吐き溜め② 代官山駅と『空洞です。』

代官山に降りることが年に10回程度あるかと思われる。

お洒落であることを義務付けられた街並みは少し息が詰まる。銀行のATMですらデザインを施され、街に合わせることを求められているような。落ち着いた雰囲気とは相反して、様々な飲食店やデザインが消費され流れ行く。流行。

代官山から10分ほど歩いて、恵比寿に抜けていく途中の川の向こうでは不法投棄されたものなのか、流行から取り残された風景が散見される。少々、街に酔ってしまう時分に見ると、少し息ができたように感じた。

「意味を求めて無意味なものがない」。こんなフレーズが頭から離れず、街並みを歩き眺めていた。街に意味が求められ、劣化した意味が淘汰されていく。無意味になったものは無価値になる。

この特有の行き詰まる感覚は、その意味に恣意が見えないことが原因なのかもしれない。集合体の希望が街を形成している。自治体や企業の手を離れて独自の進化を遂げながら街が出来上がっていっているような。どちらかというと地方の村に近い、住民の意思決定でその街のコモンセンスが決まっていく。そういう意味ではおもしろい街である。東京の都心にあって、周知が街の形成を左右する。

30歳を迎え、10代の頃と比べると、脂っこい食べ物が、身体に馴染まな苦なってきた。街酔いの原因も同じなんだろう。10代の頃、毎日新しいものを探しに、流行を追いかけてきた。今でも程度はあるものの、流行を知ることはしているつもりだ。

しかし、流行を享受して、自身が体験することは圧倒的に減った。その流行の脂が、今の僕には重たいのだろう。

空洞です。

それが悪いことかというと、そう悪いわけでもなく。歳をとり、様々な立ち位置から流行を眺めることができるようになった。高校生は単なる消費者として、社会人となり、社会に放り出された今は、消費者以外の目線も手に入れた。

そうして流行に意味を求める。結果、自身が一番意味を求めているのかもしれない。そんなジレンマを抱えて、街を後にする。


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