
高見様。白い封筒に青色の名前が書かれた。


      *

 五年前、高知の夏――。雄二は高校の屋上にいた。昼休みも終わり五時間目の授業が始まっている時間だったが、教室に戻る気がしなくてそのままいることにした。雄二はその場に仰向けになって寝て目を瞑った。閉じた瞼に強い日差しを感じながら、すぐに出てきた額の汗を手でぬぐった。
しばらくそのまま寝ていると、雄二は自分の方にゆっくりと向かって来る足音を感じた。先生か、それとも生徒か。その足音はすぐそばまで近づき止まった。
「何してるんですか」
聞こえてきたのは女の声だった。雄二が目を開け顔を向けると、そこには白いTシャツに下が赤いジャージのショートカットの女子がカバンを前に持って立っていた。見た目雰囲気で一年生だろうと思った。授業をサボったのだろう。雄二は応えずにまた目を瞑った。女の子がその場に座る気配がした。しかし女の子は、雄二にもう一度何かを聞くことはしなかった。そのまま沈黙はしばらく続いた。そして、女の子が二言目の言葉を呟いた。
「空が、ほんとに青い・・・」
しょうがなく雄二は目を開けた。確かに空は雲ひとつない快晴で、見渡す限りの青だった。
「こんなに青いと、何かイヤになっちゃいます・・・」
雄二は女の子に顔を向けた。女の子は空を仰いでいた。
「大丈夫か」
雄二は女の子に一言だけ言って、また目を瞑った。女の子は何も言葉を返してこなかった。また、しばらく沈黙の時が過ぎた。雄二は何故か少し気になって、女の子を見た。女の子はまだ空を見上げていた。ただその目からは、涙が流れていた。雄二が何か言葉をかけようと思った時、女の子が立ち上がった。
「何か、元気出ちゅう!」
女の子はそう明るい声で言いながら、ジャージの尻を払った。
「あたし、新城っていいます」
そちらはという顔で女の子が雄二を見たが、雄二は答えずにまた目を瞑った。
「これ、ほんの気持ちやか。さよなら」
女の子の声が近くで聞こえた。そして女の子が走っていく足音が遠ざかっていった。腹に手をやると、何か小さいものが乗っていた。それはミルキーのキャディーだった。

 後日。雨の朝、雄二はバスに乗った。いつもは自転車通学だが雨の日はしょうがなかった。中は通学の生徒でいっぱいで、雄二は中程入り口ドアの所のポールにつかまり立っていた。その雄二の背中にくっついて立っている後ろの女子生徒二人の話す小さな声が聞こえてきた。
ねえ、北高で自殺があったんだって。ええ?いつ?先週。誰なの?友達から聞いちゃったんだけど、一年の女の子だって。その子、新城っていうらしい。知ってる?知らない。で原因は何、いじめ・・・?
雄二は耳を疑った。しんじょう・・・?屋上であった女の子は、新城と言っていた・・・。雄二にあのショートカットの女の子の横顔が浮かんだ。まさか、あの子が、自殺を・・・?バスは高校前のバス停に着いた。雄二は、傘を開いて歩き出す生徒たちの流れに取り残され、ひとりバス停の前に立っていた。あの子は、北高の生徒だった・・・?なぜ、違う高校の、屋上なんかに・・・。
俺はあの時あの子に何を言った?
“大丈夫か”
あの子は、涙を流していたが、明るく言った。
“何か、元気出ちゅう!”
俺は、あの時、あの子にもっと声をかけてやればよかったのか?あの子の話をちゃんと聞いてやればよかったのか?あの子の流した涙の本当の訳を、知ってあげればよかったというのか・・・?
雄二は急に顔が熱くなり、汗が吹き出した。口の中はあの時もらったミルキーの甘ったるい味がした。そして降りしきる雨の中、雄二の目には、真っ青な青空だけが映っていた――。



      10

 雄二はあらためてテーブルの上に置いた美咲の手紙を見つめた。そこにはたった一行の文しか書かれていなかった。
“来週日曜5時、観覧車の下で会いましょう。”
携帯を見る。時刻は16:00。雄二に、藤原の顔が浮かんだ。
「関わりをすべて断ってしまえば、楽になるって思える。だけどな、それはただ逃げているだけのことだ」
そして藤原の最後の言葉が響く。
「自分のことより、相手と向き合え」
雄二は手紙をたたんで立ち上がり、ジャンパーを手にして部屋を出た。

駅に向かう途中、この間寄った韓国料理店の前にあの女の子が出ていて、ガラス扉を拭いていた。女の子が雄二に気づき、こんにちは、と挨拶してきた。雄二が軽く会釈をしてそのまま行こうとすると、女の子が引き止めるように話しかけてきた。
「どこへ、行くんですか?」
「ちょっと、用事で」
「そう、わたしも行きたいなあ」
女の子の言葉に雄二は何と言って返せばいいのかわからなかった。戸惑っている雄二を見て、女の子はエプロンのポケットに手を入れ何かを取り出して雄二に投げてよこした。雄二が受け取ったのは、ガムだった。
「帰りにでも寄ってください」
女の子が雄二に言った。雄二はその笑顔に慌てて目を伏せた。
「おーい、ミンちゃん、何やってんの?」
その時、男の声がした。その声に雄二は聞き覚えがあった。向こうから男が三人やってくる。真ん中の、赤いサテンのスタジャンに金髪の男。顔を見ると、仕事で一緒だった園部だった。園部は現場で藤原に殴られバイトをやめていた。園部が雄二の顔をのぞきこんだ。
「おや・・・、そこにいるのは高見じゃねえか?こんなところで会うなんて、ありえねえ!俺たち深いつながりがあるのかなあ。それで何か、高見。俺の先輩の妹に手を出そうってところか?それはまずいんじゃねえの!」
雄二はその場を立ち去ろうとしたが、園部の横にいたロン毛の黒い革ジャンと、坊主頭のグレーのパーカーの二人が雄二の行く手を塞いだ。
「俺はさ、お前の先輩藤原に痛い目にあわされちまったけど、俺は俺の先輩には言わねえよ。先輩には頼らずに、俺は自分で問題を解決する。ミンちゃん、店に入ってて。この男にナンパされたなんて先輩に言っちゃだめだよ。高見、ちょっと付き合ってくれる?」
ミンちゃんと呼ばれた女の子は、険しい表情で雄二を見て首を横に振りながら店に入っていった。
 雄二は二人の男に身体を挟まれ歩かされた。店の二件先の角の路地を曲がりしばらく行くと、右手に狭い空き地があった。その空き地の奥まで入ったところで二人は雄二から離れ、入れ替わるように園部が雄二の前に立った。
「お前の先輩はほんと理不尽だよな。俺にいきなり手を挙げるなんてさ。あの時俺がいったい何したっていうんだ?なあ、高見。こんなところで偶然会えたのはな、ここでお前にお返しておけってことなんだよ。恨むならお前の先輩を恨め、この野郎!」
園部は身体を右に捻りすごいスピードで身体を前に返した瞬間、雄二は下に屈んだ。園部の右の拳が空を切ったのと同時に、雄二は屈んだ体勢から園部の脇の下を潜って前に出た。雄二のダッシュは前にいた二人の意表をついた。左の黒い革ジャンはポケットの両手がすぐに出ず、右のグレーのパーカーは路地の方を向いていて振り返るのが遅かった。雄二はパーカーの方にぶつかり突き飛ばして路地へ出ようとしたが、パーカーの男の伸ばした手が雄二の腕にかかった。雄二は手にしていたジャンパーを投げつけ男の腕を思い切り振りほどき、路地へ出た。後ろで園部の怒鳴る声が聞こえ三人が追ってくる。路地を駆け抜け通りへ出た雄二の走りは、ものすごく速かった。駅に入り改札を走り抜け、ホームへ階段を駆け上がる。雄二は発車寸前の山手線の電車に飛び乗った。
 
 動き出した電車の中、雄二は肩で息をしながら自分の走りに驚いていた。そういえば小学校での走りはいつも一番で、中学では地区の大会でも優勝したことがあった。中学三年になって、ただ走って一番なんてばかばかしいと思うようになり、走ることをやめた。以来雄二は、自分は足が速かったことなどまったく忘れ去っていた。
 園部から逃れた次の難関は時間だった。待ち合わせの時間は5時。携帯はジャンパーのポケットに入れていたが、そのジャンパーは三人に囲まれた路地にある。美咲に連絡が出来ない雄二は、座っている人の時計を見て今何時なのかを知ろうとした。都合良く文字盤が見える腕時計があった。今、4時45分。雄二は扉の上の山手線の路線図を見上げた。もうすぐ電車が新宿に着く。新橋まで駅の数は、12駅。一駅2分として24分。ゆりかもめで観覧車まで20分くらいだとして乗り換えの時間を含めて、5時30分を過ぎるか・・・。雄二は亜子が言っていたことを思い出した。
「美咲は自分がその人と付き合っていなければ、自分がその人と待ち合わせをしなければって、自分を責めて・・・」
美咲は以前あった辛いことに、今向き合おうとしている。雄二にはそれが分かった。そしてこの自分とのことも・・・。
 一瞬、雄二にあの夏のことが過る。学校の屋上、赤いジャージ、一粒のミルキー。あの子の言葉・・・。
「これ、ほんの気持ちやか。さよなら」
雄二は思った。今出来ることを、するだけだ。
 電車がようやく新橋駅に着く。開いた扉から飛び出した雄二が走りだす。ホームから階段をものすごい勢いで下り、人の間を縫うようにして改札を飛び出た雄二は、外へ出て通りを渡りゆりかもめの乗車口へと続く階段を思い切り駆け上がっていった。


 美咲は、人が列をなしている観覧車の下に着いていた。十一月に入り夕暮れはいっそう早くやってきて、辺りを暗くそして肌寒くしていた。美咲はコートのポケットからスマホを取り出した。時刻は16:55を表示していた。着信も入ってない。周りを見渡しても人々の中に雄二の姿はなかった。来なければ、終わり。それが高見さんの意志。美咲にはその覚悟ができているつもりだった。でも来てくれたなら、美咲は雄二としっかり向き合おうと心に決めていた。美咲は雄二のことを思っていた。ぶっきらぼうで話もせず、人との付き合いがいやだという雄二。そう振る舞って自分の優しさや思いやりを隠そうとする雄二を、美咲は思っていた。それなのに、言い合いで別れたあの時が、あの時が最後のままでいいのか。美咲はそう問いかけてくる自分自身の声を素直に聞いた。
 そして美咲にはもう一つ向き合わなければならないものがあった。それは、突然の激しい動悸ともに美咲の中にあらわれる、“あの光景”だった。付き合い始めたばかりの彼を亡くしたことに対する、自分を責め苛む心・・・。自分がそこから立ち直らなければ、次の一歩を踏み出していくことが出来ない。これからの人生を生きていくことが出来ない。美咲にはそのことが分かっていた。

 雄二は台場駅を目前にして乗客に時刻を聞いた。もうすぐ5時30分。観覧車に一番近いのは青海駅だが、ゆりかもめはそこまでにもう二駅遠回りをする。その時間を考えたら走った方が速いと雄二は思った。雄二は台場駅に着くなりゆりかもめを飛び出した。 

 美咲の胸が動悸を打ち始めた。美咲は列を離れ、下に降りる階段のところまで何とか歩き、そこにうずくまった。しかし動悸はどんどん早く、強くなってくる。呼吸が、うまく出来ない・・・。その時、美咲の頭の中に閃光が走った。
(スピードを上げるバイク・・・。バイクがそのまま大きなカーブに切れ込んでいく・・・)

 雄二はイルミネーションが灯った大観覧車目がけて走った。太腿がきしむ。息が上がる。それでもかまわず、持てる力の全部を出して雄二は走り続けた。

 美咲の胸の動悸はさらに激しくなり、身体が震え出す。頭の中でまた閃光が走る。
(バイクは車体を倒してカーブを曲がる。その時突然バイクが道路に倒れこみ、そのままガードレールへ突っ込む・・・!転倒したバイクから放り出されたのは・・・)

観覧車に続くデッキの上を走った雄二は、やっと乗り口の前に着いた。そしてそのまま順番待ちの人の列をくまなく見て回るが、美咲はいない。雄二は辺りを見回した・・・。

 意識が遠のく美咲に、自分を呼ぶ声が微かに聞こえた。
(どうした!)
今度は声が近くで聞こえる。
(どうした、美咲!)
体がしっかり抱かれ起こされる。もうろうとする意識の中見えてきたのは、激しく肩で息をする雄二の顔だった。
「大丈夫か!」
 来てくれたんですね、と美咲は言おうとしたが、声にはならなかった。

 雄二と美咲の乗る観覧車が、暗くなった空に向かってゆっくりと上がっていく。近くの建物に入ってしばらく休み何とか落ち着きを取り戻した美咲が、どうしてもと望んだことだった。美咲が窓に身体を寄せ、外に顔を向ける。
「大丈夫か?」
雄二の言葉に美咲はこくりとうなずき、外を見渡した。
「きれいですね。ほんとに、きれい・・・」
雄二も外に目を向けた。そこには、ゆっくりと空に上がっていく観覧車が見せる、絶景が広がっていた。
「いつも高いところにいるけど、こんなのは・・・」
美咲が雄二を見て微笑んだ。
 夕暮れ時が終わり都会はすべてのものに明かりが灯り、これから来る夜を迎えようとしていた。真下には吊り橋にライトが点々と光るレインボーブリッジ。行き交う車の白いヘッドランプ、赤いテールランプの流れ・・・。目を上げるとライトアップされた赤い東京タワー、そしてその向こうの方には落ち着いた青い色を灯しているスカイツリー。ありとあらゆる建物の窓の光、街灯、高層ビル、その屋上に明滅する赤色灯。そして遥か空の上に光輝く、三日月。夜の東京に広がる、すべてがまばゆいばかりの光のパノラマ・・・。
 雄二は思った。田舎高知の遮るもののない真っ青な空と海。昼間仕事で見る東京のどこまでも続くビル群。そしてこの光あふれる湾岸の夜景・・・。果てしなく広がっているこのパノラマの世界の端っこで、自分は、なんとか、生きている。そして、美咲も・・・。
「よかったです。一緒に乗れて・・・」
つぶやく美咲の横顔を見つめて、雄二はまた光の夜景に目をやった。
 
 雄二と美咲を載せた観覧車は、大都会東京の冴えた夜の空を、静かに、ゆっくりと回った――。

                               

                              (終)

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